神の忠告に従う
Genesis 3:1-7P. G. Mathew | Sunday, December 04, 2016
Copyright © 2016, P. G. Mathew
Language [English]
我々は皆、忠告を聞いて従うが、問題は、だれの忠告に従うべきかである。使徒言行録27章にローマへの船でのパウロの様子が記録されている。彼はローマ皇帝の前で裁判を受ける途上、クレタ島の南岸のフェア・ハヴェンに着いた。神の忠告がパウロに来て、乗船者275人に発表された、「皆さん、わたしの見るところでは、この航海では、積荷や船体ばかりでなく、われわれの生命にも、危害と大きな損失が及ぶであろう」(使徒言行録27:10). パウロに来た神の忠告は、「帆を上げて船を進めるな」であった。しかし、他の者たちは神の忠告を拒否した。操縦士、船の所有者、百人隊長、大多数の者がこれに従わず、船を進めた。このため、彼らは船と貨物を失った。そして、命までも失うところだったが、慈悲深い主なる神が彼らの命を救われた。
神の確かな忠告を拒否するすべての者に滅亡がくる。それは、親や牧師、その他敬虔な教師からくる。神の忠告を憎む者は、悔い改めて神に助けを求めず滅びる。
聖書によると、自由で独立した人間はこの世界に存在しない。人は限りあるものであり、聖書に示されているように神の忠告に従うか、それとも悪魔の助言に従うかである。その間はない。そして、悪魔の助言は常に神の忠告の真反対である。例えば、エデンの園で神は言われた、「しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創世記2:17)。しかし、悪魔は言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」(創世記3:4)。アダムとエバは悪魔の助言に従った。彼らは食べて死んだ。このため、すべての子孫が罪人として生まれた。
我々が畏れおののいて主なる神の忠告を守ることで祝福されるようにと、私は祈る。アダムのすべての子孫は、性根から罪人である。我々生まれながらの人間は、罪を犯さないことができない。つまり、罪を犯すことしかできない。主なる神が我々を新しく生まれさせ、この奇跡によって新しい創造物にしない限り、我々は常に罪を犯す。しかし、罪人が再生させられると、聖霊の力によって神に従うことができる。即ち、罪を犯さない自由が得られる。
神の忠告に関する7つの事柄を学んで、悪魔の助言を避け、神の忠告を求めて従い、祝福されよう。
1.完全な道徳的不能状態-アダムの子孫
まず、我々アダムの子孫が道徳的不能であることを知るべきである。パウロは、全ての人は完全に堕落している、と教えている:
「すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。次のように書いてある、『義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない』」(ローマ3:9–18)。
罪の支払う報酬は永遠の死である。神であり人である主イエスだけが罪のない方である。父なる神に、完全に忠実に従われた。イエスは言われた、「私の食べ物は、私を遣わした方の意志を行い、それを成し遂げることです」。この完全な神であり人である主イエスを信頼する人は、神の慈悲によって永遠に義とされる。
主イエスに信頼する者だけが、速やかに、完全に、喜んで神の忠告に従う。そうでない他の者はすべて悪魔の助言に従う。
2. 罪の奴隷
イエス・キリストを信じない人はすべて、罪の奴隷である。彼は罪を犯すことしかできない。パウロは次のように書いている、「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった(エペソ2:1-3)。
信じない者について主イエスは言われた、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ」(ヨハネ8:44)。ヨハネは書いている、「わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている」(1ヨハネ5:19)。パウロは言っている、「彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである」(2コリント4:4)。
ヨハネ10:10節で、主イエスは言われた、「『盗人』悪魔は盗み、殺し、破壊する」。しかし、主は良い知らせを言われる、「私が来たのは、人々が命を豊に得るためである」。 キリストのみが、我々を悪魔の支配と組織から解放することが可能である。主だけが我々を新しく生まれ変わさせられる。我々は、悔い改めて、主イエス・キリストを信じて救われるためである。
あなたは誰の忠告を受けているか? 聖書に見られるように、あなたは命を与える神の忠告に従っているか? あるいは、この世での罪の喜びと永遠の死をもたらす悪魔の反聖書的な忠告に従っているか? もしそうなら、考えてみよ。悪魔や悪霊に自由はない。 彼らはすべて神の主権の支配下にある。すべての悔い改めない罪人とともに彼らは地獄に行くことが定められている。主イエスはこの恐ろしい真実を語られた、「それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。』そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」(マタイ25:41, 46)。
神に仕えるか、それとも悪魔に仕えるか、それが我々の選択である。間の道はない。神の造られたこの地上に、完全に自律した人間、完全に独立した人間というのはいない。少数の人々が神に仕え、聖なる忠告に従う。しかし大多数は自分たちの父である悪魔の忠告に従い、罪奴隷となって生きるのである。
すべての人々は生まれながらに不従順な子である。しかし、神は彼らの中かから救われる人々を起こされる。イエス・キリストを通して彼らに新しい命を与え、神に従うようにされる。そして、そのような人々は神の御心を行う。両親が語る時、牧師が話す時、神を畏れる先生が話す時、その忠告に彼らは従う。
3. 新しく生まれる
我々は、新しく生まれる必要がある。主イエスは言われた、「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイ7:13–14)。大多数の者は、永遠の破滅に至る広い道を行く。しかし、神から生まれた者たちは、永遠の命に至る狭い門を通って行く。
パウロは、我々人間の自然の姿を次のように言っている、「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである」(エペソ2:1–2)。これは、我々が悪魔の子と同類だということである。しかし、ペテロは忠告している、「従順な子供として、無知であった時代の欲情に従ってはならない」(1ペテロ1:14)。すべての不信者は自分の欲を満たすために生きている。しかし、ここでペテロは、神から生まれた人たちについて話している。彼らは従順の子と呼ばれている。
神の子たちは、神の再生の奇跡によって新しい心を与えられている。主イエスはヨハネ3章でニコデモにこう言われた、「新しく生まれなければ、あなたは神の国を見ることも、入ることもできない」。神の国は永遠の命である。それは大きな喜びと真の幸福の命である。そのような者たちだけが、神の言葉と完全な御心を喜ぶ新しい心を持つ。主なる神を喜ぶ、神を愛する心である。彼らに内在する聖霊の力によってそうすることができる。そのような人々は聖なる人々であり、悔い改めと信仰の聖なる生活を送る。言い換えれば、神の民は、聖書に示されている神の言葉によって生きる。
神のもとに来ない者は、主なる神をも神の忠告をも嫌う。しかし、義とされ、神の子どもとされた神の人々は、神の忠告を聞いて、喜んで従う。
4. 神の忠告を喜んで受け入れる
神の人々は、神の御心を喜んで行う。詩編には次のように書いてある、「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う」(詩篇1:1–2)。 神の人々は、神の御心を好み、それに耳を傾ける。喜んで行うのである。詩編には、他の箇所でも、次のように言っている、「わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。夜はまた、わたしの心がわたしを教える」(詩篇16:7)。夜でも、神は教えられるのである。そして、「あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる」(詩篇73:24)のである。イザヤは救い主について宣言しておられる、 「その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」(イザヤ書11:2)。忠告の聖霊が我々の主である救い主イエス・キリストに宿っておられる。イザヤは言っている、「ひとりのみどり子がわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」(イザヤ書9:6)。ラオデキヤの教会の者は、自らをなにがしかの者と誇っていたが、これを戒めるために、主イエスは忠告しておられる、「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい」(黙示録3:18)。
牧師は、神の教えを説き、神の民を導き忠告を与える役目を担う。それは、我々が神を畏れて真に祝福された生活をするためである。牧師は、神の言葉を人々の心に向け、それに従うよう要求すべきである。牧師は、人を恐れず、人の意見を恐れず、権威をもって人に忠告しければならないのである。[1]
パウロは人々に忠告を与えよと教えている。「わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである」(コロサイ1:28)。パウロはギリシャ語のノウセテオという言葉を使っている。それは、警戒、叱責、訂正、警告する、ということである。すべての牧師の責任は、キリストにあって人を完全な者として成熟させることである。
パウロがまた言っている、「兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじなさい」(1テサロニケ5:12)。これは即ち警告、叱責、訂正を意味し、大切に思っているがゆえである。パウロは、同じ言葉を使徒言行録20:31でも使っている。「だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりひとりを絶えずさとして(ノウセテオ)きたことを、忘れないでほしい」。それぞれの人の霊的問題に多大な注目をしているのである。
この警告、叱責、訂正は、牧師が行うだけでなく、神の家族に属するすべての者の仕事でもある。こうして、すべての信仰者は聖書を理解して、それに従って生き、神の聖なる家族の一員としてお互いを助けるのである。パウロは言っている、「わたしの兄弟たちよ。あなたがた自身が、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互に訓戒し合う(ノウセテオ)力のあることを、わたしは堅く信じている」(ローマ15:14)。神の言葉を理解し、それを心に蓄え、実行すべきである。即ち、教会に来てはいるが神の言葉を実践しない者であってはならない。主なる神を畏れ、実践するひとが、本当の忠告を行えるのである。
パウロはまた言う、「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロサイ3:16)。我々は、神の言葉で心を満たさなければならない。心に充ちることを口が語るものである。我々は、神の家族の一人一人に心を配り、お互いに教え、忠告しなければならない。したがって、牧師だけでなく、すべての信仰者が、神の言葉を使ってお互いを忠告する責任がある。パウロはこうも書いている、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全に整えられた者になるのである」(2テモテ3:16–17)。神の言葉に「主がこのように語っておられる」と言って、忠告するのである。
すべての不信者たちは悪魔の子である。唯一の救い主であるイエスを信じて福音を理解できない状態に、彼らは霊的盲目状態にある。彼らは、心で主イエスを嫌っており、聖書を嫌っている。また、本物のクリスチャンを嫌う。しかし、彼らは、偽のキリスト教、心理学、哲学、偽科学、偽宗教、無神論、富、はかない人生の美しさや輝き、などというこの世的なイチジクの葉で、自分たちの罪悪感の裸を覆い隠そうとする。彼らは、お互いに不信心な者たちで、間違った助言をし合いながら、罪人の道を行き、神の教えを嘲る椅子に堂々と座る。
世の中と教会の両方に足を踏み込んでいる二心のキリスト者というのがいる。このようなキリスト者は、気をつけなければならない。悪い社会は、このような中途半端なキリスト社を堕落させる。我々は、だれも仲間に影響されるものである。そのような者は、神の恵みと言葉で成長できず、いつまでも霊的な幼児として生きることを選び、やがて時が来ると、主イエス、聖書、神の聖なる人々を憎むようになるものである。
5. 心の曲がった者とは
神の忠告を拒否した心の曲がった人々の例を考えてみたい。
- カインは主なる神の忠告を拒否した。主なる神がカインを直接忠告された、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」(創世記4:6–7)。しかし、カインは主の忠告を拒んだ結果、主なる神は彼を拒まれた。結果、カインは悪魔によって破壊に導かれる者となった。
- ソロモンの子レホボアムは、長老たちの良い忠告を拒否し、邪悪な若い友人たちの勧告を受け入れた。結果、王国(10の部族)の83%を失った。
- アハブはミカヤの聖なる助言を拒み、悪魔の嘘に固執した。彼は戦争に行って殺された。主の言葉が警告した通りであった(2歴代誌18章)。もしあなたが主なる神の忠告に従わなければ、必ず悪魔の助言に従うことになる。それはあなたを必ず永遠の破壊に至らせる。
- ヨアシュは神の預言者ゼカリヤの勧告を拒否した。ヨアシュは預言者ゼカリヤを殺した。ヨアシュは悪魔の助言に従い、結局殺された(2歴代誌24章)。
- エホヤキムは、ヨシヤ王の子であったが、悪魔に支配され、預言者エレミヤを通して語られた神の言葉を拒否した(マシュー牧師訳)。彼は聖書を切り刻んで焼いた。こう記録されている、「時は九月であって、王は冬の家に座していた。その前に炉があって火が燃えていた。エホデが三段か四段を読むと、王は小刀をもってそれを切り取り、炉の火に投げいれ、ついに巻物全部を炉の火で焼きつくした」(エレミヤ書36:22–23)。エホヤキムは殺され、地獄の火の中で焼かれている。全てを創造し、支配しておられる生ける神を畏れるべきである。主なる神は、我々が考えているような主権者ではない。全ての権威を持たれる方で、救い、また、滅ぼす方である。
6. 神の忠告を拒絶する不従順な者
また、主なる神の忠告を拒否した次の不従順な者と、その犠牲者について考えてみよう。
- アサ王(2歴代誌14-16章)。彼の統治初期、アサ王は主に頼っていた。主は敵の巨大な軍隊を打ち負かしたが、豊かで有名になったとき、主を頼らなくなった。彼は、アラムのベン・ハダドを雇って戦わせた。それで、預言者ハナニはアサ王を叱責した、「そのころ先見者ハナニがユダの王アサのもとに来て言った、『あなたがスリヤの王に寄り頼んで、あなたの神、主に寄り頼まなかったので、スリヤ王の軍勢はあなたの手からのがれてしまった。かのエチオピヤびとと、リビアびとは大軍で、その戦車と騎兵は、はなはだ多かったではないか。しかしあなたが主に寄り頼んだので、主は彼らをあなたの手に渡された。主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。今度の事では、あなたは愚かな事をした。ゆえにこの後、あなたに戦争が臨むであろう。』」(2歴代誌16:7–9)。成功は彼を傲慢にし、神の預言者を獄に入れ、悔い改めることなく民を残忍に虐げた。
主なる神はアサを深刻な病気に苦しむようにされた。それでも、アサは悔い改めて主を求めず、代わりに医者に助けを求めたが、癒されずに結局死んだ。現在でも、主なる神は同じように罪を犯した人々を懲らしめられる。パウロはこう書いている、「あなたがたの中に、弱い者や病人が大勢おり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう」(1コリント11:30–31)。主なる神への従順は祝福をもたらす。不従順は呪いをもたらす。主なる神はこの原則を廃止したことはない。
- ヨシャパテは良い王だった。しかし、彼はアハブとイゼベルの邪悪な家族と同盟したとき、主なる神に対して不従順になった。アハブとイゼベルは主ではなくバアルを崇拝していた。ヨシャパテは息子ヨハラムに、イゼベルの娘アタリヤと結婚させた。預言者ミカヤによって与えられた主の忠告に従わなかった。神の言葉に従わず、アハブと戦争に行き、結果、危うく殺されかけた。その後、主なる神は彼の艦隊を破壊された(2歴20:35-37)。主なる神は、必要に応じて我々の生命だけではなく、経済状態にも関与されるのである。
- ウジヤも良い王であった(2歴26:5,16-21)。しかし、彼は自らを誇り、不服従になり、神の言葉の忠告を拒否した。王としてだけでは満足せず、祭司としての仕事を勝手に行い、祭壇に香を焚きに神殿に入った。祭司80人が彼に神殿を出るよう忠告したが、彼は拒否した。そこで、主なる神はウジヤ王をライ病にされた。ウジヤは癒されず死んだ。このように、主なる神の忠告に注意を払わないと、我々は病気に苦しむだけでなく経済的にも困窮する(2歴代誌26:5, 16–21)。
7. 主イエス
最後に、主イエスの例を考えてみまよう。主イエスだけが完璧な神であり人である。まず、罪がなかった。父なる神は、主イエスについて、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言っておられる(マタイ3:17)。悪魔に誘惑された時、主イエスは父なる神に従われた。こう書いてある「ゲグラプタイ」と言って聖書を引用し、サタンの誘いをはねのけられた。
神の言葉は、主イエスの唯一の権威である。主イエスは弟子たちに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのわざをなし遂げることである」(ヨハネ4:34)。主イエスの力と喜びとされること、それは父なる神の意志を行うことである。父なる神は、主イエスについて言われた、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」(マタイ17:5)。
主なる神が召命を与えておられる説教者に耳を傾けるべきである。その言葉に聞け!その敬虔な忠告を聞かない者は、蓋をした空のボトルのようなものである。水に浸けても、内部を潤すことはない。確かな助言は入っていかないのである。空のボトルのような人々は、大体が無慈悲で、傲慢で、誇り高い。主イエスは、十字架に向かわれた時、なんと言われたか?「父よ、御心ならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、御心が成るようにしてください」(ルカ22:42)。主イエスの食べ物は主なる神の意志を行い、完成することであった。十字架で清い犠牲の死を遂げられ、任務を完成された。「テテレスタイ」(すべてが完成した)(ヨハネ19:30)という言葉を言われた。主イエスは、多くの人の罪の贖いをされ、情熱をもって任務を果たされた。
我々は、救いを達成された主イエスを目指すべきである。ヘブル書の著者は書いている、「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となられた」(へブル5:7-9)。
ユダ王国の歴史上で最も従順な王ヨシヤを目指すべきである。彼は聖書を愛する王であった。主を畏れ敬い、主はヨシヤを救われた。ある時、失われていた聖書が見つかり、ヨシヤと神の民は、聖書に喜んでそれに従う約束をした。ヨシヤ王のリーダーシップの下、聖書の発見は神の民にリバイバルをもたらしたのである。次のように記録さている、「そしてヨシヤ王は主の宮に上って行った。ユダのすべての人々、エルサレムの住民、祭司、レビびと、およびすべての民は、老いた者も若い者もことごとく彼に従った。そこで王は主の宮で発見した契約の書の言葉を、ことごとく彼らの耳に読み聞かせ、そして王は自分の所に立って、主の前に契約を立て、主に従って歩み、心をつくし、精神をつくして、その戒めと、あかしと定めとをまもり、この書にしるされた契約の言葉を行おうと言い、エルサレムおよびベニヤミンの人々を皆これに加わらせた。エルサレムの住民は先祖の神であるその神の契約にしたがって行った」(2歴代誌34:30–32)。
我々に真のリバイバルが起こることを祈りたい。我々が主の律法を喜ぶならば、主なる神が自らの栄光を示され、主の民に約束された祝福を与えられる。我々が、主なる神の御心を喜んで行う者となるため、次のように祈り、リバイバルを求める:
天の父なる主なる神。あなたの聖なる教会のメンバーたちは、今、あなたとの契約を改めて確認します。あなたは、天と地の全ての権威を、御子主イエス・キリストに与えられました。我々は、御聖霊の力によって主イエス・キリストの言葉に喜んで従い、水のほとりに植えられた木のように実を結ぶ者でありたいと願います。アーメン。
[1]ジェイ・アダムス著「Competent to Counsel」(本当のカウンセリングとは)(ノウセティックな忠告)を一読されることを勧める。
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