神の民は神の言葉によって生きる
2 Peter 1:19-21P. G. Mathew | Sunday, September 09, 2018
Copyright © 2018, P. G. Mathew
Language [English]
序論
神の民とは、聖霊によって新たに生まれ、真の悔い改めと主イエス・キリストへの救いの信仰によって生き、聖霊の力によって生涯聖書に従う人々のことである。霊的再生がないということは、神の言葉によって生きていないということだ。未再生の人々は霊的に死んでいる。彼らは罪の中に生きており、主なる神に対しては死んでいる。彼らは主なる神に関心がない。むしろ、積極的に罪の人生を送っている、といえる。
神の民は神の言葉によって生きる。つまり、神の言葉に従い、まっすぐで狭い道を歩み、天の国、永遠の命へと導かれる。あなたが神の民であるかどうかを知る方法、それは、神の言葉を愛しているかどうかである。神の言葉を信じ、従っているかどうかである。
2ペテロ1:19–21は、神について教える際の聖書の独自性について語っている。マーティン・ロイド=ジョーンズ博士は20世紀の偉大な説教者のひとりであるが、私も博士のもとで学んだ。「聖書だけが人の手にできる主なる神についての書である」と彼は述べている。[1]
神の言葉、暗い世に輝く光
ペテロは、こう書き始めている、「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい」(2ペテロ1:19)。神は旧約聖書と新約聖書からなる1冊の本を我々に与えてくださった。神の民が喜ぶべき言葉、無誤・無謬の言葉であり、我々を正して整え、様々な正しい判断方法を教える。
主なる神は聖書の中で我々に語っておられ、我々はその言葉に従う。主イエスは完全に聖書に従われた。これによって、我々の贖いを達成され、聖書の絶対的な権威を証明された。主イエスは言われた、「わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない」(ヨハネ8:29)。またこう言われた、「しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである」(ヨハネ14:31)。それは、聖書の教えに従うということである。父なる神に対して子の様に祈っておられる、「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました」(ヨハネ17:4)。主イエスは十字架上で我々の罪を贖うことについて言及しておられた。主イエスが十字架で死なれたとき、「全てが終わった」[テレスタイ]と言われた。何が終わったのか?即ち、父なる神が彼に与えられた働きが、その死によって成し遂げられた、ということである。
主イエスと使徒たちは、旧約聖書の預言の成就を体験した。預言者は、時がくると、救い主が現れて苦しみを受けられると言った。そして、救い主は栄光と共に再臨される、とも語った。ペテロは最初の手紙で書いている:
この救いについては、あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べた。彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕であることを示された。それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事である(1ペテロ1:10–12)。
聖書全体を通して、救い主の到来が預言されていた。最初の預言は創世記3:15にある:「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。これは、イエス・キリストによって行われた、「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった」(ガラテヤ4:4–5)。他にもイザヤ53、詩編22、イザヤ7:14(処女降誕について)、イザヤ9:6、詩編16:10(イエスキリストの復活について)など、多くの旧約聖書の預言がある。
主イエスはこれについてユダヤ人に対して語られた、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)。また言われた、「もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである」(ヨハネ5:46)。パウロは書いている、「キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証するためである」(ローマ15:8)。キリストが来られたことは旧薬聖書の約束の成就である。
ルカ24:25–27は言う、「そこでイエスが言われた、『ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか』。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」。こう書いてある、「そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、『こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民にのべ伝えられる』」(ルカ24:45–47)。
ペテロは、前節でキリストの姿が変わったことについて記録している(2ペテロ16–18)。使徒たちは主イエスが目の前で変容するのを見た。それは、栄光の主の再臨を予表している。使徒的記録は、旧約聖書の預言者たちが聖霊に導かれて預言していることと一致する。即ち、主イエスの受肉、生活、死、復活、昇天によって成就した。この論理を考えてみよ。救い主の苦しみの預言が実現したなら、救い主の栄光に関する彼らの予言もまた実現するであろう。それは主イエス・キリストの再臨の時に実現する。
知るべき一つのことがある、神は偽ることができない方だ、ということだ(テトス1:2)。パウロは言う、「あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである」(ローマ3:4)。聖書は神の言葉である。神は真理であられる。主イエスは言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)。また言われた、「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」(ヨハネ17:17)。
神の約束は成就する。パウロは書いている、「なぜなら、神の約束はことごとく、彼において『しかり』となったからである(2コリント1:20)。
悪魔は嘘つきである。彼はすべての不信者の父である。主イエスは宣言された、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ」(ヨハネ8:44)。人々が嘘をつくとき、彼らは悪魔に触発されている。だから、彼らを厳しく扱われなければならない。
創世記2で、主なる神は言われた、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。しかし、創世記3で、悪魔は言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」。悪魔は常に神の言うことを否定する。つまり、聖書の権威を信じない人は、悪魔に触発される。大学の教授、哲学者、科学者なども含まれる。
ペテロは、聖書はすべて神の言葉であるため、預言者の言葉と使徒の言葉には真剣に注意を払うべきだ、と教えている。 聖書全体が神の言葉です。ペテロは言う、「それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである」(2ペテロ3:2)。またこう書いている、「わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている」(2ペテロ3:15–16)。使徒の書簡は聖書であるということだ。
ペテロは、「暗闇に輝く光」に注意を払え、と言っている。悪魔が支配しているため、この世界は暗い場所である。ヨハネは書いている、「わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている」(1ヨハネ 5:19)。ヨハネ17章にある大祭司の祈りの中で、主イエスは世のために祈られなかった。彼は、主なる神が世の中から取り除いて彼に与えられた人々、神の選ばれた人々のために祈られたのである(ヨハネ17:9)。
世界の人々は彼らの罪と共に死に、悪魔に完全に従う(エペソ2:1–3)。偽りの宗教と偽りのキリスト教神学、そして世俗的な哲学、心理学、科学は我々に真の希望を与えない。主イエスは世界で唯一の希望であって、神の霊感を受けた書物である聖書で明らかにされている。主イエスは言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ8:12)。あなたはイエスの弟子か? でなければ、あなたは暗闇の中で歩いている。そして、最終的にあなたはつまずき、地獄に行くのである。
詩篇の作者は宣言する、「あなたのみ言葉はわが足の灯、わが道の光です」(詩篇 119:105)。パウロは書いている、「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい(光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである)主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい」(エペソ5:8–10)。
キリスト者とそうでない者との違いは何か?それは光と闇、生と死、そして天国と地獄の違いである。その違いは決して小さくない。それは、この暗い世界で我々が生活する場でも、根本的な違いとなって表れてくる。
聖書に基づく聖い生き方をする真の信仰者はみな、主イエスの言葉でこの世の光である、「あなたがたは、世の光である」と弟子たちに言われた(マタイ5:14)。 また、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」と言われた(マタイ5:16)。我々は、信仰と生活によって光輝くのだ。神ご自身が、我々を霊的に再生し、明るく光輝くようにされる。パウロは言う、「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである」(2コリント4:6)。
ペテロは言う、「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった」(19節)。パウロは、これら聖書の預言を用いて会堂で教えた。主イエスが預言されていた救い主であり、死と復活によって罪の完全な赦しと義を与えて下さる方である、と明らかにした。
このように書いてある、「パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また「わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである」とのことを、説明も論証もした」(使徒17:2–3)。救い主は罪を犯さない神であり人であるということを、旧約聖書は予言する。また、罪人のために苦しまれる神聖な方であることを預言した(イザヤ53章)。聖書の記録によると、この救い主は死んで三日目によみがえられ、彼の体は朽ち果てることはない(詩篇16:10)。これは比類のないことであると共に、我々の理性で確認できる史実である。
同様に、パウロはアグリッパ2世と他の人々の前でこのように論じている、「神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか」(使徒26:8)。即ち、創世記1:1にあるように、御自身の言葉で全世界を無から創造された主なる神について教えた。
聖霊によってペテロも聖書から論じている。ペンテコステの日に、こう宣言した、「このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである」(使徒2:23–24)。またこう記録されている、「そこで、彼らはふたりを更におどしたうえ、ゆるしてやった。みんなの者が、この出来事のために、神をあがめていたので、その人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである」(使徒3:21)。
イエスは再臨される。ペテロは最初の手紙の中で主イエスについて書いた、「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされた(救われた)のである」(1ペテロ2:24)。
使徒的メッセージは、預言が信頼に値することを明らかにしている。このように、本当に霊的に新生し、聖霊に力づけられ導かれている信仰者として、我々は聖書の光の中を歩くことによって、道徳的に堕落しているこの暗い世界に生きていくことができる。他のこのような光はない。
箴言4:18–22にあるように、「正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる。悪しき人の道は暗やみのようだ、彼らは何につまずくかを知らない。わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。それを、あなたの目から離さず、あなたの心のうちに守れ。それは、これを得る者の命であり、またその全身を健やかにするからである」。慈悲深い神は御言葉によって我々に本当の健康を与えられた。健康的な食事や生活は実際に良い効果をもたらすが、我々が最も重要とすべきことは、道徳的に堕落したこの暗い世界で神の言葉によって生きることである。
夜が明けるまで聖書に従順に生きよ
私達は、光が照り輝く「夜明けが来るまで」聖書に従う生活をすべきである。パウロは書いている、「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう」。「顔と顔とを合わせて」とは、キリストが再臨されるときを意味しており、彼は続ける、「わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」(1コリント13:12)。
死んで後、天の国に行くまで、でなければ、栄光の中でキリストが再臨されるまで、即ち、夜明けと表現されているキリストの再臨の日まで、聖書に従って生きるべきである。「明けの明星があなたの心に上るまで」である。
「夜明け」とは主の再臨を指す。この手紙の後半でペテロは書いている、「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう」(2ペテロ3:10)。へブルの著者は言う、「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」(へブル10:25)。パウロも書いている、「夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか」(ローマ13:12)。
「夜が明け、明星が上って」とペテロが言っているように、明けの明星は、イエス・キリストである。預言されている、「しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる」(マラキ4:2)。バプテスマのヨハネの父、ゼカリヤは「神のあわれみ深い御こころによって、日の光が上からわたしたちに臨む」と言っている (ルカ1:78)。黙示録では、主イエスはご自身のことを言っておられる、「わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」(黙示録22:16)。主イエスはまた言われた、「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マルコ13:26)。
あなたは、主イエス・キリストの再臨についてどう考えているか?あなたは、死んだらどこに行くと考えているか? キリストの初来から2000年が過ぎた。彼はまだ再臨しておられないが、我々の日が近づく。今日がそうかもしれない。
しかし、キリストが最初に来られた時と同じように、確かに再臨されるのだ。ヨハネはこう書いている、「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目は、彼を仰ぎ見るであろう」(黙示録1:7)。パウロも宣言する、「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず、最初によみがえる」(1テサロニケ4:16)。またこう書いている、「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである」(1コリント15:51–52)。そして、こうも言っている、「テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない。人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない」(ピリピ3:20–21)。これは、すべての真の信仰者にとっての神から来る栄光の希望である。
聖書の権威
ペテロは言う、「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである」(20–21節)。(PGM)ウェストミンスター信仰告白の最初の章で、イエス・キリストや父なる神について教えていない。神自身が私たちに語っておられる言葉、聖書の権威から始めている。
我々がこの世で知るべきことが一つである、とペテロは言っている。それは、聖書とその権威だ。聖書は、主なる三位一体の神(無限、人格的、神聖、全能性、全知、遍在、創造者、贖い主、契約を結ばれる)が絶対的権威で語っている。聖書を読み、全能の神の声を聞くことができる。
我々は神の言葉を聞き、恐れおののきながら救いの達成のために生きている。聖書は、預言者自身の理解力や才能、創意工夫や想像力によって生み出された者ではない。聖書は、信仰を待たない神学者や牧師たちが勝手に想像するような人間の産物ではない。エタ・リンネマン教授も、かつて高等批評に洗脳されていたとき、聖書が人間の産物であるとの誤った神学を唱える本を何冊も書いていた。しかし、主なる神が彼女を救ったとき、「私のすべての以前の本を焼いてください」と彼女は言った。それは、高等批評家等らが聖書の権威に反対していたからである。
マーティン・ロイド=ジョーンズ師は、この20節で教えられていることは次のとおりだと述べている、「聖書の預言は人間の私的な考えから生まれたのではない、ことを最初に理解しなければならない」[2]。そして、私は言おう、聖書は悪霊の活動の結果ではない。
エレミヤは預言における悪しき霊の活動について語っている:「万軍の主はこう言われる、『あなたがたに預言する預言者の言葉を聞いてはならない。彼らはあなたがたに、むなしい望みをいだかせ、主の口から出たのでない、自分の心の黙示を語るのである。彼らは主の言葉を軽んじる者に向かって絶えず、[あなたがたは平安を得る]と言い、また自分の強情な心にしたがって歩むすべての人に向かって、[あなたがたに災はこない]と言う』。彼らのうちだれか主の議会に立って、その言葉を見聞きした者があろうか。だれか耳を傾けてその言葉を聞いた者があろうか」(エレミヤ23:16–18)。
だから、旧約聖書と新約聖書の預言は、人の意志によって作成されておらず、そもそも人にその起源をもたない、とペテロは語っている。聖書は、神の考えが明らかにされた啓示の書である。しかし、ペテロは説明する:「なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである」(21節)。著者が御聖霊の完全な支配下において、源である神からの言葉を書いたのである。聖書の著者である人間は受動的に書いた。つまり、聖霊の活発な導きにより、人間の著者が聖書を書いたのである。そして、最終的に全体としての神の言葉として完成した。
神ご自身がモーセ、イザヤ、ペテロ、パウロなどの口を通して我々に語られる。へブル3:7が教えているように、「だから、聖霊が言っているように、『きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら』、「聖霊がわたしたちにあかしをして」おられる(へブル10:15)ということである。聖霊は聖書を通して我々に語られる。ダビデは言っている、「主の霊はわたしによって語る、その言葉はわたしの舌の上にある」(2サムエル23:2)。また、モーセは言った、「主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8:3)。ペテロも言う、「なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである」(21節)。使徒27:15、17で読んだように、風に運ばれている船のようなものである。
言い換えると、聖書は人の言葉ではない、神の言葉である。だから、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めるべきである (ピリピ2:12)。子供たち、あなたは両親に従うべきである。我々は指導者に従い、服従する。これまで何度か、我々の救いの根拠は、神であり人である主イエス・キリストの完全な義であると言ってきたが、その救いはその神の言葉に対する我々の従順が伴う。イエス・キリストに従わないなら、人々は救われない。
聖書は神の言葉である。パウロは書いている、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」(2テモテ3:16–17)。この説は聖書に関して4つのことを教えている。
- 聖書全体が神の霊感によるものである。
- 聖書の特徴は、それが神の息(テオプニューストス)であること、つまり神が語られたということ。
- 聖書から4つの方法で益がもたらされる。まず、神の道を我々に教えること。次に、罪を叱責すること。また、我々を矯正し、神の狭くまっすぐな道に連れ戻すこと。最後に、我々を義へと訓練し、神の目に正しい新しい習慣を形成することである。これらによって、神を喜んでいただける生き方を歩めるのである。パウロは言う、「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである」(ローマ14:17)。
- 聖書の目的は、すべての真の信仰者がすべての良い働きをするために十分に整えることである。パウロは言う、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」(エペソ2:10)。人間の存在目的は何か? 神に従うことである。パウロはまた言う、「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ2:12–13)。
結論
聖書だけが神の言葉である。聖書の至る所でこのような表現を認める:「主の言葉」;「主はこのように言われる」; 「主の重荷」; 「このように書かれている」。新約聖書は、旧約聖書を何百回も証拠として引用している。
聖書のすべては神の息である。聖霊はそう言っておられる。したがって、聖書の預言者たちが預言したとおりに約束の救い主が苦しむためにこの世界に来られたという史実をもとに、どういう結論に至るのか。再び栄光の中に再臨され、生きている者と死んだ者を裁きに来られる、ということ以外にない。後に、イエス・キリストは再臨され、新しい天と、新しい地、即ち、罪が駆逐された地を創られ、彼の民と天使と共に永遠に存在されるのである。これについて、ペテロは我々に言葉に表現し難い喜びと栄光に満ちた様子を予見して我々に言っている(1ペテロ1:8)。
次のことを実行せよ:
- マタイ7:24を実践し、聖書を毎日読め。聖書の中で神が我々に言っておられることを聞いて、それを行え。主なる神は、我々に乞い願ったり、懇願したりされない。主は、我々に悔い改め、信じ、愛するように命じられる。実行せよ。
- キリストの再臨を待機し、そうでなければ、この世を去って天の国に至る死の時まで、聖さを実践せよ。
- あなたの属している教会はキリストの聖なる教会の一部か?そこではキリストから送られた牧師たちによって神の言葉が説教されているか? それとも、牧師たちがお金を稼ぐためにあなたを楽しませるだけのサタンの会堂か?これについて検討せよ。
- 長老たち等や役員会から、聖書による助言を求めよ。彼らは神の民のために神の言葉を用いる神の人であるべきだ。ある者は、神の言葉が自分に対して語られることを拒否する。それを聞きたくないので、長老たちや役員会に助言を求めようとしない。
- ウェストミンスター神学校のコーネリウス・ヴァンティル教授が教える「前提条件神学弁証論法」についてなんらかの方法で精通せよ。主なる神は彼を福音の勝利者に育てられた。人間はすべて、「自分で考えるか」、それとも、ヴァンティルが言うように、「神の言葉に従って神中心に考えるか」、のどちらかである。ヴァンティルは聖書をすべての前提条件とした。彼はプリンストン神学校のこの世にまみれた合理主義に対してひれ伏さなかった。彼と他の多くの教授は、プリンストンを脱出し、ウェストミンスター神学校を設立して、聖書を正しく教え解釈した。これこそ、聖書の弁証論的解釈である。パウロは尋ねた、「神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか」(使徒26:8)。主なる神が無から全てを創造された、ということを人はなぜ理解できないのか? ヘブル書の作家は答える:「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」(へブル11:3)。無限・全能であり、三位一体であって、我々と個人的に関わられ、聖であられ、あらゆる場所におられ、全知であられる主なる神を信じることによって、理解するのであり、これは真のキリスト者の前提条件である。
- 最後に、聖書に従って生活せよ。「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(1ヨハネ1:7)。
我々が主なる神に対する畏れとおののきをもって、救いを達成するように、これを主が助けてくださるようにと祈る。
[1] D. Martyn Lloyd-Jones, 2ペテロの講解説教 (Edinburgh: Banner of Truth, 1983), 99.
[2] Lloyd-Jones, 2 Peter, 95.
Thank you for reading. If you found this content useful or encouraging, let us know by sending an email to gvcc@gracevalley.org.
Join our mailing list for more Biblical teaching from Reverend P.G. Mathew.