牧師に求められる資質と仕事

Titus 1:5-9
P. G. Mathew | Sunday, November 30, 2014
Copyright © 2014, P. G. Mathew
Language [English]

テトス1:5-9には、牧師の資質と仕事について語っている。牧師のみに求められる資格と考えがちであるが、牧師にとって良い資質ならば、それはすべての人にとっても良い資質なのである。

神は秩序の神である。家庭にも秩序があり、神の秩序の下において、家族は夫と両親のリーダーシップによって営まれる。教会にも秩序がある。教会は牧師のリーダーシップの下にあり、教会のすべてのことは、規律と統率をもって行われるべきである。これは国や地方政府にも当てはまることである。

そこでパウロはクレタ島にいるテトスに命じて、地域の教会でそれぞれ長老を任命するようにした。神は始めたことを必ず完成される。我々もそうすべきである。パウロはまた書いている、「アルキポに、『主にあって受けた務をよく果すように』と伝えてほしい」(コロサイ4:17)。

長老の資格

長老、監督、または牧師の資格とは何か? 神はこの聖なる、高い、天の召しにおいて、非常に高い資質を求められる。この世には、牧師、監督、または長老の仕事よりも高い資質を求められる仕事はない。米国の大統領や世界的大企業の責任者よりも高い資質が要求されている。

第一に、牧師は神からの召命をうけていなければならない。牧師は自分自身でなろうとしてなるのではない。教会は人を牧師にすることもできない。ルカ9:57–59には次のようにある、「道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、『あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります』。イエスはその人に言われた、『きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない』。またほかの人に、『わたしに従ってきなさい』と言われた。するとその人が言った、『まず、父を葬りに行かせてください』」。主イエスがそれぞれの牧師に召命を与えられる。モーゼ、イザヤ、エレミヤ、使徒たちも神によって呼びされた。例えばエレミヤはこう書いている、「主の言葉がわたしに臨んで言う、『わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした』。その時わたしは言った、『ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません』。しかし主はわたしに言われた、『あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである』と主は仰せられる」(エレミヤ書1:4-8)。

事実を言うと、ほとんどの牧師は神の召命を受けていない。神からの召命を受けている牧師は、まず神による救いを受けているはずである。救い主イエス・キリストの福音を伝える能力と知恵と恵みに満ちて、信仰に満ちており、聖霊に満たされているはずである。テトスは、こういう人たち長老に任命した。

パウロはテモテをエペソに残し、特に偽教師を阻止するため、聖書の秩序を確立せよと命じた、「わたしがマケドニヤに向かって出発する際、頼んでおいたように、あなたはエペソにとどまっていて、ある人々に、違った教を説くことをしてはならない」(1テモテ1:3)。真の牧師は人に懇願しない。人に媚びない。真の牧師は、人々に命令する。これを通して、神御自身が命令するのである。神は、全ての人に対して、罪を悔い改めて信じるように命じておられるのである。

イエス・キリストは教会の頭であって、すべての教会を支配しておられる。教会では、すべての事柄が秩序をもって、神を畏れる態度で行われるのである(コリント14:33、40節参照)。我々は、主なる神を畏れて救いの達成に努めるのである。

パウロはテトスに命じて、すべての教会の長老を命じた。その任務の基礎は、キリスト御自身の権威である。それが即ち使徒の権威であって、これによって、すべての教会で長老を任命した。 教会には複数の長老がいるべきである。「すべての教会で長老を任命せよ(プレブテロウス)」。つまり、教会の全ての仕事をあれやこれやとしている牧師などは、聖書に書かれていない。新約聖書すべて通してそうである。「キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ」とパウロはピリピの教会に対して書いている(ピリピ1:1)。使徒言行録14:23は記録している、「パウロとバルナバは、教会ごとに彼らのために長老たちを任命し、断食をして祈り、彼らをその信じている主にゆだねた」。

長老、牧師、監督は同義語である。「長老」は資格が必要である。初心者であってはならない。年上の人で、敬虔で、よく学んでいて、経験があり、物事をわきまえている必要がある。「牧師」と「監督」という言葉は、責任と機能を表している。

テトス1:5では長老、1:7では監督、1ペテロ5:1–4では長老、監督、牧師への勧めが語られている。1テモテ3:1–2でも監督、5:17でも長老への勧めがある。使徒言行録20:17、2でも監督と牧師に勧めが語られている。だから、長老、監督、牧師に対する勧めが繰り返されている。

家族の価値

パウロは、牧師の家族の価値を、その資格のはじめの条件に挙げている。牧師になりたいのであれば、特定の家族観を持たなければならない。牧師の家族に関する価値観は、そのまま我々の家族に関する価値観となる。

パウロは、「長老は非難されるところがない者」(6-7節)であるべきだといっている。これは一般的な資格である。長老は、人格的に非難されるところがあってはならない。彼は教会内でも教会外でも良い評判の人であって、敬虔で神を畏れる人、尊敬される人でなければならない。パウロが言っているように、「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい」と言える者でなければならない(1コリント11:1)。即ち、教会員の鏡となるべきである。

パウロは特定の家族価値を提示している。「一人の妻の夫であり」(6節)ということである。通常の状況に関して語っているのだが、通常、彼ら長老は結婚して子供がいる。だから、牧師は通常、それなりの年齢に達した男性であって、結婚して子供がいる。レビ記21:13-15は、大祭司がどのような人と結婚すべきかを教えている。イスラエルの処女と結婚しなければならない。離婚した女性、未亡人、または売春婦と結婚してはならなかった。

これらの教えは、教会の牧師が独身であるべきだというような考えが全くキリストの秩序に反していることを示している。実際、パウロはそれを悪魔の教えと呼んでいる(テモテ4:1-3)。牧師は、まず家族という神学校で学ぶべきである。エペソ5:18-6:4に教えられているように、確固とした家族観を持たなければならない。イスラエルに一夫多妻を導入したソロモン王のように、二人ではなく、一人の妻の夫でなければならない。牧師の資格として、あらゆる形態の性的逸脱と不道徳が禁じられている。牧師は彼の一人の妻に忠実でなければならない。

パウロが教える家族観では、牧師の子が不道徳に生きる放蕩者であってはならない。イエス・キリストを信じる者でなければならない(6節)。自らの子に伝道し、訓練し、正しく導けないならば、そのような人は神の教会を訓練し導くことはできない。牧師の家庭は神の国の支配が及んでいる所であって、聖霊における義と平和と喜びがある小さな教会のようなものである。

牧師の家族に混乱や分裂があってはならない。父親は権威をもって家族を統率すべきで、それは主なる神が与えた権威であり、子は従うべきである。教会は神の家庭である。家庭生活のふるまい如何によっては、牧師は教会を牧会する資格を失うのである(1テモテ3:15)。聖書は、父親が家庭を治めないとどうなるかを示している。たとえば、アロンの息子のナダブとアビフは、教会でいえば牧会者の立場であったのに飲酒におぼれてしまっていた。主なる神は彼らを滅ぼされたのである(レビ記10章)。エリの子ホフニとフィネハスは邪悪であったので、主なる神は彼とエリまでも滅ぼされたのである(1サムエル記2-4章)。サムエルの子供たちも罪に腐敗していた(1サムエル記8章)。

子供たちが親に従うように教える必要がある。牧師の子供たちは特に父親である牧師に従うべきである。「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである」(エペソ6:1)。

 個人的に持っている価値

パウロの教えているところによると、牧師はまた良いことや悪いことをはっきりと区別するしっかりとした個人的価値観を持っていなければならない。それは牧師の資質に必要である。パウロは、テトス1:7でもテモテ3:2でも、ギリシャ語の「デイ」をという言葉を用いて、それが単なるオプションではなく、必須の資質だと教えている。

それほど善悪をはっきりさせることがなぜ重要なのか?「長老は神の家のオイコノモスである」という表現が使われていて、それは家長ということである。即ち、神の家である教会を指導する任務を課せられているのである。オイコノモスはオイコス(家)とネモ(支配)の二つの言葉から来ている。だから、つまるところ牧師や長老は、神の家を支配せよ、という意味なのである。主イエスもこの言葉を使われた、「そこで主が言われた、『主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令(オイコノモス)は、いったいだれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう』」(ルカ12:42–44)。

牧師は、教会の家長としてキリストに仕える任務を負っている。キリストに対して全ての責任を負うのである。べブル人への手紙の著者は教えている、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない」(へブル13:17)。本当の牧師は、主イエス・キリスト御自身に対して責任を負っていることを知っているのである(1 Pet. 5:1–5).

牧師の立場は、高い道徳的資質が求められる(1コリント4:1-2)。牧師は、教会員を犠牲にすることはできない(エゼキエル34章)。代わりに、自分自身のことのように教会員を愛することが求められている。

牧師に相応しくない5つの資質というのがある。これについて考えてみよう。ギリシャ語では、そのすべてが「メー」という否定形「~でない」という言葉で始まっている。

  1. メー・アウサーデ、これは「自己中心的でない」という意味である。アウサーデは、アウトスとヘドマイという2語が結合しており、自己満足をあらわす。自己中心な者は、「自分がしたいときに、やりたいことをしたい、だれも私に命令する資格はない」と考えている。そのような者は、フィラウトスである。主なる神や隣人よりも自分を愛する者である(2テモテ3:4)。メー・フィロテオイ、つまり主なる神を愛さないのである。真の礼拝、神の御心を仰ぐことは決してないのだ。数多くの人が他人を犠牲にして自分自身を守っている。これはどの子供を見てもわかる。子供は、自分のことしか考えていない。母親と父親、兄弟、すべての人から注目されて、世話されることだけを期待しているのだ。
  2. メー・オルギロン、それは「短気ではない」という意味である。すぐ爆発しない、争わない、即ち平和を好むという資質である。ある人間は、いとも簡単に怒る。箴言22:24は警告している、「怒る者と交わるな、憤る人と共に行くな」。箴言29:22にもある、「怒る人は争いを起し、憤る人は多くの罪を犯す」。
  3. メー・パロイノン、「酒飲みではない」という意味で、アルコール中毒、薬物中毒の者ではない、ということである。すでに述べたように、アロンの子供ナダブとアビフは酒飲みで、主なる神に滅ぼされている(レビ記10:8-11)。
  4. メー・プレクテン、「殴る蹴る者ではない」の意味で、人を虐める者、暴力的な者であってはならない、ということである。またもめ事を探すような者であってはならない。
  5. メー・アイスクロケルデス、「お金を愛する者ではない」という意味で、汚れたお金を嫌うということである。パウロは、「教えてはならないことを教え、これを自分の糧にしている」偽りの牧師の口を封じなければならない、と言っている。パウロは自分自身について、「多くの者と違って、我々は利益のために神の言葉を曲げない」と言い切っている。それどころか、キリストの権威の下で、神から信任を受けている者として、神の言葉を薄めない、と語っている(2コリント2:17)。へブル13:5 にはこう書いてある、「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。パウロは書いている、「金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした」(1テモテ6:10)。 そして主イエスは言われた、「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」(マタイ16:26)。 牧師は、決して信仰の道をお金儲けに用いてはならないのである。これはなにも、牧師は給料をとるな、という意味ではない。それどころか、牧師の生活にお金が必要である、と聖書は教えている(1テモテ5:17–18)。偽牧師が世間にいて、使徒の教えではなく、人々が聞いて喜ぶことを言って、お金儲けをしているのである。そのような偽牧師であるが、主キリストはそのような者を非難しておられる。彼らは、罪や悔い改め、主イエスに従う聖なる生活と信仰を教えることはない。むしろ、彼らは聞く人々を楽しませて喜んでいる。しかし、本当の牧師は楽しまないでしょう。彼は現実の問題を直視させる。人間の罪を説く。悔い改めを迫り、主イエス・キリストに対する信仰について話す。これを聞く者が救われるためなのだ。

パウロは、牧師や長老に求められる6つの資質を挙げている。

  1. フィロキセノン:すすんで人をもてなす。使徒27章には、マルタ島の代表官吏であるプビウスという人物にについて記録がある。276人に食事や他の必需品を与えて助けたと記されている。牧師は貧しい人々、旅にある人達、また特にクリスチャンを愛すべきである。彼らのために進んで家庭を解放する者である。イエスは言われた、「どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ」(マタイ10:11)。これこそ、もてなしの心である。リディアという女性もそうであった、「そして、この婦人もその家族も、共にバプテスマを受けたが、その時、彼女は『もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい』と懇望し、しいてわたしたちをつれて行った」(使徒言行録16:15)。 同じ章に次のように書いてある、「さらに、ふたりを自分の家に案内して食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ」(使徒言行録16:34)。他の箇所でもパウロが書いている、「ついでにお願いするが、わたしのために宿を用意しておいてほしい。あなたがたの祈によって、あなたがたの所に行かせてもらえるように望んでいるのだから」(ピレモン22)。また子のようにも書いてある、「旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした」(へブル13:2)。これは牧師だけに求められる任務ではなく、全てのキリスト者に求められているのである。ペテロも勧めている、「不平を言わずに、互にもてなし合いなさい」(1ペテロ4:9)。
  2. フィラガソン;良心を愛する。 主なる神が究極の善であるため、神を信じる者は善を好み、特に神を愛する。そして神は我々を罪から救い、神を求めるようにしてくださったのである。だから、我々は神の民として、自己愛に埋没するのではなく、無私の態度で互いに仕える者となるべきである。我々は、神の民である兄弟姉妹としてお互いを大切にするのである(マシュー牧師解釈)。キリストが私を愛し、命を犠牲にされたので、そのような愛をもって神の民であるお互いを愛する。主なる神を信じない者は、テモテ2:3で、アフィラガソイ(善を愛さない者)と呼ばれている。2テモテ3:4では、アフィロセオイ(主なる神を愛さない者)と呼ばれている。我々はまた、神の言葉とその戒めを愛すべきである。主なる神の戒めにしょうがなく耐えているのではなく、我々はその戒めを愛している。なぜなら、それは、今の悪しき時代に生きるべき方法を教えてくれるからである。実際にそれを喜んでおいるのである。パウロは言っている、「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう」(ピリピ4:8–9)。
  3. ソフローナ:自制力がある。牧師は特に自身の心を自制する能力が求められる。ソフロナミアンスという類義語は、しっかりした心の意である。主なる神を信じる者は、聖霊に満たされるとき、主の霊によって心が制御されるのである。パウロは言っている、「というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」(2テモテ1:7)。主イエスは、気のくるった悪霊につかれた人を癒された時、その者は主なる神の視点から真理を理解する心が与えられたのである。しかし、主イエスを信じない者には、その心を本当に制御するてだてがない。愚か者は、心の中で「主なる神などいない」と考えているのである(詩篇14:1)。1コリント2:15にも書いてある、「しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。「ホ・デ・プニューマティコス・アナクリネイ・タ・パンタ」(しかし霊の人は全てを判断する)。パウロは宣言している、「ヘメイス・デ・ノウン・クリストウ・エコメン」、それは 「わたしたちはキリストの思いを持っている」(2コリント2:16)という意味である。我々人は堕落した心を持っていたのである(ローマ1:28)が、今はキリストの心を与えられている。聖霊に支配された心、それは主なる神の思いを追い求める。神の言葉である聖書を愛する。主なる神を信じ求めない者は聖書を憎む。聖書が彼又は彼女を罪人であると宣言するからだ。
  4. ディカイオン:人間関係において正しさを貫く。自分が損害を被っても、言った言葉を守らなければならない。ヨハネは書いている、「子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である」(1ヨハネ3:7)。神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びである、とパウロは言っている(ローマ14:17)。
  5. ホシオン:清い(聖い)。純粋な心で主なる神を礼拝する。神は聖なる方なので、我々も清い者でなければならない。神は我々をいろんな方法で清くされるのだ。聖書は、清くなければ誰も神を見ることはないと教えている。主イエスは教えておられる、「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう」。牧師や長老は、人にたいして正しく正義を行い、神に対して清い者でなければならない。
  6. エグクラテー:自制力がある。この言葉は、エン・プルス・クラトスから来ていて、力を持つという光の強度を表す意味である。あなたは、この力を持っているか? 信仰者は体の欲と感情を制御するこの力が必要である。我々に葉、悪魔とその誘惑に抵抗する聖霊の力がある。このように福音書は主イエスのことを言っている、「イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、荒野を40日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた」(ルカ4:1–2)。我々には聖霊の力が必要である。主なる神に正しくないことには「No」と言い、正しいことには「Yes」と言う強さが必要である。この自己制御は聖霊の力による(ガラテヤ5:23)。エジプトのヨセフを考えてみよう。若い頃、彼はポティパルの妻に誘惑された。しかし、「私はこのような邪悪なことをして、神に対して罪を犯すことがでようか?」と彼は言って、誘惑に勝った。ダニエル書1:8には、ダニエルがバビロニア人に勧められる食べ物とワインで自らを汚してはならないと決心した様子が記録されている。メディアとペルシアにいる者は、1ヶ月間、ダリウス王以外の者に決して祈ってはならない、と命令が下った。ダニエルはその命令に違反し、いつものように日に3度主なる神に祈った。ダリウス王はダニエルをライオンの檻に入れたが、天使が来てダニエルを助けた(ダニエル書6章)。また、ダニエルの友人3人のヘブライ人はネブカデネザル王が作らせた像を拝むように命令された。これに背いた彼らは、燃える火の中に投げ入れられた。しかし、主なる神の子が火の中におられた。主イエスは言われた、「わたしは、いつまでもあなた方と共にいる」。主イエスは聖霊によって生き、決して罪を犯されなかった。主イエスについてこう書かれている、「このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである」(へブル7:26)。そしてパウロは言っている、「すべて競技をする者は、何ごとにも節制(エンクラテ)をする。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである」(1コリント9:25–27)。つまるとおろ、牧師や長老はよく訓練された者でなければならない。

牧会の価値

牧会にはある種の価値というものがあって、牧師は価値ある牧会をすることが求められている。テトス1:9には、「教えにかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない」と書かれている。ここに使われているアンテコメノンという動詞は、信頼できる言葉である福音を保ち続けるという意味である。これが我々に求められているのだ。聖書にしっかり立脚し、学び、満たされよ。聖書の真実を間違いであるとののしる文明は、堕落して滅びる。しかし、神の言葉は永遠に続く。

長老、監督、牧師(教父と呼ぶ教会もある)は、常に神の言葉に素早く従う者である。神の言葉を決して手放してはならない! キリストによって使徒たちに与えられた神の言葉、ゆだねられた福音、これを手放してはならない。それは神聖なる信任によっているのである。神の言葉に追加したり、神の言葉から差し引いたりしてはならない。

子供たちよ。両親に従え。妻たちよ。自身の夫に従え。夫たちよ。妻を愛し、キリストが教会を愛したように、自分を捧げよ。これは家族の決まりである。詩編1章は、主の律法を喜び、それを昼も夜も瞑想せよ、と言っている。

長老は、主なる神に従うことによって、その結果が究極、殉教するかもしれない。しかし、悪魔のすべてに反対し、聖書と使徒の教えに従うべきである。そのような問題がなければ、おそらく世界の誰でもキリストを信じて教会に行くだろう。しかし、実際のところはどうか。キリストを信じるということで、世界中では殺されている信仰者もいるのが事実である。ステパノ、ヤコブ、ペテロ、パウロ、時代を通じて何百万人ものキリスト者が今も戦っている。歴史を通じて、体を焼かれ、砕かれ、煮えたぎる油に放り込まれた者もいた。しかし、そのように守られてきた神の言葉を手放しはならないのである。

牧師が忠実に説く説教は、カタ・ディダケーという言葉で呼ばれており、新約聖書の使徒の教えのことを指す。つまり、自分で勝手に考え付いたことを話す権利はない。彼が説くものは新約聖書に適合しなければならない。だから、牧師は熱心に学ばなければならない。

使徒言行録2:42には、弟子たちが自から奉仕をし、使徒の教えを守って、交わり、聖餐を守って、祈っていた様子が記録されている。使徒の教えは信頼できる神の言葉である。

神の言葉は、それはキリストの教えでもあるため、信頼できるのである。1テモテ6:3でパウロは言っている、「もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば、その者は高ぶっている」。神の言葉は信頼できる。対照的に、偽教師は自分で勝手に牧師や教師になった者達で、彼らの教えは、人をたぶらかしてお金儲けに使われるだけである。

神の言葉は信頼できる言葉である。しかし、人の言葉は信頼できるだろうか?人々は口から色々な約束をするが、その約束はちゃんと守られるだろうか?洗礼式、結婚式、そこで聞いた約束を守らず、信仰を捨てる人、離婚する人がいる。これは罪深いことである。主なる神に対して嘘をつくこととなるのである。我々は立てた誓いを破ってはならない。

偽牧師は霊的な囚人である。彼らの多くはテレビに出ている。これらの偽牧師、偽教師に怒る必要がある。聖書の使徒の教えを捨てて、正しい教えを教えない者たちに対して怒れ。

神の言葉は信頼できる。なぜなら、それは神の言葉であり、それは神がアプセウデス(偽ることができない)からである。全ての人間を偽りとしても、主なる神のみ常に真実である、とせよ。主イエスは言われた、「そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすだろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」 (マタイ24:9–13)。

主イエスは真理を語られた。「もしあなたが私についてきたいならば、自分を捨て、自分の十字架背負って従え」。「生きることはキリストであり、キリストのために死ぬことは益である」とパウロは言っている。我々の肉体が死に、我々がそこから出るのは、即ちキリストと共に存在することを意味し、神の御子キリストが十字架上で死を滅ぼされたからである。

パウロは、「私はすでに杯の捧げもののように注がれてしまっている」と最後の手紙で書いている。キリストのために斬首されようとしていることを知っていた。続けて「私の出発の時が来た」と言っている。出発は死であるが、パウロにとっては神の国への出発を意味した」。パウロは結論している、「わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう」(2テモテ4:6–8)。我々は主の出現を待ち望んでいるだろうか?

黙示録2:11にはこう書いてある、「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」(黙示録2:10)。死と命という言葉に注目せよ。

使徒の教えと合致しない教えは、悪魔の教えである。だから、1テモテ4:1–2にはこのように書いてある、「しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰(使徒の教理)から離れ去るであろう。それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざである」。この国には、悪魔に支配されている牧師に満ち溢れている。彼らは、イエスの名によって、聖霊の名によって悪魔の教えを宣伝している。「そのような教えは、偽善者の嘘によるもので、彼らの良心は灼熱の鉄のようにねじれてしまっている」とパウロは言っている。どんなに真直ぐに正そうとしても、冷えて固まってしまっていて無駄である。ねじれた良心である。

従って、牧師は聖書の正統な教えをしなければならない。パウロは書いている、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」(2テモテ3:16–17)。真の神の人は、神の言葉を持っており、説教し、教え導く能力がある。

1テモテ1:10–11でパウロは律法について教えている、「不品行な者、男色をする者、誘かいする者、偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、そのために定められていることを認めるきである。これは、祝福に満ちた神の栄光の福音が示すところであって、わたしはこの福音をゆだねられているのである」。福音を説く牧師には、自分勝手なことを教える自由も権利もない。使徒の教えを伝えなければならない。既に読んだように、「もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば」と書いてある(1テモテ6:3)。パウロはまた教えている、「あなたは、キリスト・イエスに対する信仰と愛とをもって、わたしから聞いた健全な言葉を模範にしなさい」(2テモテ1:13)。そして子のように勧めている「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」(2テモテ2:8)。福音は、イエス・キリストご自身とその言葉に他ならない。

2テモテ4:3に、「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集めるようになる」と警告している。我々はまさにその時代に生きている。神の言葉は言っている、「子どもたちよ。すべてのことについて両親に従い、祝福され、長く生き、繁栄せよ」。子どもたちよ。この言葉に耳を傾けなさい。「人々が健全な教えに従わない時がくるであろう。そして、自分の欲求に合うこと、聞きたいことを言ってくれる教師に耳を傾け、そのような教師を集めてくる」ようになる。本当の福音には背を向けるようになるのである。

テトス2:1に「あなたは、健全な教にかなうことを語りなさい」とある。エキュメニカル運動を見よ。彼らは何を言っているか? 「正しい教えは分裂をもたらすが、愛は全ての者を結ぶ」と言っている。マーティン・ロイドジョーンズ博士はこの運動に反対した。我々は、泣いたり笑ったりすることで天の国に入れるのではない。救われるためには、正しい教えを信じなければならない。この道は明確に示されている。それは狭い道、主イエスの道である。

2ヨハネ9–10節にあるように、「すべてキリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者は、神を持っていないのである。その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ。この教を持たずにあなたがたのところに来る者があれば、その人を家に入れることも、あいさつすることもしてはいけない」のである。

確かに良い人格を備えており、新約聖書の教えを持っている人たちは、ドゥナトスという言葉、真の強さをもった人たちである。これが教えられていることである。使徒18:24は、聖書に精通していたアポロという人について語っている。これこそ、牧師もつべき強さである。これこそ、一家の父親、そして夫婦のなかでは夫が強くなければならないものである。そのような人こそ、本当に聖書にしたがって教え、導くことができるのである。

コンスタンティノープルの4世紀大司教クリソストムは、父親たちはお金儲けに奔走し、子供たちを教え導かず、使徒の教えを無視している、とその当時の状況を嘆いている。これは今日も同じである。お金があればなんでも解決すると考えている。そうではない。我々に必要なものは、より少ない金と、より多く主なる神に頼ることである(ホセア12:8、黙示録3:17-18)。

真の牧師は、ドゥナトスである。彼は福音説教する力に溢れている。福音は人を救いに導く神の力であるからだ(ローマ1:16)。主イエスは約束された、「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒言行録1:8)。我々は神の聖霊によって大きな力を発揮できる。アポロは聖書の中ででも、偉大な「エン・タイス・グラファイス」であった。人や世の中を恐れることなく、強い信仰と大胆さで説教したのである。我々も、そのように主なる神の助けを得たいと願う。

真の牧師は聖霊と神の言葉に満たされている。なので、真の牧師は聖霊の剣であるこの神の言葉を用いて罪びとである我々の心に切り込み、悔い改めに導く。その結果、我々は、神の言葉によって癒され、清いものとして養われる。食べさせるために聖霊の剣を使います。真の牧師が説教をすると、このように人の霊における再生の奇跡が起こる。大抵、このような牧師は、聖書を丁寧に順序よく解説していく説教をする。

だからパウロは命じている、「神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」(2テモテ4:1–2)。これこそ牧師の仕事である。牧師の訓戒を嫌うなら、それは我々の側の問題となる。我々の為を思って、牧師は神の言葉を教えてくれているのである。パウロは、使徒言行録20:32で言っている、「今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言葉には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある」。政治も哲学も科学もこれは無理である。神の言葉だけがその力を持つ。

もし説教者が聖書の言葉を説いていなければ、彼はキリストのしもべではなく、悪魔のしもべであり、その教会は悪魔の集会場である。その集会は人々を地獄に送る。あなたが本当に主なる神から生まれている者であれば、聖霊はあなたの足を正しい教会、即ち福音を教える教会に導く。ある者は、結婚相手を探そうと教会に行く。ある者は、自分を売り込むために教会を訪れる。このような者達は、神の言葉に関心がない。別の間違った目的があるのだ。

神の言葉の説教を通して、我々は神に属する人々を励ます。羊である神の民に聖書の言葉、生きたパンを食べさせて養うのである。我々は健全な教えをもって神の民を励ますのである。

この短い手紙で、パウロは「健全な教え」という言葉を5回使っている(テトス1:9,13; 2:1,2,8)。「健全」(フギアイノー)という医学用語を用いて、衛生的、健康的、病気のない状態に喩えている。残念ながら、ほとんどの教会は人々を病気にするような間違った福音を教えている。

我々は、フギアイノーな教えを説かなければならない。このような教えは、人を楽しませるようには設計されておらず、あくまでも健康を与えるように設計されている。健全な福音は我々に健康と癒しをもたらす。罪びとに甘いことをいって、ちょっとの間だけ楽しませるのは偽りの福音である。結局、そのような偽物は人を生かさず、病気にし、霊的に殺してしまう。

真の福音は、我々を癒す。こう書いてある、「そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える」(箴言3:8)。こうも書いてある、「わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。それを、あなたの目から離さず、あなたの心のうちに守れ。それは、これを得る者の命であり、またその全身を健やかにするからである」(箴言4:20–22)。霊的および身体的健康は、神の言葉を通して我々にもたらされる。神の言葉は、体と魂のための薬である。ペテロも言っている、「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである」(1ペテロ2:24)。

牧師の義務は、神の民を慰め、励まし、教え、導くだけでなく、福音に反する者をすべて暴露し、彼らに対抗するという厳しいものである。我々の教会では、これを実行している。世の様々の宗教の教えや信仰と言われるものを正当化する多元主義というものは存在しない。この国では、人が欲しいと思うものはなんでも自由に宣伝してよいようだ。人が望む通りの教えを説いて、それで地獄に行くのも自由であろうか。いや、イエス・キリストだけが我々を救うことができる。人を救いに導くことができるのは、正しい福音だけなのである。

偽預言者は常に真実に反対する。邪悪なアハブに対して、一斉に預言したバアルの預言者のように、彼らは毎日嘘をつく。行って戦え。勝利して戻るだろう、とアハブに預言した。彼は行ったが、死んで戻った(1列王記22章)。

ミカヤのように、我々は神の言葉を説き、すべての嘘に反対しなければならない。多くの人々は、真理を説いてはいる。しかし、誤った教えに反対しない。しかし、我々は、お金や名声を求めていないので、嘘や誤りに反対する。世の終わりの日に、主なる神は我々に何と言われるか?むしろそちらのほうを我々は心配すべきである。

アハブは死んで戻った。悪魔は嘘つきであり、すべての嘘の父である。嘘つきはすべて悪魔の子供であり、すべての嘘つき牧師は悪魔の子供である。「この木から取って食べたら、あなたは必ず死ぬであろう」と神は言われた。しかし、創世記3:4では、蛇が言った、「あなたは必ず死なないでしょう」。それゆえ、真の牧師の義務は、お金儲けのために嘘を教える者を暴かなければならない。

今日の多くの教会は、福音の真理に反対し、嘘を宣伝している。福音の言葉を憎む人々を霊的に滅ぼすエボラ熱がある。それはアフリカで発生しなかった。それは西洋世界で発生した。大学や教会に広がり、今も人々を霊的に滅ぼしている。

結論

長老、監督、牧師は:

  1. しっかりとした家族観を持つべきである: 結婚関係を尊び、子供を主イエス・キリストへの信仰へと導き、従順な者として育てる責任がある。
  2. 罪の生活におぼれてはならない。
  3. 良い人格を備えていなければならない。
  4. 使徒の教えを理解し確信しなければならない。
  5. 神の言葉を説き、教え、導き、偽りの教え嘘の教えに対抗しなければならない。

牧師の召命は、高く、神聖で、天の国に相応しい。従って、これに相応しい資質を持つ必要がある。心配はいらない。もし主なる神があなたを牧師として召されるならば、その任務に必要なものを完全に整えられるのも主なる神である。1テサロニケ5:24にあるように「あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう」。

1 教会のリーダーになろうとしている父親がいる場合、まずその親が自分の子供たちにどのように相対しているかを観察する必要がある。自分の子供の教師になれない親に他人の子を導くことはできない。幼少の時から成長するまでの期間、ずっと教育し導いてきたはずである。もし、自分の血族である子供に権威と規律をもって相対してきていないなら、そのような指導は教会の益にならない。お金儲けとこの世のことに奔走し、子供のしつけなどを二次的な関心事として大した注意も払わず、価値がないこととしてきたなら、もとより彼のリーダーシップは無意味である。自分の富を子供よりも大切にしていたのであるから、子供に愛情や気遣いも払わない、そのような者が教会の先頭に立って、他の人を導く立場に相応しいはずがあろうか? 例えば自分の子供のしつけすらできないなら、それこそ人格的弱点がある証拠である。自分の子供に関心もない者が他の人々を世話することなどできようか? William D. Mounce著 「Pastoral Epistles」からの引用(vol. 46, Word Biblical Commentary series [Nashville, TN: Thomas Nelson, 2000], 393)。