アンチノミアニズム (反律法主義)
P. G. Mathew | Saturday, May 27, 1995Copyright © 1995, P. G. Mathew
Language [English]
今日はアンチノミアニズム(反律法主義)について話そう。アンチノミアニズムという単語は、ギリシャ語の語源で「アンチ」(=反)と「ノモス」(=律法)の複合語である。従って、アンチノミアニズムは律法に反するという意味で、神の倫理的律法に反する、即ち律法をないがしろにする、という意味である。
我々アメリカ人は、人生を楽に過ごすことに熱心で、ハッピーで楽な生活を求めて、これを助けてくれる技術を磨くのに余念がない。アメリカ人は、なんでも簡単にできることを好む。ダイエットするなら食べたいだけ食べて痩せるのがいい。エクササイズするなら、汗を流すこともなく、寝ている間に簡単に体を鍛えられるのがいい。そして、救いについても同様に簡単を好む。言いかえると、罪を犯し続けながら天国にいける、というものである。まるでケーキを食べるように簡単に考えている。このため、教会は簡単な救いを好む人々でいっぱいなのだ。アンチノミアニズム、無律法、これが即ち簡単な救いである。その売り文句は、「我々が天国に向かっているのは決定しているので、何も失うものは無い、律法を守らなくても天国にいける」である。
これと対照的に考えられているのが「律法主義」なのかもしれない。律法主義は反律法主義の逆である。人は、やった行いによって救われるので、信仰や恵みによらない、というのが律法主義である。イエスはパリサイ人の教えた律法主義を批判された。パウロも、特にガラテヤの信徒への手紙やローマの信徒への手紙の中で、このユダヤ教の律法主義を批判した。しかし、アンチノミアニズム(反律法主義、無律法主義)は、「救いは神への信仰によって与えられるので、キリスト者の人生のいかなる時も神の律法への服従は必要ない」と主張する。これがそれぞれ、アンチノミアニズムと律法主義であり、両方とも聖書の教えに反する。
アンチノミアニズムは古い教えではない。アンチノミアンともいうべき人々が、神の律法をことさら破っていたという歴史がある。彼らは、おもむろに悪魔崇拝をし、カイン派とかサタン崇拝者と呼ばれていた。また、自分自身の罪を栄光とみなしていた。マルチン・ルターは16世紀に友人ヨハネス・アグリコラの考え方を、アンチノミアニズムと呼んだ。アグリコラは、信仰によって義とされた者は、もはや神の倫理的律法に縛られず、律法から完全に離脱している、と教えた。
新約聖書はこの間違いを予測しており、いくつかの局面で対処している。新訳聖書は、救いに至る方法として、律法からの解放を教えるが、その意味では、確かにキリスト者は律法に拘束されていない。律法の全てを守りとおして救いに至る人間はいない。むしろ、人間は律法を守る能力がない罪人である。しかし、神の倫理的律法は我々キリスト者を清い行いへと導き続ける。キリスト者は信仰を通してのみ神の恵みによって義とされる。キリスト者には聖霊が内在され、その聖霊が神の倫理的律法に従うことができるようにされる。そして、神の倫理的律法を守ることが、キリスト者が義とされていることの証拠、即ち、イエス・キリストへの信頼を通して神の恵みにより救われ、義とされていることの証拠である。
アンチノミアニズム、無律法主義が誤りであるとことを教えている聖書の個所として、ユダの手紙4節には、次のようにある、「なぜなら、ある者たち、つまり、次のような裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからです」。 このように新約聖書は、アンチノミアニズムが異端の教えであると暴露している。
ヤコブの手紙も2章でこの異端を取り扱っている。14節には、次のように言っている、「私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わないならば、何の役に立つでしょうか」。「わたしはキリスト者である、私は救われている、義とされている」と誰でも主張できる。そのように自分がキリスト者であると主張してはいても、行動が伴わないならば、口だけの死んだ信仰しかない。第Iヨハネは次の様に言っている。「そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています」。言いかえると、アンチノミアニズムの信仰は、善い行いを伴わない信仰、即ち悪霊の信仰なのだ。
ガラテヤ5章を見ると、パウロはキリスト者の自由について論じている。しかし、13節で、「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させることに用いてなりません」と教えている。アンチノミアニズムの信奉者は次のように言っていたと考えられる、「我々は自由だ!パウロよ、その通りだ。我々は律法に支配されていない。恵みに支配されているのだ。信仰のみを通して恵みによって義とされた。だから、神の倫理的律法とはもう関わりはないのだ。神の律法は、我々を清い行いに導かない。逆に、我々が神の律法を破ることで、信仰による恵みの救い、正しい教えを表さなければならないのだ。それでこそ、真に信仰を通して恵みによって救われていることを誇れるのだ」。
Iコリント5章では不品行な男性についての記述がある。教会は、父親の妻と関係を持っているこの男性に不品行を改めさせようとしなかった。教会はおそらくこの男性に影響され、まちがった教えを信じこまされていた、と考えられる。信仰によってのみ救いの恵みをうけるのだから、自分の体でなにをしても問題ない、というような異端の教えであったのだろう。次の様な記述である、「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです」。教会はこの件を厄介と思わなかったし、対処しなかった。なぜなのか?Iコリント6:12に、コリント教会に出回っている次のスローガンがあった。それは、「わたしには、すべてのことが許されている」である。「自分はなにをしてもよい。神の倫理的律法を守ることに気を配らなくてもよい。私は信仰による恵みの義認を受けたのだから」というのである。使徒パウロは、このようなスローガンをナンセンスであるとして非難している。
Iヨハネ1章を見てみよう。使徒ヨハネはこのようなアンチノミアニズムの異端に対して6節で次のように指摘している、「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいない」。異端を信奉しているこの人たちは、信仰を通して恵みの救いを受けたので、もはや律法の制約下にはなく今は自分の体で何をするのも自由だ、と言っている。
Iヨハネ2:18-19は次のように教えている、「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです」。言いかえると、アンチノミアニズムは反キリストなのである。アンチノミアニズムの指導者、教師たちは教会から追放された。最初は教会で訓練を受け、イエス・キリストの教会の教えを純粋に保つように教えていたが、後に異端となったのである。
IIペテロ2章で、ペテロに戦いを挑む異端アンチノミアニズムを次のように言っている、「この者たちは、人々に自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです」。ユダの手紙でも同様に異端との戦いを教えている。これが彼等異端の姿を現している。特にアメリカで福音派と呼ばれている教会に人々が群れている理由がここにある。「あなたはキリスト者になれる、そして罪を犯せる」(訳者注解:必ずしも表向きにはそうは言わないが)とアンチノミアニズムの説教者が言っているのだ。罪の快楽、皆がそれを好み、注目するものである。
黙示録にもアンチノミアニズムの異端のことが書かれている。黙示録2:2は、「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている」と言っている。この「悪者ども」というのが、教会にアンチノミアニズムの異端を広めまわっている指導者のことである。簡単な救いの教え、それはナンセンスである。黙示録の2:14には、このようにも書かれている、「しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった」。これら異端教師は、人々が思う存分罪を犯しても大丈夫で、あなたはそれでも救われている、と教えていた。主イエス・キリストはそのような教えに反対される。
「Concise Theology」(聖書教理がわかる94章:篠原明訳)という本の中でJ. I.パッカーは、アンチノミアニズム異端をいくつかのタイプに分類している。第1のタイプは、二元論的なアンチノミアニズムである。これはギリシャ哲学の、人は体をもちそして魂を持つ、しかし体は物質でできており悪である、という二元説に基づいた教えで、「救いは魂の救いであって、体の復活は存在しない。なぜならば、体は悪だからである。従って、あなたが体でなにをしてもかまわない、思う存分罪をおかしても問題はない。罪を犯せ!魂が救われていることには影響しない」と言う。
第2のタイプとして、J. I.パッカーは霊中心アンチノミアニズムというものを挙げている。それは次のように教える、「聖書の教えが大事なのではない。私は霊的な人間で、聖霊に満たされている。だから、聖書の律法を凌駕している。聖霊に導かれており、聖霊は聖書の言葉を支配しておられる。聖霊は時として聖書と矛盾することもある。私は霊的なキリスト者で、聖霊によって導かれている。私は聖霊が言われることに従えば良いので、聖書の言葉に悩まされることはない」。Iコリント5章で言われているように、コリント教会は、霊的な賜物に恵まれた教会であったので、自らを誇り高い存在であるように誤解し、結果として間違った道を歩んでいた者がいたのである。そもそも聖霊は聖書の著者であり、聖霊が我々を真理に導く。だから、聖霊の働きは決して聖書と矛盾しない。事実、聖書を理解しそれに従うように力を与えられるのが聖霊である。従って、我々が真に霊的であれば、神の律法に従うはずである。律法をないがしろにすることはない。
第3のタイプは、リベラル、即ち自由主義的アンチノミアニズムである。リベラルは、「聖書が神の言葉である」ことを否定する。絶対的なものは存在せず、従って神も存在しないという、世間一般に信じられている、相対論的価値観に生きている。何にも動かされない神の律法というものはない、と聖書を否定し、心の赴くままに生きるというのが、自由主義的アンチノミアニズムである。
第4のタイプとして、状況しだいのアンチノミアニズムというのがある。それは、あなたの心の奥底に愛の動機があるならば、神の律法をなおざりにしてもかまわない、と教える。たとえば、「わたしは、他人の妻を愛している。だから、『姦淫してはならない』とか『他人の妻をほしがってはならない』といった律法は、この際なおざりにしてもかまわない。そうだ姦淫にはあたらないのだ」と言う。この様な間違った考えは、聖書が教えている愛を倒錯している。真の愛は聖霊の力によって神の律法を守る。
第5のタイプは、キリスト中心アンチノミアニズムである。これは、信じる者一人ひとりは其々キリストと一体となっていて、キリストの中に存在している、と教える。神の内におられるキリスト、その中に信じる者の命が宿っているので、神が個々人を見られる時、それは律法を完全に守り通されたキリストを見ておられ、私たち個々人の罪を見ておられない。従って、信じる者が神の律法を破っても、神様は依然、清いキリストを見ておられるのだから、何の問題も起こらない、と教える。なんともナンセンスな教えである。
第6のタイプ、それは現代的アンチノミアニズム。「イエスは救い主アンチノミアニズム」とも言う。救われる為には、イエスを救い主として受け入れなければならない、と教えるが、あなたの人生の主、即ちリーダーとする必要はない、と説く。救われた後は、イエス・キリストに従う必要がなく、信仰をもってイエス・キリストを救い主として受け入れたなら、それで万事は良い、と教えるのである。これは間違いで、聖書が言っていることではない。「もし口で『イエスが主である』と告白し、心で神がイエスを死から蘇らせたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)とたしかに書いてある。だが、神の前で真実に罪を悔い改めるならば、「そむいたことを赦してください。すべての主であるイエス・キリストに従います」と言うはずである。この「イエスは救い主アンチノミアニズム」は、アメリカ人には魅力的らしい。事実このナンセンスを信じている人は教会に群がっている。「倫理的な律法を守る必要はキリスト者には一切ない」と彼等は教える。
聖書が、そして主なる神が、これら全てのアンチノミアニズムを罪に定めている。Iコリント6:9-11で、アンチノミアニズムを行っている者に対し、神は次のように言っておられる、「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通するもの、男娼、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」。これが聖書の言っていることである。さらに聖書は、黙示録の21:8で、「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。これが第二の死である」と言っている。
聖書はアンチノミアニズムを罪に定めている。使徒もそれを罪に定めている。イエス・キリストもそれを罪に定めている。アンチノミアニズムは異端宗教であって追放されるべきものである。我々は信仰によってのみ恵みの救いを受ける。そして、我々に内在される聖霊の力づけによって神の律法を守ることができる。この倫理的律法を守るということは、キリスト者が信仰によって恵みの救いを受けていることの証拠となるのである。あなたが、アンチノミアニズムの誤りに陥ることなく、聖書の真の教えを信じるよう、祈ります。アーメン.
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