家庭と教会における神の規律 2
Titus 2:6-10P. G. Mathew | Sunday, April 19, 2015
Copyright © 2015, P. G. Mathew
Language [English]
主によって義なる者とされた人の歩みは主なる神の規律に従う。神の民として、私たちは神の国の原則に従って規律ある生活をすべきである。テトス2:6-10では、若い男性が、教会や家庭でどのように生きるべきかを教えている。また、牧師や当時の奴隷(今日の従業員にあたる者たち)がどのように生き、働くべきかを教えている。
我々神の民が属する神の国においては、国民が偉大な王であるキリストの下で生活をするのである。パウロは教えている、「キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか」(コリント1:13)。従って、我々はキリストを信じる者として、聖書にしるされた主エスキリストの言葉を聞いて従い生きるのである。
牧会書簡は、真の福音の説教と神の民の清い生活の両方が本物であるべきことを強調している。福音を実践する必要がある。健全な教えは、神に召された者の良い生活に現れていなければ嘘である。キリスト者は、年配であっても、若くても、牧師であっても、社会で働く者たちであっても、それぞれ男女ともに、この世にあって規律ある生活をすべきである。
どのようにして、我々は神に召されているということがわかるのか?簡単な答えは、そうであるなら私は神に従う、ということである。すべて主なる神を信じない者は、常に悪魔に従っているのである。神の民は、主なる神に従う。これら二者の間の中間はない。
キリスト者は、聖霊によって生まれている。キリストにあって新しく創造されたので、神に従い、良い行いをする。「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えられたのである(エペソ2:10)。パウロは宣言する、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2 Cor. 5:17)。また言っている、「割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである」(ガラテヤ6:15)。キリスト者は新しい心が与えられた人である。
救い主である神が魅力ある福音を与えられたことを、我々は清い生活を通じて世界に伝える。イエス・キリストは世の光であり、我々は神の栄光のために生きるべきである。だから我々は、清い生活によって、世界の人々に神聖な福音を話すのである。
テトスの手紙は従順と良い行いを強調する。パウロは書いている、「このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない」(テトス2:14)。パウロは、またエペソ人への手紙5章でも言っている、「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである。主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい」(エペソ5:8–11)。
キリスト者としての若者の男性達の生き方
パウロは、年配の男性、年配の女性、そして若い女性に教えるべきことをテトスに指示した後、次に若者の男性達(年齢が20~30歳)に教えるべきことを指示している(6節)「若い男にも、同じく、万事につけ慎み深くあるように、勧めなさい」。
パウロは、テモテへの手紙でも若い男性に対して次のように教えている、「老人をとがめてはいけない。むしろ父親に対するように、話してあげなさい。若い男には兄弟に対するように、年とった女には母親に対するように、若い女には、真に純潔な思いをもって、姉妹に対するように、勧告しなさい」(1テモテ5:1–2). そしてペテロも同様に言っている、「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである」(1 ペテロ5:5)。
この箇所で、パウロは教会の若い男性達が冷静な判断力と自己制御を養うように教えよ、とテトスに命じている。若い男性も節度を守って、知恵を持って行動すべきである。欲望に翻弄された愚かな判断をしないよう、野生の種馬のように行動しないように戒めている。信仰者として、彼らの生活が聖霊に満たされ、聖書の言葉に満たされ、キリストに制御されるべきである。すなわち、聖霊の実である自制を行使しなければならない。
自己制御の生活は、聖書の言葉、聖霊、キリストによる制御によって行われる。そのような人は衝動に支配されない。彼は聖書を真剣に学ぶ者である。彼は世界に溶け込むことを拒否し、逆に福音の光が彼の心を常に新たに改革する。神の意志を行うことができるよう、神の言葉に耳を傾けるのである。神の言葉の知恵は、そのような人が行う全ての行為を決定し、行為を正しく制御する。
詩編は教えている、「若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません」(詩編119:9)。 箴言は、「主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる」と教えている(箴言1:7)。また、「わが子よ、確かな知恵と、慎みとを守って、それをあなたの目から離してはならない。それはあなたの魂の命となりあなたの首の飾りとなる。こうして、あなたは安らかに自分の道を行き、あなたの足はつまずくことがない」と言っている(箴言3:21–23)。そしてパウロはテモテに思い起こさせている「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている」(2 テモテ 3:15)。
若い男性達は、イエスに従い、イエスの知恵から学ぶ。これによって彼らは敵対する悪魔を撃退するのである。若いキリスト者の基本は、主人であるイエス・キリストの制御の下にあることを学ぶことである。若いサムエルのように、「主よ。語って下さい。わたしは聞きます」と言うのである。イエス様のように、彼らは心身共に成長し、神と人に好意を持たれるのである。
若い男性達は、直面する状況で適切に対応するべく、常に聖書の思考を持っている必要がある。そうすれば、彼らはすべてのことにおいて、成功するのである。これは、ヨセフ、ヨシュア、カレブ、ダニエル、3人のヘブライ人の子供、それぞれの生き方に見られる傾向である。常に悪魔に抵抗して勝利し、父なる神に従う、それはイエス様において特にそうである。
イエスご自身が言っておられる、「わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない」(ヨハネ8:29)。
クレタ島の教会の若いキリスト者」の男性が、彼らをとり囲む邪悪なクレタ島の文化に対抗する必要があった。パウロもテトスに警告した、「クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼうである」(テトス1:12)。我々も回りの文化について同様のことを言うことができる。そうすれば、「若い女たちは、夫を愛し、子供を愛し、慎み深く、純潔で、家事に努め、善良で、自分の夫に従順であるように教えることになり、したがって、神の言がそしりを受けないようになるであろう」と教えている。
ここに書かれているキリスト者は、神の栄光のために知恵を用いて自分の家庭を治めた。自らを制御すること、すなわち性格、語る言葉、野心や、性的衝動を制御した。彼らは婚姻前においても後においても夫婦の貞操を守った。我々も同じであるべきである。不要な怒りや、言動、野心や性的衝動、また食欲をも制御すべきである。私たちは、精神、仕事、お金、そして人生の他のすべての面で怠惰であってはならない、これらすべてを超越的に制御する生活を送る必要がある。
キリスト者としての真の福音の牧師はどう生きるべきか
パウロは書いている、「監督たる者は、神に仕える者として、責められる点がなく、わがままでなく、軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく、利をむさぼらず、かえって、旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する者であり、教えにかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。それは、彼が健全な教によって人をさとし、また、反対者の誤りを指摘することができるためである(テトス2:7–8)。キリストの清い正しい教理を教える、使徒的教会の牧師は、良い見本(トゥポス)になるべきである。
私の母はかつて私に助言して言ったのを覚えている、「自分のことと教えのこととに気をつけ、それらを常に努めなさい」。まず生活で、そして教えで、皆の見本となること。このテトスへの教えを、全てキリスト者が学ぶべきである。生活のあらゆる領域で、福音を生きる分野で福音を生きるべきである。パウロは、教会のあるべき姿をテトスに教えている、「長老は、責められる点がなく、ひとりの妻の夫であって、その子たちも不品行のうわさをたてられず、親不孝をしない信者でなくてはならない。監督たる者は、神に仕える者として、責められる点がなく、わがままでなく、軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく、利をむさぼらず、かえって、旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する者であり、教えにかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。それは、彼が健全な教によって人をさとし、また、反対者の誤りを指摘することができるためである」(テトス1:6–9)。可能であれば、このような牧師が牧会している教会に行くことを私は勧める。
マタイ23章では、モーセの座について人に教えていながら、自分自身はそれを実行しない律法学者とパリサイ人の教師を、イエスは非難した。イエスは、偽善者、目の不自由な道先案内人、なにも知らない愚か者、毒蛇の群れ、すなわち彼らを悪魔の子と呼ばれた。彼らは、すべてを見せびらかすために、信心深そうな演技をしていた。外目には美しく見えても、内側は墓場のように死人の骨や悪臭に満ちていた。彼らの中には、リベラルな牧師やテレビ伝道者として、世間の人に気に入られることで収益を得ようとし、人々を神の国に導く真の福音は語らない。そのような一見親しみやすい説教者は、洗礼者ヨハネのような真の説教者とは全く異なるのである(ルカ3:7-9)。
聖書全てを通して、神は民に語っておられる、「わたしが聖いように、あなたがたも聖くあるべきである。私は主であって、なたがたを聖くする」。我々の神は、神の民を聖くされるのである。聖くあるように聖書に学んでいないなら、福音の説教者としては失格である。神は永遠の昔から、神は人々を選んで、彼らが完全に聖くなるようにと定められた。そして彼らは事実、完全に聖くなるのである。
牧師は他者の見本とならなければならない。パウロは仲間と共に、テサロニケで熱心に働いた。決して、それを負担に思っていないのである。彼は言う、「それは、わたしたちにその権利がないからではなく、ただわたしたちにあなたがたが見習うように、身をもって模範を示したのである(2 テサロニケ. 3:9)。パウロはまたピリピにある教会に対しても言っている、「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい」 (ピリピ 3:17)。 テモテに向けても次のように言っている、「しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう」(1 テモテ4:1)。そして、テトス牧師に向けても、自分が指導している者たちの手本になるようにと教えている。究極のお手本は、もちろんのことイエスご自身である。「こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。 また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである」と教えている(エペソ5:1–2)。 実際には、イエスを信じる者はすべて、他の人の手本となる生活をすべきである。パウロはテサロニケの教会に語っている、「そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり、こうして、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった」(1テサロニケ1:6–7)。
全て権威をつかさどる者は見倣うに値する生き方をしなければならない。それが、夫であれ両親であれ、牧師や雇い主、治安を司る最高裁判官に至るまでの者も、さらには大統領も、模範的な生活を送る必要がある。すべての人々は、神への信仰を持つかどうかは別として、神の言葉によって生きることが求められている。だれでも、偽善者、泥棒、嘘つき、または悪党であってはならないのだ。
牧師テトスは会衆が見倣うべき手本であることが求められていた。教師として、彼は清く生き、自分のためではなく、神の栄光のために生きる必要があった。パウロは書いている、「しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである」(2 コリント2:17)。
使徒は、何を信じるべきか何をするべきかを教会に教えている。これが重大であることを説教し教えた。キリストの大使として尊厳をもって全てのことをしなければならなかった。お笑い芸人のように語ることは許されなかった。それは、常に不機嫌に埋没して惨めになれということではなない。ただ、教会で尊敬されるべき存在であれということである。パウロは、テトスに語っている、「あなたは、権威をもってこれらのことを語り、勧め、また責めなさい。だれにも軽んじられてはならない」(テトス2:15)。パウロはテモテにも言っている、「あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい」(1テモテ. 4:12)。牧師は、真剣さなく、人の罪に対する神の怒り、地獄の裁き、十字架による罪の赦しについて、説教できるはずがあろうか。
牧師はまた、彼の説教の内容が聖書に照らし合わせて健全でなければならない。牧師は、神について、聖書全体を、そして正統派の教義の全てを説教する必要がある。真実は非常に不評を買う場合があるが、その場合は特に、その真実を曲げずに説く必要がある。牧師は、自由主義神学、バルト神学、唯物論、マルクス主義、拝金の福音、多元主義、また全ての人々は神の救いを得るというユニバーサリズムなどの嘘ごまかしを説教してはならない。また、牧師は科学技術の崇拝者であってはならない。
牧師は、人に気に入られようとしてはならず、お金や権威を求めてはならない。牧師は、神の言葉から何も差し引いてはならず、神の言葉を都合よく解釈してはならない。彼は、悪魔的な自由主義神学を説いてはならない。むしろ、牧師は、イエス・キリストの救いの福音を説き、聖書の絶対的な権威を説く必要がある。イエス・キリストが、十字架につけられ、昇天し、全世界の主、救い主、そして全世界の人々に対して審判を下される方であることを説教する必要がある。牧師は、人間が全く堕落していること、無条件の選び、選んだ者のみを償うということ、拒絶できない恵み、信じる者の堅忍ついて説教すべきである。霊的再生、悔い改めと信仰、義とされること、神の子とされること、聖化、栄化、天国と地獄について全て説教しなければならない。牧師は、人が聖くなることを説教し、これが神によって救われていることの証拠となることを教えなければならない。聖くなければ誰も神を見ることがないと書いてある通りである。聖くされなければ、見ることになる福音の敵がいる。その福音の敵の口を封じ込めるために、使徒のように牧師は真実を説教すべきである。「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、かつ、彼らにいやされた者がそのそばに立っているのを見ては、まったく返す言葉がなかった」(使徒4:13–14)。
キリスト者の被雇用者としての生き方
最後にパウロは書いている、「奴隷には、万事につけその主人に服従して、喜ばれるようになり、反抗をせず、盗みをせず、どこまでも心をこめた真実を示すようにと、勧めなさい。そうすれば、彼らは万事につけ、わたしたちの救主なる神の教を飾ることになろう」。
新約聖書の教会には、当時の奴隷としての身分の者が多くいた。彼らはフリーターではなく、自分で生活するため非常に懸命に働いた。聖書は誰もが週6日働くことを要求している。「(働くことができるのに)働かないものは食べてはならない」と教えられている(2テサロニケ3:10)。聖書のどこにもピレモンへのパウロの手紙でさえ、奴隷制度が罪であると書いてあるところがない。やがて時が来て、福音が伝えられる場所、特にキリスト教文明の西洋世界では、奴隷制度がなくなっていった。しかし今日においても、奴隷制度は、世界のどこかで存在するのである。
テトス2:9–10に次のように書かれている、「奴隷には、万事につけその主人に服従して、喜ばれるようになり、反抗をせず、盗みをせず、どこまでも心をこめた真実を示すようにと、勧めなさい。そうすれば、彼らは万事につけ、わたしたちの救主なる神の教を飾ることになろう」。パウロは、当時の社会で奴隷身分であった者で、且つ神の教会のメンバーだった者に教えている。彼らを年齢や性別に基づいてではなく、奴隷としての社会的地位に基づいて、勧めをした。
すべてキリストを信じる者は、奴隷の身分であってもなくても、神の聖なる家族に属している。彼らは、キリストにあって兄弟姉妹であり、神の最愛の子として互いに愛するものである。パウロは言っている、「そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである」(コロサイ3:11)。神の国民にはなんら差別はない、「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」(ガラテヤ3:28–29)。
パウロは教えている、「召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい。しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである(1コリント7:21–22)。そして、福音については、「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである」(エペソ2:19)、とあり、その理由として、「それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである」と教えている(エペソ3:6)。
テトスは当時の奴隷の身分であったキリスト者に、自分の主人に従順でなければならない、それは聖書に基づいている、と教えている。しかし、仮に主人がなにか悪いことをするように求めてきた場合には、ペテロとヨハネのようには拒否しなければならない。「ペテロとヨハネとは、これに対して言った、『神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない』」(使徒4:19–20)。
彼らは、主人が期待する以上に、喜ばせるように仕えるべきである。イエスは父なる神の心にかなっていた。「これは私の愛する子、私の心にかなう者である」と聖書に記されている。主人に逆うように話してはらない。主人のものを盗んではならない。これはキリスト者でない被雇用者がよく行うことである。その他の箇所でも、パウロはキリスト者になった被雇用者に教えている。「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」(エペソ4:28)。
信仰者のだれかがもし人のものを盗んでいたとしても、盗んではいけないのである (PGM)。例えば、アナニヤと彼の妻は、神のお金を盗んで、聖霊に対して嘘をついた。しかし、神は彼らの両方を殺された。ユダは神のお金を盗んで、自殺した。マラキでは、イスラエルの民が神に献げるべき十分の一献金を盗んでいることが書かれている。収入の十分の一は主なる神に献金として献げるべきものであるため、神は彼らを処罰した。アカンは神のお金品を盗み、彼と彼の家族が殺された。ある者達は、安息日に礼拝をしないで自分自身のために不適切に過ごしたため、神はその者達を罰することで、三則日が主なる神のための日であることを示される。安息日は、神に仕えるための日である。
彼らは完全に信頼できる者であることを主人にも神の前にも示さなければならない。キリスト者の被雇用者は、他の全てのキリスト者のように、行いと態度において信頼を得るように努力すべきである。したがって、これらのキリスト者である被雇用者は、聖い生活を通して、主なる神である救い主、栄光の福音を魅力あるものとして世の中に示すことになる。例えば、ピレモンは懐疑的な奴隷身分であったオネシモの主人であった。のちに、オネシモはキリストを信じる者、神の子となった。そして、パウロは、オネシモを自分の息子、自分の呼ぶほどのキリストにある兄弟となった。以前は、オネシモはピレモンからものを盗んで逃げた輩であり、役にたたない人材であったが、パウロも認めるほどに、キリストにあって役にたつ仲間になったのである。
我々は皆、かつては神と他の人に役に立たない者達であった。根っこから邪悪で、反抗的な罪人であったのだ。しかし、イエスは、我々の負債を血の代価で支払われ、我々は神と神の民に役立つものとされた。オネシモは、彼の人生が変えられたことによって、福音を魅力あるものとして示したのと同様に、すべてキリストを信じる者は、奴隷であっても自由人であっても、すなわち被雇用者であっても雇い主であっても、従順を通して福音を輝きあるものとして示す。これは、上司、従業員、または他のどのような立場にあっても、すべてのキリスト者とって必要な資格である。これは、我々が福音をこの世界で生きることによって、福音を伝えるためである。我々の生活と言葉の両方で伝道するのである。これらの両方の側面が必要である。我々は、ただの口先で福音を生きることはできない。実際の生活で、福音を実行し全うしなければならないのである。
我々は、生活と教えの全てにおいて注意深くあるように祈らなければならない。福音を実際に生きていない場合、我々は伝道できないのである。神の御心から外れて生きているキリスト者は、福音を世界に軽蔑されるようにしてしまう。ヤコブは言っている、「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」(ヤコブ2:17)。罪を犯し続けるキリスト者は、神の名を冒涜させられる。我々キリスト者の罪は、主なる神、主の教会、そして教会の牧師の評判を損なうことにつながるのである。
私たちは、我々は、したがって、世の中に光として輝くために、罪を捨て去ろう。イエスは言われた、「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:14–16)。イエスはまた言われた、「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネ13:34–35)。
キリスト者の聖い生活は、福音を最も貴重な宝石のように輝かせることになる。きになります。イエスは言われた、「イエスはこれらのことをすべて、譬で群衆に語られた。譬によらないでは何事も彼らに語られなかった。これは預言者によって言われたことが、成就するためである、「わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」(マタイ13:45–46)。
福音は最も貴重な宝石であり、我々は良い行いを通して、宝石を輝かし世界に対して示すのである。キリスト者の被雇用者や従業員が、仕事上で重大な苦難に直面したときはどうなるか?彼らがそれでも聖い生活をし、この世の中で星のように輝くことができるか?答えは、できるように神が恵みを与えられる、である(2コリント9:8)。恵みが豊に与えられることで、実際に良い働きが多く行えるのである。次のように書かれている、「わたしの恵みはあなたに対して十分である」(2 コリント12:9)。また他の箇所では、「しかし神は、いや増しに恵みを賜われる。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある(ヤコブ4:6)。我々は、聖霊の力が与えられて神の御心に歩まなければならない。パウロは教えている、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ8:28)。
キリストのために多大な苦難に直面している人々が、今世界中の至る所にいる。しかし、我々は神の聖霊が彼らの生活を全うできるように助けられると信じている。聖霊の力によって、パウロとペテロは殉教の苦しみを乗り越えることができた。神をも畏れずただ過酷に従業員を扱う雇用者のために、キリスト者の被雇用者が働くことができるように、同じ力と神の恵みが与えられるのである。「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(1コリント10:31)。聖霊がなければ、我々の誰もキリスト者としての生活を送ることはできない。聖い人生を生きるべきことが、教えられている、「僕たる者よ。キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心をこめて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう」(エペソ6:5-8)
この地上での主人に従うべきである。神に対する畏れをもって、真実な心で従うべきである。キリストご自身に従うように従うべきであって、単に人を喜ばせるためにだけ従ってはならない。キリストの僕として従うべきであり、神の御心を行うように、心から従うべきである。主なる神に全身全霊をもって従うべきである。主に従うのであって、単に人に追従してはならない。
「愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」(1コリント 15:58; 2コリント5:10)。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(1コリント 10:31)。
ヨハネ12章にあるように、人が尋ねてきて、「主イエスに会いたいのですが」とたずねるとしよう。「主イエスはここにおられません。死から復活されたが、ここにはおられません。天におられます。いま会うことはできません」と我々が答えるかもしれない。しかし、この答えは真実の全てではない。主イエスは我々と共に今おられるのだ。主イエスは我々の家族に、我々の教会におられるはずである。主イエスは我々を決して見捨てず、離れないと約束されたのである。
我々は、世の光なのである。人々は我々の中に主イエスを見たいと思って来るときに、聖い生活の中に、福音伝える中に、彼らを招待せよ。実際には、「あなたは主イエスを見たいですか?私の家に来て、私の子供たちを見てください。私たちがどのように生きているかを見てください。私たちがお互いをいかに大切にしているかを見てください。主イエスが私たちと一緒にここおられるので、このような状態なのです。これが全てです」と言うことができるのである。彼らを招待できるのだ、「あなたは主イエスを見たいと言っていましたか?私たちの教会に来て見てください。主イエスに会えます。あなたと話していただけます。私たちの教会におられます」。
被雇用者、雇用者、従業員、高齢の男性、年配の女性、若い男性、若い女性、牧師、どのような立場であっても、全ての神の民はキリストの体である教会に属している。我々は神の相続人であり、キリストとの共同相続人である。我々は、宇宙の星のように輝いて、神の子として生きよう。なによりも神の栄光のため、神に召された者の救いのために、神の命の言葉を掲げよう。神の国は、聖霊における、正義、平和、そして喜びである。だから、我々はどんな立場や身分であっても、神の国の秩序ある生活を送るのである。
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