神の言葉の力

2 Peter 3:5-7
P. G. Mathew | Sunday, April 07, 2019
Copyright © 2019, P. G. Mathew
Language [English]

序論

ウェストミンスター小教理問答、問4「神とはどんなかたですか」対する答えは、次のとおりである、「神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです」。

神だけが無限だから、神の力と言葉は無限である。神無から全てを創造される。神は滅ぼされ、御言葉で再生される。使徒26章で、聡明な使徒パウロが神をののしる金持ちな有名人に言っている、「神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか」(詩篇26:8)。

我々の三位一体の神だけが、無限の力で御心を行われる。主権を持ち、すべてを超越し、我々と共におられる。愚か者は、「神はいない」というが、彼らは無限の力で神によって滅ぼされるであろう。真の教会で説教される神の言葉をののしって、逃げることはできない。神は彼らに立ち向かわれる。ペテロは、神の言葉は決してなくならず、生きていて、命を与え、永続する、と言っている。

神をののしる者は神の言葉によって滅ぼされる。パウロは、イエス・キリストについて言っている、「『つまずきの石、妨げの岩』である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである」(1ペテロ. 2:8; イザヤ28:16も参照)。言い換えれば、神の言葉に背く者は、神から捨ておかれる運命にある。

あざける者は聖書の真の生きた神を知らない、と詩篇74:10, 18, 22は言っている。この世界の大多数の人々は悪魔を崇拝している(1コリント10:20–22)。1ヨハネ5:19は言っている、「また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている」。彼らは永遠の破滅において神の言葉の力を経験することになる。へブルの著者はこう宣言している、「神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう」(へブル10:29–31)。

1. 神の力ある言葉が無から有を創造する(2ペテロ3:5)

2ペテロ3:5は言っている、「すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのである」。

あざける者は聖書と聖書が教える真実を嫌う。彼らは、主なる神、主による世界の創造、救いと裁きの全てを否定する。しかし、主イエスは彼らを裁くために再臨される。

主なる神を嘲る彼らの父は悪魔であり、父のように嘘をつく。主イエスは言われた、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、[すべての]偽りの父であるからだ」(ヨハネ8:44)。

あざける者は聖書の最初の言葉を意図的に忘れる、「はじめに神は天と地とを創造された」。(創世記1:1)。彼らは神に栄光を帰すことを嫌う。彼らは、赤信号に目をつぶって、事故にあう人のようなものだ。へブル書には、神が世界を創造されたことを明記されている。

創世記1:3は教える、「そして神は言われた、『光よあれ』。すると光があった」。実際、創世記1には「神は言われた」という言葉が8回出てくる(創世記1:3、6、9、11、14、20、24、26)。また、詩編33:6は言う、「もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた」。

神が語られ、無から全てを創造された。具体的にすべてを創造したのは神の御子であられる。こう書いてある、

  • ヨハネ1:3:「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」。
  • ヨハネ1:10:「彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた」。
  • へブル1:1–2:「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。御子は宇宙を創造された。
  • 1コリント8:6:「わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている」。
  • コロサイ1:16:「万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである」。

ののしる者は真実を知りながら、創造主であり、救い主であり、審判者である方の真実を見ないように押さえつけている。ローマ1:18–20でパウロは言う、「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」。彼らは、聖書に記録されているすべての奇跡、特にイエス・キリストの復活の奇跡を拒否する。このように書かれている:

1コリント1:18–19:「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に、『わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする』と書いてある」。

  • 1コリント2:8:「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう」。
  • 1 コリント2:14:「生れながらの人は、神の聖霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、聖霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」。

主なる神をあざける者は霊的に死んでいる。それこそ彼らが福音を理解しない理由だ。彼らは罪の下水道に住んでいる生き物のようで、彼の罪の働きは非常に活発で、罪が繁栄している。パウロは彼等の生き方を1コリント6:9–11で説明している:「それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである」。そのような生き方からの救いを、パウロは言っている:「あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである」。

2. 神の力ある言葉は破壊する

2ペテロ3:6は、適切に訳すと、「その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった」となる。彼らは、非常に邪悪であり完全な堕落状態にあった。しかし、これこそ、まさしくすべての不信者の状態である。以下の箇所について考えよ:

  • 創世記6:5:「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた」。これは、人間の心が完全に堕落し、知性、意志、感情が劣化していることを言っている。
  • エレミヤ17:9:「心はよろずの物よりも偽るもので、[はなはだしく]悪に染まっている。
    だれがこれを、よく知ることができようか」。
  • マタイ15:19:「というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくる」。
  • ローマ1:28:「そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思い[1]にわたし、なすべからざる事をなすに任せられた」。
  • 詩篇2:1–4:「なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事をたくらむのか。地のもろもろの王は立ち構え、もろもろのつかさはともに、はかり、主とその油そそがれた者とに逆らって言う、『われらは彼らのかせ[主権]をこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろう』と。天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう」。

神を憎む者の邪悪な世界を、神は洪水で破壊された。しかし、ノアと彼の家族は救われた。ノアは巨大な箱舟を造り、120年にわたって人々に福音を伝えが、ノアの家族以外誰も救われなかった。

当時の人々は、洪水が世界を破壊するとは信じなかった。破壊的な洪水を見たことがなく、世界は安定しているように見えた。しかし、神の計画されたとおり、洪水が来た。神は箱舟への唯一の扉を閉じられた(創世記7:16)。巨大な箱舟には、動物と4人の男性、4人の女性がいた。扉が閉じられた後、神は地上からも空からも水を注がれ、突然気候変動を起こされた!

あざける者は目に見えない主なる神を拒否していた。主は、150日間に続く洪水によって世界を破壊された。救いの箱舟に入ることを拒否した邪悪な人々はみな死に絶えた。

同じことは、罪を悔い改めてイエスを信じないすべての人に当てはまる。ヨハネ3:18–19は言う、「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである」。

創世記7は記録している、「水はその上、さらに十五キュビトみなぎって、山々は全くおおわれた。地の上に動くすべて肉なるものは、鳥も家畜も獣も、地に群がるすべての這うものも、すべての人もみな滅びた。すなわち鼻に命の息のあるすべてのもの、陸にいたすべてのものは死んだ。地のおもてにいたすべての生き物は、人も家畜も、這うものも、空の鳥もみな地からぬぐい去られて、ただノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った」(創世記7:20–23)。神は御言葉を語られ、気候変動によって地上を裁かれた。安定を妨げました。

この世界は永遠ではない。主なる神のみが無限、永遠で、個々人と向き合われ、全能で、正義であられ、清い方である。我々が畏れおののいて救われるように、主なる神が助けてくださるように。神への畏れは、我々の罪を取り除き、我々が神に従うように仕向ける。

3. 神の力ある言葉はこの世界を審判の日に裁

2ペテロ3:7に書いてあるように、「しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである」。

福音を信じない人はみな、神をあざけっている。総督フェストは使徒パウロについてアグリッパ王に話した、「訴えた者たちは立ち上がったが、わたしが推測していたような悪事は、彼について何一つ申し立てはしなかった。ただ、彼と争い合っているのは、彼ら自身の宗教に関し、また、死んでしまったのに生きているとパウロが主張しているイエスなる者に関する問題に過ぎない」(使徒25:18–19)。フェストは、イエスが犯罪者として十字架につけられたと信じていただけである。しかし、パウロの答えはこれとは対照的に、「しかし、わたしは今日に至るまで神の守りを受け、このように立って、小さい者にも大きい者にもあかしをなし、預言者たちやモーセが、今後必ず起ると語ったことを、そのまま述べてきました。すなわち、キリストが苦難を受けること、また、死人の中から最初によみがえって、この国民と異邦人とに希望を与えられるということを、力説したのです」(使徒25:22-23)。

ここにきて、フェストはパウロの反論を退けた、「パウロよ、おまえは気が狂っている」。なぜそういったのか?イエスは死から復活した、ということを信じなかったフェストは、「パウロよ!ほんとに、お前は気違いだ。博識がそうさせたのだ」と叫んだ。

パウロは言った、「フェスト閣下よ、わたしは気が狂ってはいません。わたしは、まじめな真実の言葉を語っているだけです。王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対しても、率直に申し上げているのです。それは、片すみで行われたのではないのですから、一つとして、王が見のがされたことはないと信じます。アグリッパ王よ、あなたは預言者を信じますか。信じておられると思います」(使徒25:26-27)。

アグリッパがパウロに言った、「おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている」。パウロは答えた、「説くことが少しであろうと、多くであろうと、わたしが神に祈るのは、ただあなただけでなく、きょう、わたしの言葉を聞いた人もみな、わたしのようになって下さることです。このような鎖は別ですが」(使徒26:28–29)。

フェストはパウロに気が狂っていると言ったが、パウロは金も権力もあるフェストにこう答えた、「あなただけでなく、今日私を聞いているすべての人が私のようになることを、祈ります」(PGM訳)。しかし、そこにいた金持や権力者が悔い改めてキリスト者にクリスチャンになったとは記録されていない。たしかに彼らは神の言葉である福音をあざけったのである。パウロは書いている、

「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである」(1 コリント1:26–29)。

フェストやアグリッパ王のように、すべて神の言葉をあざける者は、やがて審判者として再臨される主イエスに向き合うことになる。2ペテロ3:7に書いてある、「しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである」。これは、金銭的に裕福で高名なあざける者達のことである。

主イエスは言われた、「このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう」(ヨハネ5:28–29)。また、ダニエルも同じことを言った、「また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう」(ダニエル12:2)。

主なる神によって裁きの日が定められており(ペテロ第二3:10)主イエスをあざけるすべての人の滅びの日がある。 主は全世界の唯一の創造者、救い主、悪の破壊者であり、審判者である。かつて、邪悪なソドムとゴモラを破壊されたように、洪水ではなく火によって、現在の天と地を破壊される。神の意志と言葉、そして無限の力によってこれを確実に行われる。すべてあざける者は主の前に不敬虔であり、主のすべての権威を軽んじる。

ペテロは書いている、「主は、信心深い者を試錬の中から救い出し、また、不義な者ども、特に、汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩み、また、権威ある者を軽んじる人々を罰して、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存じなのである。こういう人々は、大胆不敵なわがまま者であって、権威をそしってはばかるところがない」(2ペテロ2:9–10)。12節には、「これらの者は、捕えられ、ほふられるために生れてきた、分別のない動物のようなもので、自分が知りもしないことをそしり、その不義の報いとして罰を受け、必ず滅ぼされてしまうのである」。

ユダは書いている、「ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている」(ユダ7)。彼はまた言っている、「アダムから七代目にあたるエノクも彼らについて預言して言った、『見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざと、さらに、不信心な罪人が主にそむいて語ったすべての暴言を責めるためである』。彼らは不平をならべ、不満を鳴らす者であり、自分の欲のままに生活し、その口は大言を吐き、利のために人にへつらう者である」(ユダ14–16)。へブルの記者は言っている、「わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である」(へブル12:29)。

しかし、主を信頼する人は主なる神を恐れ従う。不敬虔なあざける者、主なる神を冒涜する者は、地獄であざけりをやめた、とルカ16章に書かれている。三位一体の主なる神とその聖なる言葉をあざける者は、永遠の地獄であざけることをやめるかもしれないのだ。

パウロは書いている、「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか」(ローマ9:22–23)。「主に栄光あれ!ハレルヤ!」。彼はまた言っている、「それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう」(2テサロニケ.1:7b-9)。

4. 神は力ある言葉で選びの民を救い、罪のない世界を再生される

神は洪水によって古い世界を破壊された。ノアと彼の家族8人を除くすべてが滅んだ。しかし、彼らは恵みによって救われた(創世記6:8)。2ペテロ2:9は書いている、「主は、信心深い者を試錬の中から救い出し、また、不義な者どもを罰して、さばきの日まで閉じ込められる」。これらの8人は信仰の従順によって生きた(ローマ1:5)。

主なる神は、ソドムとゴモラを火で破壊されたとき、ロトと彼の2人の娘の3人だけを救われた。主なる神をあざけり、御言葉に従わなかったロトの妻は殺された。信仰によって主なる神に従わないで、救われる者は一人もいない。神の福音を信じな世界の人々の大多数は救われずに滅ぶ。主イエスは言われた、「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイ7:13–14)。8人や3人といった救われる人々の数がどれほど少ないかを考えよ。だから、主イエス・キリストを信じているなら、喜ぶべきである。それは、永遠の神があなたを愛し、救われるように選ばれたのだ。

5. 神は力ある言葉は救い、裁

ローマ1:16でパウロは宣言している、「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」。詩編の作者は言っている、「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある」(詩篇19:7–11)。

ペテロは言う、「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである」(2ペテロ1:20–21)。神の言葉は無力な人間の意志に由来しない。御聖霊が人を完全に支配され、神の言葉を伝えられたのが預言である。これは、聖書の霊感ということである。即ち、主なる神が第一著者であり、預言者や使徒が副著者である。彼らは、主なる神が言われる通りに書いたのだ。だから、まさに誤りのない不変の神の言葉である。ウェストミンスター信仰告白第一章、「聖書について」を読め。神の言葉には神の権威がある。

パウロは言う、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」(2テモテ3:16–17)。以下のことを考えよ:

  1. 聖書はすべて神が語られる言葉である。つまり、神の言葉である。
  2. したがって、すべての聖書の言葉は神の民にとって有益である。 それが我々が毎日聖書を読む理由である。
  3. 聖書は、神、天使、人、罪、救い、裁き、宇宙、天国、地獄、イエス・キリストの人格と業、奇跡、悪魔と悪霊と人間の堕落、これら全てに関する永遠の真理を教えるために、神の民にとって有益である。
  4. 我々の信仰と行いの誤りを示すため、聖書は戒めのために有益である。
  5. 聖書は、我々をまっすぐな狭い道に連れ戻し、訂正する。ペテロは主イエスを3回否定したが、主イエスは彼を見つけて正された、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは答えた、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」(ヨハネ21:15–19参照)。こののち、ペテロは主イエスに対する信仰のゆえに処刑された。
  6. 聖書は、我々を義、すなわち神の御心に従うよう訓練するのに有益である。牧師が神の言葉を説教するとき、我々はそれを聞き、行うべきである。これは義の訓練という。「子供たちよ、両親を敬え」と聖書は命令する。永遠なる神がこれを子供たちに命じておられる。だから、、親に従うべきである。父親は、まず神の言葉を教え、次に家族を養うべきである、と教えている。牧師は彼らの下にいる人々に神の言葉を伝えるように命じられている。以下の聖書の箇所はは、義の訓練について教えている。
  • エペソ2:10:「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである」。
  • 2テモテ2:22:「そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい」。
  • 1テモテ6:11:「しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい」。我々には義の訓練が必要である。他の訓練、例えば自動車の運転のトレーニングなどと同じである。
  • テトス 2:11-14:「すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、[良いわざに]熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。
  • エペソ4:28: 「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」。これは義の訓練である。以前盗んでいた者が、根本的に変えられ、今は困っている人々に与えるようになっている。救いの証拠は、良い働き、実を結ぶこと、神の御心を聞き、それを行うことにある。

福音主義者の間では、一般的に義認と聖化を分離するような間違いが教えられている、とジェームズ・M・ボイス博士は言っている。つまり、ほとんどの教会では、「罪を行っていても、主イエスを信じなさい」という考えが教えられている。 そのような教えは義の訓練ではなく、破壊的な異端、反律法主義である。マタイ7:21–23で主イエスが言われた、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」。私の翻訳では、「地獄に行け」という意味である。もしあなたが地獄を信じないなら、考えてみよ、主なる神は地獄を信じないすべての者のために地獄を造られたのである。

結論

あなたはイエス・キリストを信じているか? あなたは聖霊によってキリストを信じる表明をしたか?

  • イエスは私の主である。
  • したがって、私は喜ぶべき主イエスの奴隷である。
  • だから、聖霊の力によって神の言葉で明らかにされている主なる神の御心を聞き行う。

以上のことが、あなたに当てはまるなら、喜べ!あなたは永遠に神の選びの民である。既に救われ、祝福されている。パウロは、あなたのことを書いている、「栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか」(ローマ9:23)。主なる神が我々と共におられ、我々に内在され、我々の周りに火の壁として存在されるので、人生で心配することはない。主なる神は我々のためにおられ、我々は主なる神の中にいるのである。

しかし、もしあなたが神の言葉をあざける者ならば、私は今あなたに言う、「即座にあざけりをやめよ」。そして、悔い改めて主イエスを信頼せよ。そうすれば、主イエスはあなたを永遠に救う。主なる神の家族となり、相続人となり、神の国の市民となる。恵みと主イエス・キリストの知識において成長し、永遠に祝福されるように、説教された言葉を聞いて、キリストの聖なる教会の重要メンバーになれ。

[1] このギリシャ語は、アドキモン ノウン、けがれて、屈折した思考の意。

[2] James M. Boice, Ephesians: An Expositional Commentary (Grand Rapids: Baker, 1997), 72.