霊的な礼拝

Romans 15:1-6
P. G. Mathew | Sunday, June 24, 2012
Copyright © 2012, P. G. Mathew
Language [English]

ローマ15:1-6

聖書は、神聖さの美をもって神を礼拝するように教えている。神は聖なる方であり、礼拝する者も聖なる状態で礼拝するのである。旧約聖書では、定められた動物を罪の犠牲として捧げた。しかし、ローマの信徒たちは、自分たちの体を聖なるものとして、神に喜ばれる霊的な礼拝を捧げるよう求められている。

神は霊であり、聖霊と真理をもって神を礼拝する必要がある。それ以外礼拝を神は受け入れられない。神は邪悪な者の礼拝を拒否される。我々が、罪を悔い改め、キリストを信頼して、人生の主とし、聖霊をいただいている者が、聖書で教えられているように礼拝する。それは、キリストが我々を愛しておられるように、我々も兄弟姉妹を愛することを含む。一つの心となって、神を礼拝する時、その礼拝を神は受け入れられる。

教会は神の家族であり、すべての信仰者は神の子供である。一人一人は異なっているが、共通の父なる神がおられ、我々はその強力な支配の下にいる。主イエス・キリストと、御聖霊が我々と共におられ、一つの体である教会のメンバーである。互いに仕え、お互いの苦しみと喜びを分かち合い、ひとりが喜ぶとき、皆が喜ぶ。

神の教会に信仰の強い者と弱い者がいる。パウロは強い信仰者であった。彼は弱い者が成長して強く成熟することを望んでいたので、主なる神が、お互いの兄弟姉妹を励ますように命じていることを、この箇所の最初に書いている。

神が与えられた義務

「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない」(1節)。愛は自己を喜ばせることをせず、自己満足に終わることもない。愛は、神の家族のメンバーの間に敬意を表す。パウロは、教会に利己的な人々がいることを知っていた。「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない」(ピリピ2:21)。しかし、テモテは違っていた。彼は本当にピリピの教会の人達のことを気にかけていた。「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」(ピリピ1:20)。だからパウロはピリピの教会に命じている、「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい」(ピリピ2:3–5)。

パウロは強い信仰をもっていたので、心にとがめを感じることなく全ての食べ物を食べることができた。しかし、全ての食べ物がけがれているということはないと知っていたにもかかわらず、これによって良心を傷つけられるキリスト者の為に食べることを拒否したのである。

信仰の弱いキリスト者は、特定の食物が汚れていると考えていた。しかし、信仰の強い者は弱い者を受けいれ、助け、神の言葉を教え、弱い者の良心がこれによって揺るがないようになるのである。強い者は、弱い者の心を押しつぶすべきではない。主なる神が与える義務は、「強い者が弱者の弱さに耐える」ことである。

強者は弱者の失敗に耐えるという聖なる義務がある。パウロの方針は、自分自身を喜ばせることではなく、弱い者を喜ばせることであった。だから彼は励ましている、「ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない。わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい」(1コリント10:32–11:1)。他の箇所でも言っている、「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう」(ガラテヤ6:2)。

強い信仰を持つ人々は、信仰の弱い人々を助け、強くなるよう励ますべきである。マルコ2章に体が不自由な者が4人の人に担いでこられた記述がある。主イエスのもとへと連れてきた4人の友人のおかげで、彼は癒されて歩いて帰ったのである。このように、弱い者は強い者の助けが必要である。パウロは我々に思い起こさせて言う、「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである」(ローマ5:6)。強い者も時に弱くなるかもしれないが、神の恵みは、神の栄光のために生きるため、再び彼を強くするであろう。そこで主イエスは、パウロに肉体の弱さを与えられた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である」(2コリント12:9)。

多くの者達は幸福を求めている。しかし、幸福を表すJOYという字を見ると、Jは主イエスであり、Oは他の人であり、Yはあなたである。我々が主イエスをまず喜ばせ、他者が次に、そして自分が最後となる。我々は聖霊によって真の喜びを経験する。主イエスご自身が言われた、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」(ルカ10:27)。

主なる神に対する信仰がない者は自己中心的でねじれている。彼らは神をも隣人をも、喜ばせることはできない。パウロは書いている、「肉にある者は、神を喜ばせることができない」(ローマ8:8)。主なる神を信じる者は、政治家や多くの説教者のように、自身の利己的な目的のために他人を喜ばせることはない。旧約聖書に政治家アブサロムが出てくる。彼は、彼は父ダビデに代わってイスラエルの王になり、民の心を引きつけた。我々はそのような意味で人を喜ばせるのではない(第2サムエル記2 15)。むしろ、真理を売って人を喜ばせるようなことを断ったパウロを見倣おう。救いが律法によってもたらされると教えたユダヤ人達を、彼は喜ばせることを拒否した。「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」(ガラテヤ1:10)。パウロは自らを喜ばせるのではなく、すべてのことにおいて主なる神に喜ばれることをまず考えた。

各自が自分ではなく他者を喜ばせるということ

「わたしたち一人ひとりは、他者の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである」(2節)。パウロは教えている、「互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである」(ローマ13:8)。こうも書いている、「愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい」(ローマ12:9-10)。神の言葉が説教されるとき、我々はそれに耳を傾け、理解し、信仰を働かせ、神の言葉を実行すべきである。そうするならば、我々に問題はないのである。

「各自」は他者を喜ばせなければならない。強い者も弱い者もこの責任をもつ。弱い者は、「あなたは強いのだから、私を喜ばせるべきだ。私は弱いままにとどまる」と言ってはならない。主イエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ16:24)。我々も自己を捨てて他者に仕えるべきである。

コリントの教会では、食事の時でも富んだ者が貧しい者を無視していたので、パウロは彼らを責めている、「そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない」(1コリント11:20­–22)。富んだコリントの者達は、愛によって行動していなかった。自分自身を喜ばせ、貧しい人々を無視していた。互いの平和と養成の道を生きていなかった。このような行いを続けていると、弱い人はつまずき、つぶれていく。そんな状態では、聖霊と真理において神を礼拝するはできない。

我々の中で強い者は率先して弱い兄弟姉妹を助ける必要がある。弱いものを心から受け入れ、彼らと交われ。誘惑は、似た者同士と仲良くなることだ。金持ちは金持ち、身分の高いもの同士、下働きの者同士、肉食をしない菜食主義者同士、などなどである。聖書の命令は、「我々は各自、自分の利益のためではなく、隣人を喜ばせるように努めよ」ということである。愛は、他者の利益を求めています。愛は他者の利益を考慮し、彼らの見解や関心事に基づいて、彼らを建て上げていくことである。

キリストの信仰者として、我々は一人で生きていない。我々は家族である。母親は新生児の声ですぐに目を覚まし、不平を言わずに世話をする。だから、我々一人ひとりは、隣人を喜ばせるべきである。これが、主イエスの道、愛の道である。

パウロはローマの兄弟姉妹に自分を「キリスト・イエスの僕」と呼んでいる。(ローマ1:1)。我々はすべてキリストの奴隷としてお互いを助け合う。隣人を喜ばせよ。パウロはこの命令(アレスケト)を継続的な意味で言っている。それも最後までということであり、何度でも、ということである。

愛は建て上げる。壊さない。パウロは書いている、「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか」(ローマ14:17-19)。

ローマ12章、1コリント12章、1ペテロ4節では、強い者も弱い者も、全ての信仰者の得を高めるために、霊的な賜物が一人一人に与えられている、と教えられている。特に、御言葉の説教を通して、得が最も高められる。

神の言葉

使徒行伝20章で、パウロはエペソの教会の長老に向けて言っている、「今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある」(使徒20:32)。

キリストも自分自身を喜ばせられなかった。ローマ15章で、パウロは、この点を旧約聖書から6箇所を引用して明らかにしている(詩篇69:9b)。むしろ、「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」(3節)のである。詩編69編で、ダビデが救い主について預言している。

預言されているように、主イエスは自分自身で、悪しき者によって主なる神御自身に向けられた侮辱を被った。もし、主イエスが自分自身を喜ばせようとされたならば、十字架で死なれなかったであろう。そうすれば、我々の罪の残されたままで、我々は未だ救われていない。しかし、主イエスは自分自身を喜ばせず、父なる神を喜ばせた、とヨハネは福音書に記述している(ヨハネ8:29)。 神の意志を行い、それを完成させることが彼の食物であった(ヨハネ4:34)。主イエスが受肉された目的は、聖書に書かれていることを成就させることであった。第祭司の祈りをされている通りである、「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました」(ヨハネ17:4)。我々は、御言葉に従い主なる神に栄光を帰するのでる。主イエスは、十字架から叫ばれ、「テテレスタイ」「すべてが終った」と言われた(ヨハネ19:30)。他の箇所でも、パウロはキリストについて言っている、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしくして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:6–8)。

詩編69編は、メシアの多くの敵について語っている(4節)。御自身の兄弟でさえ、彼を好きではなく、彼を信じていない、と言っている(8節;ヨハネ7:2-5参照)。 主イエスには少なくとも4人の兄弟がいたが、彼らは十字架のもとに来ていない。だから、主イエスは母親マリアの世話をするようにと、ヨハネに託した(ヨハネ19:26-27)。詩編69編はまた、君主たちが救い主を嘲笑し、酔っ払いの歌になると予言している(12節)。

これは起こった、「祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、『他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから』。一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった」(マタイ27:41–44)。(PGM)

無実で死ぬ者をののしりは、残酷の極みである。この詩編は、キリストの贖いを語っている。キリストは我々の罪のために聖書に従って死に、我々を義とする為によみがえられた(ローマ4:25)。 神に感謝しよう、主イエスは自分自身を喜ばせることはされなかった! むしろ、こう言われた、「私の心ではなく、父なる神の御心が行われますように」。我々は、このキリストの行いによって救われるのである。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(2コリント5:21。へブルの手紙の著者は言っている、「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」(へブル4:15)。またこうも書かれている、「このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである」(へブル7:26)。

詩編69:9は、キリストが御自身を喜ばせられなかったことを証明している。彼は十字架上の残酷な死によって我々の罪の贖いを完成し、父なる神を喜ばせられた。パウロがいつも聖書を引用した理由を尋ねるなら、それは聖書の権威はすべての議論を決着させるからである。彼自身はローマ15:4で宣言している、 「これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めによって望みをいだかせるためである」。

ハーバード大学がどのように建学されたかを知っているか?その当時、聖書が教科書として使用され神のことばに基づいて全てが教えられたのであった。聖書は我々を教え導くための書である。

ジョン・ストット博士は聖書についての5つの真実を語っている[1]

  1. 聖書は現代にたいして意図されてかかれている(1コリント10:11): 「これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである」。パウロは言っている、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(2テモテ3:16)。
  2. 聖書は包括的な価値をもつ:詩編69:9のみならず、聖書全体が教育に利益をもたらす。
  3. 聖書はキリストに焦点を合わせている:主イエスは、聖書全体が御自身について語っている、と言われた(ルカ24:27、ヨハネ5:39)。
  4. 聖書の実際的目的:聖書の実際的な目的は何か? それは、我々に罪からの救いの希望を与え、救いに至るように、我々を賢明にし、励まし、神の栄光の希望を与え、永遠の命の希望を与え、体の贖いの希望を与えることである。新しい天と新しい地への希望をも与え、究極の幸福である、神と共に生きる希望を与える。
  5. 聖書は神のメッセージである:ローマ15:5は、神自身が聖書を通じて我々に語っていると言っている。だから、真の福音の説教者は、政治、心理学、科学、哲学を語らない。真の福音の説教者は神の言葉を説く。これによってのみ、我々を正しく教え、霊的な体力を増強させ、憂うつな者をも励ますことができる。我々の生活に真の希望と救いを与えることができる、主であり大祭司であられる王として来られるイエスのみに信頼し、我々を天の国に引き上げるのは、神の言葉である。

友よ、聖書は神の言葉である。聖書はすべて我々を正しく教え、励まし、栄光の希望を与える。従って、聖書には価値のない箇所などない。テレビのスイッチを切れ。それはあなたを助けることはできない。他のすべての本はあなたを霊的に助けることができない。聖書を読み、信じ始めよ。説教された言葉を聞き始めよ。あなたは、父親が自宅で教える神の言葉に耳を傾け始めよ。

「時代を通じて書かれた聖書のすべて」は、旧約聖書と新約聖書の両方の聖書全体を含む。聖書以外の者は、同様の利をもたらすことはできない。だから、もしあなたが良い教育、道徳力、霊的力、励まし、救いの希望を望むなら、聖書を熱心に勉強しなければならない。でないなら、いつもおどおど恐れ、弱く、病気のように絶望している、不平と議論の多い、不従順な者になるであろう。あなたは人生を通して、弱い者であり続けるであろう。キリストに信頼しない者は、この世界では希望もなく、神もない、という特徴がある。あなたがキリスト教徒であると主張しても、あなたが不満を持ち、悲惨で弱く、絶望的であるなら、他の人はあなたが聖書を学んでいる者とは結論づけないであろう。我々は、聖書を通じて忍耐と励ましを受ける。

苦難はたしかに忍耐と希望を生むが、それにもまして聖書は我々に神の栄光の力、励まし、希望を与える。ローマ人15:5は、神は忍耐力と励ましの源泉だと言っている。これは、信仰をもって聖書を読むとき、主なる神が我々に忍耐力、励まし、希望を与えられる、ということを意味する。真の執筆者であられる御聖霊は、説教された神の言葉に全面的に注意を払って聞くとき、我々の目を開き、聖書を通して必要な恵みを与えてくださるのである。だから、聖書は我々にとって、神の恵みの言葉である。聖書は、恵みの手段と呼ばれる第一のものである。聖書の言葉を無視すると、あなたは祝福の乏しい者になるのである。聖書は言っている、神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のある方なのである (2コリント9:8)。

一致した礼拝

我々は一致した状態が主なる神を礼拝するために必要な前提条件である。主なる神が受け入れて下さる礼拝は、我々が一致した心であることが第一である。我々に仲たがいがある時、真の霊的礼拝はできない。弱者と強者、ユダヤ人と異邦人、主人と従業員、豊な人と貧しい人、どのような立場であっても一致した心で、三位一体の主を礼拝すること、これを主は喜ばれるのである。

唯一の聖なる神が我々の救いを計画されたのは、我々を永遠の救いに選ばれたことから始まっている。主イエス・キリストが死を征服され、我々の生ける王として、我々を霊的死から生きかえらせ、内住され、日々導いておられる。それゆえ、仲たがいをすることは、罪深いのである。交わりをしないのは罪深いことである。両親の間の仲たがい、親子の間の仲たがい、すべて罪深いことである。神の子供たちがお互いに仲たがいすることは罪深いことである。一つの心にならないのは罪深い。我々が心から神を愛し、互いに愛し合うのは神の意志である。パウロは、神が我々に意一致したここを与えられるようにと祈っている。

だから、罪は人の間を割く。しかし愛は人をつなぐ。「互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない」(ローマ12:16)。パウロはまた言っている、「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい (2コリント13:11)。我々がお互いに戦い、喧嘩して、一つの心ではないとき、神は我々と共におられないである。他の箇所でも言っている、「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい」(ピリピ2:1-2)。神の子らが仲たがいをすると、父なる神は悲しまれるが、お互いを愛するとき、喜ばれる。終わりにパウロは言っている、「わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい」(ピリピ4:2)。

主イエスは大祭司としての祈りで、教会の一致を祈られた。それは記録によると最も長い祈りである、「わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります」(ヨハネ17:11, 21–23)。

このように、主イエスが我々の一致のために祈ってくださったのであるから、主なる神は我々に一致を与えられるはずである。我々は一致を得てそれを楽しむことができるはずである。そして、我々はこの愛と一致なしに神を礼拝することはできない。夫と妻は別々ではない。結婚によって、夫と妻は一致する(エペソ5:31)。同じく、神の民は多くいても、聖霊によって一つである。彼らはすべてキリストの心を持ち、(コリント2:16)、キリストを知るようになった我々は、十字架によって自分自身を捨て、キリストに従うようにされた。我々の祈りは何か?それは、「神の御心が天で行われるように、地上でも行われますように」という祈りである。御霊によって我々は、イエス・キリストを自らの主と告白することができ、我々自身が主なる神の絆によって、神に仕える者とされたのである。どのようにして我々は、三位一体の主なる神を礼拝できるか。それは、聖霊による一致、つまり聖霊がすでに達成された意一致を平和の絆で維持する努力に他ならない(エペソ4:3)。他の箇所でパウロは言っている、「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責めるべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である」(コロサイ3:12-14)。

我々が一致した心で主を礼拝しないなら、主なる神はそれを喜ばれることはなく、我々は祝福されない。だから我々が礼拝に来る前に、聖なる交わりを祝う前に、先ず我々の間の関係が正される必要がある。以下の聖書のことばに注目せよ。

  1. マルコ11:25: 「また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう」。私たちが教会で他の人との人間関係上の問題がある場合、我々はまずそれを解決する必要がある。でないと、主は我々の祈りをきかれない。
  2. マタイ5:23–24: 「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」。そうするならば、主は我々の礼拝を受け入れられる
  3. 1 ペテロ3:7: 「夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊びなさい。それは、あなたがたの祈が妨げられないためである」。もしも、仲たがいをして、戦い合うならば、注意せよ。
  4. エペソ4:26–27:「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない」。もしこうならないように注意するならば、我々は祈ることができ、主なる神は我々の祈りを聞かれる。
  5. 詩篇66:18-19: 「もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう。しかし、まことに神はお聞きになり、わが祈の声に御心をとめられた」。

霊的礼拝の前提条件、それは美しい神聖さである。それは一致した心からの礼拝である。これは主なる神の御心であり、聖書の中でキリスト・イエスが明らかにしておられる。カタ・クリストン・テソウン「キリストと同じ思いをいだかせ」(5節)と書いてあるように、我々は心を一致させて神を礼拝することである。

最終的な目的

霊的一致の最終的な目的、それは「こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように」(6節)ということである。

新約聖書では、「一つの心」(ホモスマドン)という言葉が11回使われている。この言葉は、神の民が主を礼拝できるように聖霊によって創造された「一つの心」と定義される。神の民に反対する悪魔によって創造された「一つの心」というのもある。それは、神とその真の教会に反対する一つの心である。

神に感謝せよ。御聖霊は、初期の弟子たちがしたように、御聖霊が霊と真をもって神を賛美し、礼拝するために、一つの心と一致した思考力我々に与えられたのである、「すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。「ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」(使徒行伝2:4、11)。

詩篇133編は言っている、「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。(1節, 3節)。そのような礼拝は、神の前に甘い香りとなる。詩編の記者は書いている、「主よ、わたしはあなたに呼ばわります。すみやかにわたしをお助けください。わたしがあなたに呼ばわるとき、わが声に耳を傾けてください。わたしの祈を、み前にささげる薫香のようにみなし、わたしのあげる手を、夕べの供え物のようにみなしてください」(詩篇141:1-2)。1つの心、一致した思いで神の聖なる者たちが礼拝するならば、神の祝福を受けるであろう。「願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように。アーメン」(民数記6:24-26)。今日、神がこのような礼拝をするよう助けてくださるようにと祈る!

 

[1] ジョンR. W. ストット, ローマ書:神からのこの世への良き知らせとは (Downers Grove, IL: InterVarsity, 1994), 370.