聖書と救い

2 Peter 3:15-16
P. G. Mathew | Sunday, July 28, 2019
Copyright © 2019, P. G. Mathew
Language [English]

序論

66巻の旧・新約聖書から成る聖書なしに、主イエスの救い、福音はない。だから、聖書の言葉が宣べ伝えられていない教会に行くべきではない。我々の教会は、ウェストミンスター信仰告白、特に第1章「聖書の権威」を信じている。

  • 2項: 聖書すなわちしるされた神のみ言葉という名の下に、今では旧新約のすべての書が含まれている。これらはみな、神の霊感によって与えられており、信仰と生活の基準(教理と倫理)である。
  • 4項: 聖書がそのために信じられ服従されねばならないところの聖書の権威は、どのような人間や教会の証言にも依拠せず、その著者であられる神に、全く依拠する。従って聖書は、神のみ言葉であるという理由から、受け入れられなければならない。
  • 9項: 聖書解釈の無謬の基準は、聖書自身である。従って、どの聖句の真の完全な意味について疑問のある場合も、もっと明らかに語る他の箇所によって探求し、知らなければならない。
  • 10項: それによってすべての宗教戦争が決裁され、すべての会議・古代の著者たちの意見・人々の教義・個人の精神が検討されなければならないところの、またその宣告にわたしたちがいこわなければならないところの至高の審判者は聖書の中に語っておられる聖霊以外の何者でもありえない。

聖書

聖書独自の証言に基づいて、聖書は神の言葉であり、したがって無謬である。聖書では、永遠、無限、聖、三位一体の神が語っておられる。

2ペテロ1:21で、ペテロは聖書の聖なる成り立ちを教えている、「なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである」。パウロも同じことを語った、「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている」(2テモテ3:15)。テモテは幼少期から聖書を教えられた。成長するにつれて、彼はパウロから福音を聞き、主イエスを信じて救われた。パウロは、旧約聖書だけでなく、新約聖書の使徒的記述を含むすべてが聖書であると言っている。

2ペテロ3:1-2には次のように書いてある、「愛する者たちよ。わたしは今この第二の手紙をあなたがたに書きおくり、これらの手紙によって記憶を呼び起し、あなたがたの純真な心を奮い立たせようとした。それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである」。また、2ペテロ3:15–16でペテロが書いている、「また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている」。2テモテ3:16–17 にはこう書いてある、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」。

テモテがみことばを説教するように言われたように、我々の教会でもみ言葉を説教する。心理学や饒舌の話をしない。パウロはテモテに命じている、「神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言をのべ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、みみざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集める」(2テモテ4:1–3)。

みことばとは福音全て、即ち新約聖書と旧約聖書の全てを指す。ルカ24:25–27に書いてある「そこでイエスが言われた、『ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか』。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」。キリスト中心の聖書解釈が教えられている、「そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて 言われた、『こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民にのべ伝えられる。』」(ルカ24:45–47; 使徒行伝1:8)。

約束の救い主は我らの贖いのために来られた。それは、聖霊によって選びの民に適用されているのである。新約聖書には次のように書いてある:

  • ガラテヤ4:4–5:「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。」
  • ローマ4:25:「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」
  • 2コリント5:21:「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」

キリストの再臨が意図的に遅らされていること

聖書は、キリストは贖いを達成するために最初に来られたことだけでなく、審判者として栄光のうちに来られることを預言している。ヘブル書の記者は言っている、「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである」(へブル9:28).また、パウロは言う、「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が最初によみがえる」(1テサロニケ4:16)。

すべての選びの民が救われるまで、キリストは再臨されない。そのために意図的にその時を「遅らせ」ている。その間、我々は福音を伝えている。もしあなたが、神の民であれば、その福音を聞いて救われる。でなければ、救われることはないのである。ペテロが2ペテロ3:15で語っているように、再臨の遅れは罪人が救いを受けているプロセスであることを意味する。神はすべての人に悔い改めを迫り、キリストを救い主として信じるのに十分な時間を与えておられる。これは、なにも過半数の人類が救われることを意味しない。ノアの日の洪水では、わずかの人間しか生存できなかった。

神は罪びとのために忍耐して待たれる。あたなに対してもそうである。ペテロは書いている、「これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである」。ノアは、世界を破壊する洪水が来る。人の寿命は120年にとどまると主の声を説いた。しかし、人々は耳を傾けなかった。ペテロは続けて書いている、「その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった」(1ペテロ3:20)。

神は放蕩息子の父のようであり、罪人が悔い改めて帰るのを待っておられる。しかし、大多数は悔い改めることを拒否し、唯一の救い主に来るのではなく、お金、地位、権力を求めてさまようのである。主イエスは言われた、「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイ7:13–14)。それは今も同じである。

無知と不安定、再生していない者の特性

A.W.トーザーは、「悔い改めのない赦しは、教会に蔓延し、地獄にも蔓延している」言った[2]。反律法主義が教会と地獄に満ちている。かなり多数の大教会は反律法主義である。著書「コンサイス神学」で、J.I.パッカー師は、反律法主義の6つの特徴が書かれており、7つ目が追加された。

  1. 双対的反律法主義:救いは魂のためだけだ。身体は無関係だ。だから、あなたは自分の好きなことをすることができる。
  2. 精神中心の反律法主義:我々は聖霊によって導かれているから、神の律法は倫理観に必要ない。-これは愚かな主観主義である。
  3. キリスト中心の反律法主義:あなたはキリストの中に存在するので、キリストはあなたに罪を認められない。だから、あなたがやりたいことができる。
  4. ディスペンセーショナルな反律法主義:恵みのディスペンセーションでは、神の律法を守る必要はない。
  5. 弁証法的反律法主義(カール・バルトとルドルフ・ブルトマン):神の言葉には権威はない。
  6. 状況的反律法主義:神は今、あなたの愛そうとする意図のみを必要とされているのだ。[3]

そして、7番目の特徴を追加すると、

  1. アッセンサスの反律法主義:神の言葉を聞き、神の言葉を理解し、それが神の言葉であっても、それを行わないことに同意する。言い換えれば、理解すればそれで十分である、ということ(PGM)。主イエスはマタイ7:21–27でそのような人々について、「聞いても行わない者は、悪い木で悪い実を結ぶ。聞いて行う者は、良い木であり、彼らは良い実を結ぶ」と言われた。

再生していない牧師はみ言葉を説教しない。「真理の御言葉を間違って分けようとする誤謬」は、反律法主義の問題に関する必読書である。[4]

再生して御聖霊が住まれない限り、聖書を真にキリスト中心的に解釈することは困難である。だから無知で不安定な者は、悪い木である。良い実を結ぶには、悪い木が良い木にならなければならない。新生なしでは、神の国を理解することも体験することもできない(ヨハネ3:3、5)。

ペテロは偽教師について書いている、「しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。また、大勢の人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない」(2ペテロ2:1–3)。

偽教師は異端的であり、お金に目がなく、欲望に駆られている。彼らは真実の道を去っている。いずれ、彼らの運命は破壊である。彼らの心は腐っており、真実を曲げるのである。2ペテロ2:14–15に書いてある、「その目は淫行を追い、罪を犯して飽くことを知らない。彼らは心の定まらない者を誘惑し、その心は貪欲に慣れ、のろいの子となっている。彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛する」。

たとえば、リベラルな(信仰のない)神学者、牧師、教会は、聖書を正しく解釈しない。彼らは霊的に死んでいる。2001年11月に我々の教会で講演していただいたE.リンネマン師によると、彼らはまず再生される必要があるのだ[5]。リンネマン師は、かつて信仰を持たない典型的なドイツの一流大学の神学者で、教授として神学を教えていた。しかし、その後救われて信仰が与えられて、今は神に感謝しておられる。

反律法主義者は無知で不安定である。現在、教会は彼らであふれている。彼らは真の福音を拒否しているため、本当にはキリストに基礎を置いていないのである。さらに、自らのように不安定な人々をキリストの教会に誘うだけである。マタイ7:26–27にこう書いてある、「また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。

理解するのが難しい

理解しにくい聖書の箇所はあり、真の信仰者でも理解するのが難しい場合はある。だからこそ、聖書を祈りながら研究せよ。敬虔で学識の豊な改革主義神学者の著作を読め。ピューリタン神学を学べ。そして、反律法主義の神学者、牧師、教会を避けよ。ルター、カルビン、スポルジョン、ロイド=ジョーンズ、メイチェン、ヴァンティル、ジョン・マレーなどを学べ。毎日の読書スケジュールに基づいて聖書全体を読め。聖書の難しい部分は、聖書の他の部分によって説明されている。ウェストミンスター信仰告白の第1章9項ですでに読んだように、「聖書の解釈の絶対的な規則は聖書そのものである。そのため、聖書の真の意味と完全な意味(多岐ではなく1つ)について疑問がある場合は、より明確に語っている他の場所を参考にして、理解するようにしなければならない」のである。

以上に加えて、聖霊に満たされよ。パウロは書いている、「しかし、聖書に書いてあるとおり、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである」「わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである」(1コリント2:9–10a,12)。御聖霊が聖書の著者であるため、御聖霊が我々を啓蒙される。神の前で謙遜になれ。神は高慢な者に反対されるが、謙遜な者には恵みを与えられるからである。常に聖書を学び、成長せよ。

愛する兄弟パウロ

ペテロは、15節でパウロを愛する兄弟と呼んでいる。しかし、ペテロが異邦人に福音をのべ伝え、神の大宣教命令に仕えていたにもかかわらず、ユダヤ人信者を恐れてシリアのアンティオキアの異邦人信者との交流を拒否した。この時、パウロはペテロを叱責した(使徒行伝10)。

パウロはこの叱責を振り返り、次のように書いている、「ところが、ペテロがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でペテロに言った、『あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか』」(ガラテヤ2:11–14)。しかし、そういうパウロの叱責を、ペトロは兄弟愛の証として受け入れ、悔い改めて自らを正した。それで彼はこの手紙でパウロを「愛する兄弟」と呼んでいる。パウロは神の民に愛される使徒であった。

あなたを責め、正す人々に感謝せよ。彼らは神と彼の民に愛さるべき者である。真のキリスト教会は神の民を差別しない。我々は神の聖なる家族(ヘブル2:11)であり、キリストの花嫁である。イエスは神の民一人一人を贖うために最高の代価を支払われた。それぞれが神の宝である。神の民として、兄弟愛をもってお互いを愛し気遣え。

イエスを三度否定したため、主イエスはペテロを正された(マタイ26:69–75)。後にペテロは主イエスへの忠誠の故に、最終的には十字架につけられた。

人は外見を見るが、神は心を見られる(1サムエル16:7)。主イエスは取税人や罪人と一緒に食事をされたのである。

聖書全体は健全な思考とキリスト者の成長に有益である

聖書だけが健全な思考に役立つ。聖書全体、旧約聖書と新約聖書は、キリスト者の成長に益をもたらす。ペテロは書いている、「愛する者たちよ。わたしは今この第二の手紙をあなたがたに書きおくり、これらの手紙によって記憶を呼び起し、あなたがたの純真な心を奮い立たせようとした。それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである」(2ペテロ3:1–2)。主イエスは、「真理によって彼ら弟子たちを清めてください」と祈られた(ヨハネ17:17)。

聖なる預言者が記録した旧約聖書と、キリストの使徒が書いた新約聖書だけが真実である。全聖書は神によって書かれたのである。聖霊が第一著者で、聖なる預言者と使徒が二次著者である。パウロの書簡も、聖書であることがわかる。ペテロは言っている、「わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている」(2ペテロ3:15b–16)。

偽教師は真理を曲げる

我々は真理を曲げずに説く。16節で、ペテロは、無知で救われていない偽教師が、使徒パウロの書簡を曲解している、と言っている。他の聖書の箇所でも同様のことを重ねている偽りの教師は悪魔の子である(ヨハネ8:44)。

偽教師は、聖書の権威を否定し、神の言葉を誤解している世界中のリベラルな神学者、反対派の牧師、教会を代表している。世界の多くの教会はサタンのシナゴーグである。そのため、彼らは神の言葉を曲解する。創世記2:17で、主なる神は言われた、「しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」しかし、創世記3:4で、サタンは、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」と言っている。次の箇所も検討せよ:

  • イザヤ5:20:「わざわいなるかな、彼らは悪を呼んで善といい、善を呼んで悪といい、暗さを光とし、光を暗いとし、苦さを甘いとし、甘さを苦いとする。」
  • マタイ4:6:「サタンは主イエスに言った、『もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。〈神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう〉と書いてありますから』」。
  • ヨハネ8:44:「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。」
  • ヨハネ10:10:「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」

偽教師は決して十字架につけられた真のイエス・キリストを説教せず、聖書を曲解する(人々はそれを好む)。彼らは、TULIPの頭文字で知られる改革派の信条(人類の完全な堕落、神による無条件の選び、限定的罪の贖い、拒否できない神の恵み、聖徒の堅忍)に代表される健全な教えを決して説かない。彼らは聖書の神聖な権威を否定する。

偽教師は聖書を曲解するだけでなく、いわゆるキリスト教のカルトはすべて聖書の曲解から発生する。そして、反律法主義者は常に聖書を曲解する。

パウロの書簡にある特定の教えは理解するのが難しく、偽教師はそれらを曲解する。難解な教えには、勤勉と祈り、そして時には断食が必要である。即ち、御聖霊に頼る必要がある。正しい教理を敬虔に学んだ牧師によって聖書を説く教会こそ真の教会である。そのような教会で定期的に礼拝に出席せよ。難解な教えを理解するためにより多くの恵みを受けなければならない(ヤコブ4:6)。神はそのように学ぶ者により多くの恵みを与えられる。

理解が難しい教えの一例として、パウロは救いが「律法からの自由」ということがあげられる。しかし、反律法主義者はキリストの教えを曲解し、その行動の指針として律法を拒否している。ローマ5:20に書いてある、「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。罪から解放され、義の僕となった。今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよさに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである」(ローマ6:1–2, 14, 18, 22)。そして主イエスは言われた、「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)。

使徒パウロがこの聖書の箇所を記述したという証明

聖書は使徒パウロが聖書を記述したということを証明している。

  • パウロは使徒であった。1コリント15:9–10に、こう書いている、「実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである」。
  • 2ペテロ3:2:「それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである。」
  • エペソ2:20:「またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である」。
  • 1テサロニケ2:13:「これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として――事実そのとおりであるが――受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。」
  • 1コリント2:13:「この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。」
  • 1コリント14:37:「もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである。」
  • エペソ3:2–5:「わたしがあなたがたのために神から賜わった恵みの務について、あなたがたはたしかに聞いたであろう。すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をわたしがどう理解しているかがわかる。この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。」
  • ローマ1:1:「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから。」
  • ガラテヤ1:1:「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ。」
  • 2ペテロ3:16:「彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。」

神は偽教師を滅ぼされる

「滅び」という言葉は2ペテロに6回でてくる。聖書は、そのような者の滅びは迅速に来る、と述べている。不信心な者達に訪れる永遠の滅びである。聖書を曲解する者達はその滅びに向かっている。悪しき働きをしている再生されていない者達に、反律法主義者にその滅びが訪れる(マタイ7:23)。パウロが言っている、「彼らの行きつくところは滅びである」(ピリピ3:19)。また言っている、「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすればどうであろう」(ローマ9:22)。主イエスはイスカリオテのユダについて言われた、「彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした」(ヨハネ17:12)。

偽教師は教会にいる。彼らは信仰の不安定者を誘惑する。しかし、我々の教会では、教会戒規を行使する。牧師が偽りの教えをしている者に叱責し、彼らが悔い改めなかったことがあり、そのような者を教会から追い出した。あなたの上に立てられている指導者に従い、彼らの権威に服従せよ。

この聖書の箇所の最後の言葉を注意深く検討せよ。神は罪びとが再び戻るのを待っておられる。神は選びの民が罪を悔い改め、主イエスを信じて救われるのを待っておられる。神の忍耐は罪人の救いを意味することを心に留めよ。神は頼むのではなく、命じられる。親が子供に懇願するなら、子供は邪悪に育つ。私が命じるのは、聖書がそう言っているからである。神はすべての罪人に悔い改めを命じておられる(使徒17:30)。神はすべての人に主イエスを信じるように命じておれる(1ヨハネ3:23)。神は神の民にお互いを愛するように命じておれる(1ヨハネ3:23)。すべての罪人が神の命令に従い、明日ではなく今日救われるように、と神は忍耐しておられる。今日、主なる神はあなたをここに導かれ、聖書の語る救いの言葉を聞いたのである。

[1]「聖書は全て神の息がかかったものである」(パサ グラフェ セオプニュートス) というのは、新旧約聖書全体に関して言われていることである。これは、William Hendriksen著 「牧会書簡の講解」による。新約聖書注解書シリーズ(Grand Rapids: Baker, 1996), 301.

[2] A. W. Tozer, Tozer Pulpit, vol. 2.

[3] J. I. Packer, 「コンサイス神学」 (Wheaton, IL: Tyndale, 1993).

[4] John H. Gerstner, 「真理の御言葉を間違って分けようとする誤謬」 (Brentwood, TN: Wolgemuth and Hyatt, 1991).

[5] https://gracevalley.org/teaching/eta-linnemann-testimony/