家庭と教会における神の規律
Titus 2:1-5P. G. Mathew | Sunday, March 15, 2015
Copyright © 2015, P. G. Mathew
Language [English]
神の聖なる教会は、神の国の秩序に反する間違った教えをすることや、神の国に属する子(クリスチャン)として相応しくない生き方を促すことは許されない、とパウロはテトスに教えている(テトス1:10–16)。そのようなことを引き起こす者に対しては、その口を封じ込め、可能な限り厳しく叱責するべきであると教えている。教会の指導者は健全な福音を教え、警告し、そのような者を真の異端者として破門すべきである、とパウロは教えている。
クレタ島の教会のメンバーの何人かは生き方が変わらなかった。憎むべきことを行い、主なる神に不従順で生き方が堕落しており、その性根が曲がって、自らの罪深さに埋没していた。簡単に言えば、彼らは霊的に再生していない状態であったのだ。自分の生き方が「イエスがすべての主である」ことを否定していた。義と、平和と、聖霊の喜びである神の国に属していなかったのである(ローマ14:17)。彼らは、キリストの権威、ルール、規律を、心で拒絶していたのだ。
パウロは、健全な教えは神を畏れる生き方に導く、と教えている。(テトス1:1)。テトス2:1-10では、クリスチャンの家庭とキリストの教会の両方で、規律が必須であると教える。「神は無秩序の神ではなく、平和の神である。すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい」と教えている(1コリント2:33, 40)。家庭で、そして教会で、すべては聖霊の力で行われ、神の栄光が示されるべきである。
牧師テトス、神の規律、長老
牧師や長老はまず神の規律を守れ、とパウロは命じている。偽りの牧師に倣わず、「信心にかなう真理の知識」(1節)を教えるように、とテトスに示し、按手をもって信任された長老と共に責任ある行動をするように、と教えている。偽りの牧師とは誰か。偽りの牧師とは、結局自分の利益のため、お金のために、人々が喜ぶ教えを教え、その間違った教えはやがて人々を病ませ、彼らの多くを地獄に送る者である。従って、教会のリーダーは、何をおいても命を与える真の福音、使徒の教えから逸脱して、人々を教えてはならないのだ。
パウロの時代でも、例えばクレタ島に偽りの牧師がいた。間違いのない福音のメッセージは、偽りの牧師の間違いに対する解毒剤であり、現在も偽りの教えに対する解毒剤である。神が与える真理は、常に我々を悪魔の束縛から解放し、真の福音は命と霊的な健全さを与えるもので、罪に死んでいる状態から人を救い出す。人間の作り出した哲学、諸宗教は無能だが、真の福音は信じるすべての者を神の力によって救う。イエスの打たれた傷によってのみ、我々は癒される。ペテロは、この方の名前以外に、我々が救われる方法はない、と宣言している(使徒4:12)。
牧師であるテトスは、規律の下で誤りのない聖書の福音の基準に従って教えていたのである。パウロが言う確かな教えとは、イエスの教えである。他の箇所で次のように言っている、「もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教えに同意しないような者があれば、彼は高慢であって、何も知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから、ねたみ、争い、そしり、猜疑の心が生じる」(1テモテ6:3-4)。
確かな教えとは、使徒の教えである。パウロはテモテに教えている、「あなたは、キリスト・イエスに対する信仰と愛とをもって、わたしから聞いた健全な言葉を模範にしなさい」(2テモテ1:13)。これは神がパウロに委ねられた栄光ある福音の教えである。パウロは、律法は次のような者のためにあると言っている。「不品行な者、男色をする者、誘かいする者、偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、そのために定められていることを認めるべきである。これは、祝福に満ちた神の栄光の福音が示すところであって、わたしはこの福音をゆだねられているのである」(1テモテ1:10-11)。福音を伝える者として、福音以外に教える権威を与えられていない。確かな教理から外れた異なる福音を説く者は誰もが呪われている。
パウロは、福音が聖霊の助けによって守られるべきであると、テモテとテトスに教えている、「そして、あなたにゆだねられている尊いものを、わたしたちの内に宿っている聖霊によって守りなさい」(2テモテ1:14)。キリストによって召命され遣わされた全ての牧師は、確かな教理を悪魔の攻撃から守るという重大な責任を負っている。牧師は誰であれ、福音に何かを加えたり、そこから取り去ったり、福音を間違って解釈する権利を持たない。だから使徒ヨハネは書いている、「この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受けるべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる」(黙示録22:18-19)。
テトスの義務は、神の民が神の言葉を聞いて行うように、福音を教えてこれを適応することであった。クレタ島の偽牧師は邪悪な行為によってイエス·キリストを否定した(テトス1:16)。しかし、教理と生活は常に調和しなければならない。神の言葉だけが、徳を高め、励まし、真に神の民を慰めることができる。パウロは教えている、「しかし預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである」(1コリント14:3)。
確かな聖書の教理を説く牧師に祝福があるように、またそのような牧師のいる教会に祝福があるように!
年配の男性達は、神の規律に従わなければならない
テトスと長老たちを諭したのち、パウロは、「年をとった者は、落ち着き、自制と深き信仰、愛と忍耐にふさわしく生きるように」(2節)と、教えている。テトスは、教会の年配の男性達へ福音を教える責任があった。ここでいう年配の男性達とは、当時40歳~60歳の男性教会員を指していた。テトスは、若くても使徒として選ばれていたので、いわゆるこれら高齢者をも含む人々の牧師として選ばれており、権威をもって教え、励まし、戒める責務を負っていた。だれからも軽んじられてはならない立場であった(テトス2:15)。パウロは、テモテに次の4つのことを教えなければならない、と言っている。
1.酔ってはならない(目を覚ましていなければならない)
まず、彼らはネファリウス(しらふ、目を覚ましていて、頭がはっきりしている)でなければならない。彼らは、ワインの使用に節度を示すべきであるということ、比喩的に、冷静かつ明晰であることが必須である、と言っている。彼らは、他の者達をさとすことができるほどに、神の言葉と聖霊に満たされている必要がある。パウロは、ピレモンに教えている。「わたしは、キリスト·イエスの囚人として、愛のゆえにお願いする。すでに老年になり、今またキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロ」と自称し、ピレモンへの手紙を書いたときは、すでに年をとっていた。
年をとると、関節炎、リウマチ、関節痛、遅さ、臆病、物忘れ、神経過敏、または焦りを特徴とするのは事実である。彼らは、その人生を通して、友人や家族の死を経験しています。しかし、テトスは彼らを無視してはならなかった。いけません。彼らも、神の恵みとキリストの知識において成長して、神に仕えるため、神の言葉を学ぶ必要があり、これを教える必要があったのだ。
2. 尊敬される者でなければならない
教会の高齢の男性達はセムノス(=まじめ:グラビタス)でなければならない。彼らには尊敬に値する行動をすることが求められる。レビ記19:32には、「あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である」とある。彼らは、忍耐して聖霊の実を結んでいる必要があり、「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう」と教えられている(2ペテロ1:5-8)。尊敬されることを求めるのではなく、他の人から自然に尊敬されることが重要である。また、決して、不機嫌な、辛口の、陰鬱な様相を奨励しておらず、主にある喜びが彼らの強さになっていることが要求されるのである!
3. 自制力が必要である
これらの年配の男性達は、ソフロナス(即ち健全な心)でなければならない。健全な心を持ち、思考もはっきりしている必要がある。言うまでもなく、この条件は、高齢者だけに限定されるものではなく、それが可能な者ならば、教会の女性、男性を問わずすべての人に求められ、また、当然ながら、要職としては、牧師、長老たち等に要求される。
健全な精神を持っているとは、よく訓練され、極端に走らないよう自制されており、バランスの取れた精神をもっているという意味である。これは、すべてのクリスチャンの基本的な要件である。「わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し」と教えられているとおりである(テトス2:12)。神の恵みによる生活の結果として、健全な精神は様々なこの世的な欲望を制御できるのである。
ローマの知事フェリックスは、自己制御を欠いていた快楽主義者であった。使徒パウロは、彼に悔い改めるよう教えたが、フェリックスは悔い改めることを拒否した。「数日たってから、ペリクスは、ユダヤ人である妻ドルシラと一緒にきて、パウロを呼び出し、キリスト・イエスに対する信仰のことを、彼から聞いた。そこで、パウロが、正義、節制、未来の審判などについて論じていると、ペリクスは不安を感じてきて、言った、『きょうはこれで帰るがよい。また、よい機会を得たら、呼び出すことにする。』彼は、それと同時に、パウロから金をもらいたい下心があったので、たびたびパウロを呼び出しては語り合った」と記録されている。(使徒行伝24:24-26)。
パウロは、これとは対照的に、偉大な自己制御の人であった。彼は「しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。」と書いている(1コリント9:25)。彼はまた、「自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」と言っている(1コリント9:27)。パウロはキリストの奴隷としてキリストに従うため、自分の体を打ちたたいて訓練する、と教えているのである。
主イエスは、自分を捨てて、十字架を背負って従え、と教えておられる。これは、時には殉死をも意味してきた(マタイ4:24)。主イエスは、また、主イエスのくびきを負い、人生を通して主イエスから学ぶように我々に命令しておられる(マタイ11:29)。
健全な精神は、霊的に新しく生まれること(新生)から生じる。健全な心は、神の言葉を理解するが、神を信じない者は、神の言葉を拒否し、不健全に堕落し、愚かな心を持つにとどまる。しかし、神を信じる者は、聖霊が宿り、これによってすべてのものを判断できる。しかし、自分自身はだれからも判断されることはない。「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている」(1コリント2:15-16)。
ヨセフは健全な精神の人であった。彼は常に神の言葉によって支配されていた。ダビデ王とは違って、ポテパル夫人の誘惑に対して、聖霊の剣を用いて「ノー」と言った、「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」(創世記39章)。彼は、健全な精神で自己制御をした。
ダニエルと3人のヘブライ人の若者は、健全な精神を持っており、非常に自己訓練に優れていた。イエス·キリストは、自己訓練、自己制御において、最高度にある。主イエスは悪魔の多くの誘惑に勝利された。
クリスチャンは、健全な精神を与えられ、御霊の剣である神の言葉を用いて悪魔を倒す。神の言葉によってよく訓練された人は、神の言葉によって支配されている。彼は権威の下にいるのだ。従って、彼は悪しきことを「ノー」と突き返し、神の意志に対してのみ「イエス」と答える。
ここでの健全な心を持つ人とは聖霊に満たされている人のことである。彼は聖霊と聖書によって制御される。パウロは、「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされよ」と教えている(エペソ5:18)。「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子であり」(ローマ8:14)、「というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」(2テモテ1:7)。つまり、聖霊が私たちに健全な心を与えて下さる。その他の箇所でもパウロは書いている、「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロサイ3:16)。私たちは聖書と聖霊に満たされ、思考、言葉、行動が、すべて神によってよく支配されるのである。キリストがそうであるように、クリスチャンは、自らが聖書の言葉と御霊の制御下にある。
悪魔の軍団によって繋がれていた人がいた。その心は健全ではなく、狂気であり、多くの悪魔によって制御されていた。しかし、主イエスが彼を癒されたとき、彼は健全な精神を与えられた。だから「イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それが多くの悪霊を宿していた者であるのを見て、恐れた。」と記録されている(マルコ5:15)。
健全な精神は、キリストに制御された心である。私たちが最初に信じたとき、「イエスは主である」と言った。それは、主イエスが私たちの心、言葉、行動、そして金銭の主人であることを意味する。貪欲は、健全な心の反対である。クリスチャンは、主イエス·キリストに従い、それによって自己を治めることができる。精神の制御は、御霊の実である。
4. 彼らは健全な信仰、愛、忍耐を持たなければならない
テトスは、年配の男性達に、信仰、愛、忍耐における健全さを教える任務があった。他の箇所で、パウロは、テモテを教えている、「しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい」(1テモテ6:11)。
彼らは福音に信頼し、救いの信仰をもって神を信頼する必要がある。人が神の言葉に耳を傾けていないで、神を信頼することはできない。信仰は暗闇でジャンプする無謀な賭け事ではなく、神がどのような方であるかをはっきりと示している福音に基づいている。
年配の者は、他の者よりも早く主のもとに召される。彼らは、自らの召しと選びを確認する必要がある。死まで神に忠実でなければならない。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」(黙示録2:10)。
年配の男性達は信仰だけでなく、愛の人としても成熟していなければならない。彼らは、健全な愛をもって神の民を犠牲的に愛さなければならない。愛のない信仰は死んでいる。イエスは言われた、「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネ13:34-35)。使徒ヨハネは言っている、「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか」(1ヨハネ3:16-17)。パウロは教えている、「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである」(ガラテヤ5:6)。そして、ほとんどの教会とは違って、主にある兄弟のために命を捨てよ、と私達は教える。
神の民は、愛によって特徴付けられる。主イエスは言われた、「また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ24:12-13)。また言っておられる、「しかし、あなたに対して責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」(黙示録2:4)。イエスはまたこうも言っておられる、「このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」(黙示録3:16)。彼らは天の国に入るのを拒否される。
最後に、これらの年配者は強い忍耐力を持つ。真のクリスチャンは、イエスのために苦しみ、燃えるような試験を受ける。「イエスを信じると、あなたは金持ちや有名人になれる」と、自己推薦の偽物説教者は言う。しかし、真の信仰者は、石をぶつけられたり、焼かれたり、殺されたりという試練に出会っている。今も、これは世界中で行われているのだ。私たちの信仰は、その正しさが証明されるために、燃えるような試験によって試されているのだ(PGM)。キリストのみが我々と共に火の中を同行される。キリストのみを信頼するように、すべての試験は私たちの利益のために与えられるのである。
パウロは言っている、「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである(ローマ5:3-5)。ペテロは言っている、「そのことを思って、今しばらくのあいだは、様々な試練で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう」(1ペテロ1:6-7)。
キリストに全く信頼せよ。偽テレビ説教者の嘘を信じるな。福音のみがあなたを救うことができる。福音を理解し、聖書に追加したり、聖書からさし引いたり、好みに合わせて聖書を曲解しない牧師によって牧会されている教会に行く必要がある。パウロは、「生きることは、キリストを意味し、キリストのために死ぬことも益である」と言っている(ピリピ1:21)。そして、そのような死は、天の国そのものへのドアとなるのである。
年配の女性達は神の規律に従わなければならない
パウロはその後、教会の年配の女性を教えるようテトスに命じている「年老いた女たちにも、同様に、慎ましく行動し、人をそしったり大酒の奴隷になったりせず、良いことを教える者となるように、勧めなさい」(3節)。年配の女性たちも次の4つの面で神を畏れる生活を送るよう、テトスは彼らに健全な教義を教える必要があった。
1.彼らは神を畏れる生活をすべきである
まず、テトスは、生活面で神を畏れるように年配の女性を教える必要があった。「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」と教えているように、神を意識した生活を送る必要がある。すべてのことを、神の栄光のために行うことである。自分の喜び楽しみのためではなく、すべてを神の栄光のために行う、そのために態度や行動が清くあるべきである(1コリント10:31を参照)。
2.彼らは神の民をののしるものであってはならない
彼らは神の民をののしってはならない。ギリシャ語では、ディアボロス(悪魔)となってはならない、と表現している。この点で、女性は悪魔になり得る。悪魔は、神の民を悪く言い、告発する。神を畏れず、神の人ヨブを非難した。年配の女性は、多忙でない可能性があり、座って他人について話しするという落とし穴に陥る。福音の知識は、他人を中傷するのを防ぐことができる。
3.彼らは酒に酔ってはならない
年配の女性は、酒に酔ってはいけない。ギリシャ語(デドウロメナス)は、奴隷になるという意味で、クレタ島の年より男女が、習慣的に酒に酔って、ゆるいトークにはまっている状態を指している。しかし、福音は、そのような束縛から人々を解放する。私たちは聖霊に満たされ、神に賛美を歌い、神の民を滅ぼすのではなく、神の民をよい意味で啓発するために話をする。パウロは教えている、「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心から賛美の歌をうたいなさい。そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝しなさい」(エペソ5:18-20)。主イエス・キリストの名の下に、すべて父なる神に感謝し、心から神をほめたたえる。だから我々は他人を中傷するのではなく、良い意味で啓発し、建て上げていくために、神の言葉を話すのである。
我々は、最初キリストを信じた時、イエス・キリストと酒は同時に主人であるとは言わなかった。イエス·キリストだけが我々の主人である。したがって、飲食やお金、名声や世界の他の何かによって支配されることを、我々は拒否する。我々は、実際それらすべてから解放されているのだ。神の子イエスが我々を解放されたので、それは事実、今も我々が解放されているということに他ならない。飲酒にまつわるこの禁止事項は、すべてのキリスト者に適用される。パウロは、主の晩餐で実際に酔っている者を責めて、「食事の際、各自が自分の晩餐を勝手に先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である」と言っている(1コリント11:21)。旧約聖書には、アロンの子ナダブとアビフが、幕屋で神に仕えたとき、彼らが酔っていたので神によって滅ぼされた、と記録されている。(レビ10:1-11)。
これら牧会書簡は、酔ってちゃんと物事が考えられない者を、教会の長老にしないよう禁じている。パウロは「長老は、非難されない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができる人でなければならない」(1テモテを3:2)と教えている。また、「長老は、神に仕える者として、責められる点がなく、わがままでなく、軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく、利をむさぼらない者でなければならない」(テトス1:7)とも教えている。
4.彼らは良く教える者でなければならない
家庭や教会で教えるべきことの多くは、主に女性によって行われている。長老の指導の下で、年上の女性が、他の女性や子供達を教えている。年配の女性は、より若い未婚者の女性と既婚女性に対して、よく教えることが求められる。よく教えることとは、聖書の教えに他ならない。
テトスと長老たちは、年配の女性に聖書の健全な教理を教える。これらの女性は、より若年の女性たちに教え、年配の女性は、生活の様々なことにおいて、導き手となる。教えることによって、彼らはさらに知恵を得、主なる神を畏れるようになる。結果として、健全な思考力が養われ、神を畏れることによって正しい判断力も養われるのである。パウロは次に見ていく7つのポイントで、年配の女性が、より若い女性を教え導くよう、テトスを指導している。
若い女性達は神の規律に従わなければならない
教会における若い女性とは、未婚者と既婚者の両方を指す。神の一般意志は、男性と女性は結婚し、神を畏れる子供を育てることである。しかし、ある男性や女性は、神のためのフルタイムの仕事に専念するため、独身でいるように特別な賜物を与えられている。
これについて、パウロはコリントの教会に書いた、「あなたがたが書いてよこした事について答えると、男子は婦人にふれないがよい。わたしはこう考える。現在迫っている危機のゆえに、人は現状にとどまっているがよい」(1コリント7:1, 26)。イエスは言っておられる、「その言葉を受けいれることができるのはすべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである。というのは、母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」(マタイ19:11-12)。 例えば、使徒行伝21章には、預言伝道者ピリポの4人の独身の娘について記録している、「翌日そこをたって、カイザリヤに着き、かの七人のひとりである伝道者ピリポの家に行き、そこに泊まった。この人に四人の娘があったが、いずれも処女であって、預言をしていた。」(使徒21:8-9)。
1. 既婚者は自分の夫を愛さなければならない
パウロは、教会の若い女性のための7の資質を示している。第一に、彼らは夫を愛する者(フィランドロス)である必要がある。キリスト者の妻たちに向けて、ジェイ·アダムスは、夫への愛情を実践する方法を書き、これを事項しなさい、と教えている。
何人かの妻は「私はもう夫を愛していない」と言うかもしれない。しかし、クリスチャンとして、死が夫婦を分けるまで、配偶者を愛さなければならない。神は離婚を憎み、離婚に反対される。
どのように、妻は神の規律に従って、自分の夫を愛することができるのか?そのような犠牲の愛をどのようにして得ることができるのか?そのような愛の唯一の源は神である。我々罪人である人間を義とすることができる神は、心から神を愛し、自分自身のように隣人を愛することができるようにしてくださる。最も近い隣人は私達の配偶者である。真のクリスチャンには愛が不足することはない。パウロは、「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」と教えている(1コリント13:13)。どの愛についてパウロは教えているのか?神が私たちの心の中に豊かに注ぎこまれる愛について教えている。この愛をもって、私たちは神を愛し、私たちの隣人を愛し、さらには我々の敵を愛するのである。
このような神からくる愛は、悪を憎みキリストに従う愛である。イエスは言われた、「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。」イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。」(ヨハネ14:21, 23)。神に従うかどうかは、神が我々の心に愛を注いでおられるかにかかっている。今がこれを理解する時である。自分の配偶者を愛するかどうか、それが、神を愛し従っているかどうかを実証する。
2.子供が与えられていれば、その子供を愛さなければならない
夫を愛するだけでなく、彼らは子供(フィロケノス)を愛さなければならない。既婚女性の一部は、自分の子供を愛さない。彼らは、愛犬の方をもっと愛するようだ。クリスチャンの親は、一般的にいって、子供の養育をする。しかし、ある者は、養育費がかかるので自分には子供一人でよい、という。このように言う者は、神を信頼していないのである。
文明国の多くでは、子供をもつことが呪いであって、子宮の中で殺されるべきだ、と考えられている。中には、子宮外で子供を殺すことも権利であるとさえ言う者もいる。このような国は呪われている。聖書は言う、「見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、
親は、子供を甘やかしてはならない。また、子供を崇拝してはならない。それは偶像崇拝になる。子供を真に愛し、自らが神を愛するようになり、健全な心で神を畏れるようになるために、子供を訓練して育て上げなければならない。ヘブル人への手紙は、次のように教えている。「だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。」(ヘブル12:8)。神が、神の民を訓練するように、我々も子供を訓練すべきである。子供を甘やかし、訓練を怠る状態は、まさに今日の社会の悲劇である。
パウロは、テモテに教えている、「あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている」(2テモテ3:14-15)。幼児期から子どもたちに聖書を教えるなら、聖霊が彼らの若い心に神のことばを刻まれる。これによって、若い女性が子どもを育て上げることができるのだ。このように育った子供を見よ。神を畏れて育ち、なにをしても成功する。そして、神の御心にそった人生の決断をする。
多くの人は「神の御心、神の意志とは何か?」を求めずにものごとを決断する。しかし、我々は常に神を喜ばせ、自らの霊的生活を促進するための意思決定を行う必要がある。必要なものはより多くのお金だ、というのは誤った考えである。我々に必要なものは、もっと神にたずねることである。私たちが神を持っているときこそ我々は真に裕福なのである。
幼少期から神の方法で子供を訓練するなら、神を愛し、神の言葉を愛する人として成長する。彼らは宇宙の星のように輝く。ハリウッドのスターではない、真のスターは神の人である。
ダイスマンという人は、紀元2世紀(ハドリアヌス帝の頃)のペルガムスからの碑文を引用している。この碑文を、ジョージ·ナイト博士が伝えている。「最も愛すべき女性へ。夫を愛し子供を愛した最も愛すべき女性へ。」1という碑文である。あなたの夫が、これをあなたに言うことができますように。
3.彼らも健全で訓練された心を持たなければならない
気高い女性は健全な精神(ソフラナス)2を持つ。神と聖書の言葉によって制御される心を持っている。彼女は均衡と節度ある人生を生きる。彼女は生まれ変わった新たな心を持っている。彼女はローマ12:3に示されるように、「わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである」という教えに従っている(New American Standard Bible)。慎み深く思うとは、聖書によって考えることである。これがすなわち訓練されていることを指し、聖書の言葉によって制御されている心のことである。
4.彼らは清くなければならない
年配の女性は、若い女性が性と道徳において清くあるように教えるべきである(ギリシャ語:ハグナス)。今日の腐敗した価値観は、若い女性にできるだけ早期に処女を捨てるよう指示する。この文化は、教会に影響を与えている。しかし、若い女性が性と道徳において清い生活を送り、神の御心を歩み、未来の夫に喜んでもらう必要がある。既婚男性も妻に対してそうであるが、既婚女性も、夫に性的忠誠をつくすべきである。
創世記39章に記録されているように、ヨセフは、性的に清さを保っており、彼が誘惑に抵抗するために、神は自制の力を与えられた。イサクの妻リベカも、性的に清さを保っていた。聖書は「彼女は処女であった」と言っている。イエスの母マリアも性的に清さを保っていた。天使が彼女はキリストを産むと言ったとき、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」(ルカ1:34)と言っている。
西洋世界は道徳的清さを軽蔑し、性的な不道徳を美化している。しかし、我々はこれに対抗する。パウロはテモテに書いている、「軽々しく人に手をおいてはならない。また、ほかの人の罪に加わってはいけない。自分をきよく守りなさい」(1テモテ5:22)。
5.彼らは家庭で忙しくなければならない
キリスト者の妻の仕事環境は主に家庭である。年配の女性が自宅で若い女性を教えることを、パウロは家庭で働く(オイコウルゴス)「在宅勤務」という言葉を用いて表現している。夫の下で、彼らは効率的に家庭の実務を管理すべきである。
このように慎み深い妻であり子供たちの母親というのは、箴言31:10-31に、「だれが賢い妻を見つけることができるか、彼女は宝石よりもすぐれて尊い。彼女は羊の毛や亜麻を求めて、手ずから望みのように、それを仕上げる。彼女はまだ夜のあけぬうちに起きてその家の者の食べ物を備え、その女たちに日用の分を与える」とその仕事ぶりが褒められている。「夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた(マルコ1:35)」と同じである。彼女はよく働き、知恵、すなわち神の言葉をもって語り、怠惰のパンを食べない。そのため、「その子らは立ち上がって彼女を祝し、その夫もまた彼女をほめたたえて言う」(28節)と褒め、「あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである、しかし主を恐れる女はほめたたえられる」(30節)と結んでいる。
6.彼らは優しくなければならない
年配の女性は、より若い女性が優しくあるべきことを教えなければならない。クリスチャンの妻は、親切(アガサス)である。彼女は、労働者を雇っている場合は、彼らに対して優しくふるまうべきである。特に、その労働者が貧困層であれば、なおさら彼らにきつくあってはならない。高貴な妻は、「手を貧しい者に開き、乏しい人に手をさしのべる」(箴言31:20)。申命記15:11には、「貧しい者はいつまでも国のうちに絶えることがないから、わたしは命じて言う、あなたは必ず国のうちにいるあなたの兄弟の乏しい者と、貧しい者とに、手を開かなければならない」と教えている。 パウロも命じている、「互に情け深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」(エペソ4:32)。ペテロも言っている、「最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい」(1ペテロ3:8)。
7.彼らは自分の夫に従わなければならない
最後に、年配の女性は、自分の夫に従順であるよう若い女性に教えなければならない。パウロがキリスト者の妻の資質について異教文化からアイデアを借りた、とリベラルな神学者の何人かは言う。「異教徒の妻が夫に従っていたにも拘わらず、逆にクリスチャンの妻が夫に従わない。これを異教徒が怒っている様子を見て、パウロはしゃくにさわったのだろう。」と、彼らリベラルな神学者は、どういうわけか曲解している。したがって、このような神学者は、夫に従うという考えは、結局は相対的なもので、文化的な条件付けに過ぎない、と言う。
今日、悪霊崇拝であるフェミニズムの結果として、聖書に反して、逆に夫が妻に服従することを要求する。このような神学者は、神の言葉の絶対的な権威を信じていない。
しかし、旧約聖書と新約聖書は、全ての時代を通して神聖な神の言葉である。夫と妻は、神の御前では等しい。しかし、その役割は神の規律の中で異なっているのである。だから、真のクリスチャンの妻は、聖書が妻の頭は夫であると言っているので、神を畏れる夫に喜んで熱心に従うのである。パウロは教えている、「妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである」(1コリント11:3)。また、「そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。妻は夫を尊重すべきである。夫は、自分の妻を自分自身のように愛し、妻もまた夫を敬いなさい」と教えている(エペソ5:22-24、33)。ペテロも教えている、「同じように、妻たる者よ。夫に仕えなさい。昔、神を仰ぎ望んでいた聖なる女たちも、このように身を美しく飾って、その夫に仕えたのである。たとえば、サラはアブラハムに仕えて、彼を主と呼んだ。あなたがたも、何事にもおびえ臆することなく善を行えば、サラの娘たちとなるのである」(1ペテロ3:1a、5-6)。
妻が信仰をもって夫に仕えるならば、子どもたちは、自然に両親に従う。そうすることで、彼らは第五の戒めに従うことになり、主に祝福される。
神の規律の目的
最後にパウロは、家庭や教会で規律ある生活をするその目的を教えている。それは、神の言がそしりを受けず、神の言が世の中において名誉を受けるためである(テトス2:5)。我々がどのように生きるかが問題である。パウロは、ユダヤ人の兄弟たちを叱責して、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」(ローマ2:24)と言っている。我々が曲がった生き方をすると、神が世界によって嘲笑されることになるのだ。
もし私たちが以上のように神に対して従順に生きる場合、次の主イエスの言葉を行うこととなる。「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:14、16)。主イエスは、また言っておられる、「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネ13:34-35)。
神の民はこの世で神の栄光のために生きるべきである。パウロは書いている、「すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むように。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない」と教えている(テトス2:11-14)。
我々が神の規律の下で生きるように神が助けてくださるように、これによって神の国のすべての祝福(それは聖霊にある義、平和、喜び)を楽しむことができるよう祈ります。
1 George W. Knight III, The Pastoral Epistles, The New International Greek Testament Commentary (Grand Rapids: Eerdmans, 1992), 307.
2 年配の男性についての教え、「3.自制力が必要である」の部分で、より詳しく説明しているので参照されたい。
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