巨大に喜べる良い知らせ

Matthew 1:18-25
P. G. Mathew | Sunday, December 21, 2014
Copyright © 2014, P. G. Mathew
Language [English]

マタイ1:18-25

「巨大な希望」と言う本が出た。それはまさに人間のエゴ丸出しの本である。その本には、我々が語る希望については一切書いていない。2000年前にベツレヘムで生まれた我々の救い主、主キリストにある希望についてなど一切書いていない。

罪深い、死に行く人間のはかない希望に基づく無価値な本、そのようなものに希望を置いているなら、パウロが言っているように。「もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在」である(1コリント15:19)。人間の助けはむなしい(詩篇60:11)。罪深い人間、その希望はこの世界だけのことである。人間に希望を置くならそれは、本当に絶望しかない。

ヨハネは言っている、「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる」(1ヨハネ2:15–17英欽定訳)。 主イエスが言われたことを思い出そう、「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マルコ8:36)。

我々の望みはこの世や人にはない。だから、「のぞみはただ主の」聖歌236(讃美歌474)を歌うのである。

のぞみはただ主の血と義にあるのみ。

いかでか他のものたよりとなすべき。

イエスこそ岩なれ、堅固なる岩なれ、ほかは砂地なり。

「巨大な希望」と言う本が語る希望は、実際は底なしの砂地である。それに頼る者に救いはない。人間は、邪悪、傲慢、頑固であり、永遠の救いをもたらすイエス・キリストを拒否する。

人間は神に背いており、罪深く、この世界で希望がない。神は人間を死に定められ、その後裁かれる。詩編は教えている、「イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。主はイスラエルをそのもろもろの不義からあがなわれます」(詩篇130:7–8)。

イエス・キリストのみに希望がある、とペテロは言う(ペテロ1:3)。人間は、その貧しい知性、滅び去る金銭、色あせる美しさ、衰える能力、単なる血統に信頼を置く。しかし、それでも彼は死ななければならない(1ペテロ1:3)。

天使は、処女マリア、ヨセフそしてベツレヘムの貧しい羊飼いに、救い主イエス・キリストについて知らせた、「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」(ルカ2:11)。時が満ちて救い主が生まれた。それは主イエス・キリストである。彼は罪深い人を救うふりをした罪深い人ではない。彼は神ご自身であって人となられた人である。罪を悔い改めて主イエスを信じる者を、主イエスは贖いによって救われる。彼は全世界の唯一の救い主であり、栄光の希望である。主イエスの中にこそ我々は永遠の命の希望を持てるのである。

マタイ1:18-25で、マタイはイエス・キリストの処女誕生を記録している。私の師であったウェストミンスター神学校のジョン・マレー教授は、神の永遠の御子であるキリストの受肉について語っておられた、「本来神の御子であられる方が、限りある人間となられた。これこそあり得ない奇跡にほかならない。無限が有限になられた。本来見えない方が見えるようになられた。全てを維持しておられる方が、他に頼って生きる人となられた。全能者は弱い人となられたのである」。 マレー師は、キリストの受肉は総じて、「神の属性すべてと人の属性すべてを持たれることだ」と説明しておられた。

受肉において、聖霊によって処女マリアがキリストを産んだのである。これは3つの方法で奇跡的であった。超自然的な人間を生み出した超自然的な受肉であり、超自然的な状態でイエス・キリストは罪の影響を受けておられない。イエス・キリストは罪ない人として生まれられた。マリアや他の人間とはこの点で全く違っている。

マタイは、マリアがヨセフと結婚する約束をしていたと教えている(マタイ1:18)。この婚約は合法的な結婚状態をもたらした。彼らは、そのならわしに従って一年後に一緒に住み始める予定であった。しかし、その前にマリアが子を宿したことをヨセフは伝えられた。この妊娠は、エク・プニューマトス(聖霊による)受肉であった。

聖書はいくつかの場所でこの奇跡的な妊娠を伝えている(マタイ1:18, 20, 23; ルカ1:27, 31, 34, 35)。それはまたイザヤによって預言されていた(イザヤ7:14)。マタイは、マリアの超自然的な処女降誕が、700年前のイザヤの預言の成就であると明言している。ルカ1:37では、神にとっては不可能なことは何もないと述べている。

神が奇跡を起こされるということは信頼できる。新約聖書の学者であり、ウェストミンスター神学校の創設者であるJ.グレシャム・メイチェン師は、著書「キリストの処女降誕」で次のように言っている、「我々の救いは歴史上の事実に基づく。聖書は歴史的な事実を語っている。もしも、その歴史が真実でなければ聖書の権威はなくなり、聖書に信頼を置いている我々に希望はない」。神聖な歴史は全く真実である。これに対して、世俗的な歴史は、真実も含むが同時に嘘でいっぱいなのである。メイチェン師は続けて言っている、「処女降誕を拒否する者は、キリストの超自然性を拒否する」。ここで私は言うが、超自然性を拒否する者は、本物のキリスト者ではない。キリスト者は神の霊を宿しているのである。メイチェン師はまた、人は福音が我々に語っているままのイエス・キリストを信じることによって恵みによって救われる、と説明している。4 その福音の一部が、処女降誕の奇跡である。B. B.ウォーフィールド教授は、「超自然的なキリストと超自然的な救いは、それは必然的に、我々を超自然的に救うのでである」と述べている。

こうして、ヨセフは妻の妊娠について知った。 おそらくマリアから仲人を通じて知らされていたと考えられる。マリアが聖霊の力によって妊娠したことを伝えられたが、これを信じることができなかった。法を守る人、正しい人であったヨセフは、彼女を妻とすることを拒否した。すなわち、申命記24:1の律法に従い、彼女との婚約破棄を願い出た。

ルカ1:38のとおり、マリアはこの困難な問題の解決を主なる神に委ねていた。夜中にヨセフが寝ている間、神の天使が彼に現れ、聖霊の力によってマリアの処女降誕を伝えたのである。マリアが清い女性であって神の戒めに違反していないことに念を押し、マリアと結婚することを恐れるべきではない、と天使は伝えた。ヨセフは主なる神からこのメッセージを聞いて喜んだ。

おそらくこの天使は以前マリアの前に現れたガブリエルであったと考えられる。ガブリエルは、ヨセフを「ダビデの子孫」と呼んでいる(マタイ1:20)。天使はヨセフにいくつかのことを命じ、マリアを妻として家に迎え入れ、彼女を守り、導き、慰め、励ますように命じた。また、天使はマリアが男の子を産むと告げ、神が与えられたイエスと言う名でその子を受け入れるように命じた

ジョン・マレー氏は、イエスは貴い名前だと言っている。マタイの福音書だけでも150回使用されている。それは好き勝手に与えられている名前ではなく、霊的な意味があふれていることを示している。「イエス」とは「ヨシュア」を意味し、「ヨシュア」とは、「エホバ」(神が救う)、ヘブライ語の「ヤシャ」(救う)という意味である。

旧約聖書は主なる神のみが救い主であると教えている。だからイザヤ書43:11には、「ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない」と書いてある。ホセヤ13:4にも、「わたしはエジプトの国を出てからこのかた、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はない」と教えている。使徒行伝4:12は、イエスが救い主であると証言している、「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

すべての宗教は、罪深い人間によって創られた物であり、それは誰も救うことができない。しかし、主イエス・キリストのみが我々を救う。あなたは、この主イエス・キリストのみに信頼して、既に救いを受けたであろか?

この論理を考えてみよう。旧約聖書は、神のみが人を救うと語っている。そして、新約聖書は、主イエスが人を救うと教えている。従って、主イエスが人を救う神なのである。同様に、主なる神のみが人の罪を赦されることを、旧約聖書は教えている。そして、主イエスは我々の罪を赦される、と教えている。従って、主イエス・キリストは人の罪を赦すことのできる主なる神ご自身であられる。

主イエスの名によるしか救いはない。マタイによる福音書1:21では、ギリシャ語の「オート」がこの意味を伝えている。他に救い主はいない、ということである。即ち、主イエスは全世界で唯一の救い主である。主イエスは彼に属する者の体と魂を完全に救う方である。

したがって、主イエスによって地上のすべての種族に祝福が来るのである(創世記12:3)。彼は、女の(処女マリア)の子であり、蛇の頭を砕く唯一の救い主である(創世記3:15)。自らの死によって人の罪を贖い、死を滅ぼし、我々に永遠の命を与えることができる。

主イエスは地獄を壊し、我々を主なる神の国に向かわせることがおできなる。主は御自分の民、すなわち子羊の本に名が書かれている神の民、父なる神が主イエスに与えられたすべての人を救い、恵みを与えられる。ユダヤ人だけでなく、異邦人も救われる。

だからこう書いてある、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」(ローマ8:29–30)。

ヨハネによる福音書17章で、主イエスは、「あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから」と祈っておられる。言い換えると、主イエスは世界の大多数の人々のために祈ってはおられないのである。教会、エクレクシアとは、世界から「呼び出された」人々で構成されている。だから主イエスは言われた、「わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです。彼らはあなたのものなのです」(ヨハネ17:2, 9)。

パウロは書いている、「神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである」(2テモテ1:9–10)。パウロはまた言っている、「主に愛されている兄弟たちよ。わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。それは、神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとし、そのために、わたしたちの福音によりあなたがたを召して、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせて下さるからである」(2テサロニケ2:13–14)。

主イエス様は虐げられた羊飼い、世俗的な者、放蕩者、売春婦でさえ救われる。即ち彼は罪人の頭をも救われる、とパウロが自分のことをそう言っている、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである」(1テモテ1:15–16)。

神は、この世で力ある者、横柄な、邪悪な、傲慢な、金に頼る豊かな者、自らを誇る有名人、知識人、哲学者を笑われる。そう思わないなら、パウロが次のように言っていることに目を向けよ、「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである」(1コリント1:26–29)。

マリアでさえ、自分が産んだ子である主イエスによって救われなければならなかった。実際、彼女自身も救い主を必要とする罪人であると告白している、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます」(ルカ1:46–47)。マリアも神の前では我々と同じ罪人であった。従って、マリア崇拝は偶像礼拝である(PGM)。逆にマリアを不浄の女性とみなすことも誤りである。しかし、マリアも我々と同様、罪びとであり、御子イエス・キリストによって救われるのである。

主イエスお一人だけが御自分の民を罪から救われる。罪の中に埋没した状態で救われるとは教えていない。罪の中から救い出して下さる、と教えている。あなたが罪の中に生きているなら、当然警告を受ける。その場合、あなたはキリスト者ではない。主イエスは我々を罪の中から救い出し、主イエスに似た者として清めて下さるのである。不敬虔な者を敬虔にされる。人が清い生活をしていないなら、その人は本物のキリスト者ではない。その救い主の名はイエス、「彼の民を罪から救出される」のである。

主イエスは、御自分の民を罪の罰からも救われる。それは永遠の死、罪の力と汚染、さらには罪の存在それ自体から救われる。主イエスによって、主の民はその魂も体も救われ、主の栄光に導かれる。これによって、我々は神の慈悲の対象となり、朽ちることのない永遠のビジョン、即ち神の国の幸福を与えられる。

主イエスは、主の民を一人残らず救われる。主イエス御自身が言われた、「わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ6:39–40)。

主イエスは御自分の民を罪から救い、父なる神の所に伴われる。主は、罪の根源とその果実、悪い心と邪悪な行動から我々を救われる。我々の問題は心である。エレミヤは言っている、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか」(エレミヤ書 17:9)。主イエスは言われた、「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう」(マタイ15:18–20)。パウロは書いている、「それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである」(1コリント6:9–11)。だからこう書いてある、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」(ガラテヤ5:22–23)。

あなたはこの主イエス・キリストが誰であるか知りたいとは思わないか? 友よ、罪からの救いは、天の下で他の誰にも見いだせない。主イエス以外によらなければ、誰も父なる神の御もとに来ることはない。主イエス・キリストを信じて、生活のすべてにおいて主に仕えることなしに、救われることはない。

主イエスとは誰か? 主なる神が我々と共におられるイマヌエルの方である。全世界の唯一の救い主である。旧約聖書で約束の油そそがれた預言者、祭司、王、救い主である。即ち、主なる神ご自身であられる。神の言葉をもって我々を助ける素晴らしいカウンセラーである。創造、摂理、贖いの力を持っておられ、永遠の父なる神と同じ方であって、永遠から永遠へと我々を守られる父なる神と同じ方である。平和の王子であり、我々に真の神と平和を与え、神の平和を我々の心にもたらす方である。唯一の神の御子であり、我々を子として受け入れられる。かつて我々は悪魔に属していたが、主なる神は我々を子としてくださった。それは、良い羊飼いである主イエス・キリストが、十字架上の代償と贖いの死をもって、我々羊のために命を捧げられたことによる。だからこう書いてある、「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」(ローマ4:25)。我々は罪を犯し、死に定められている。しかし、主は我々の代わりに死なれ、これによって我々の罪は永遠に赦され、永遠の命を与えてくださった。

「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(2コリント5:19, 21)。我々は、与えられた神の義の衣をまとっている。

ヨセフは主なる神の諭しを信じて従った。マリアの処女降誕の奇跡が聖霊によって起こることを信じて、マリアを妻として家に迎え入れ、守り、導き、慰め、仕えた。ヨセフは、告げられたとおりに子をイエスと名づけ、永遠なるダビデの王座がここに受け継がれた。ヨセフ自身も、主イエスに対する信仰によって罪から救われたのである。

あなたはどうか? あなたは福音を聞いて、主イエス・キリストにひれ伏し、人生の主としてイエスを信じると告白したか? そうでないならば、この教えは全てあなたの罪を裁く結果となる。主イエス・キリストは、永遠に王の王である。あなたが主のルールに従うと、主はあなたを救われる。

羊飼いは、信じて救われた。ヨセフとマリアも信じて救われた。そして膨大な数の人々が主イエス・キリストを人生の主として信じて救われた。そして主なる神は、我々をも救われた。だからこう書いてある、「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」(ローマ5:1)。また、こう書いてある、「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」(ローマ8:1). だから聖書は、次のように我々に問いかけているのである。

「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。『わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている』と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:31–39)。

今あなたがキリストの外にいるであろうか?そうだとしても、主はあなたを救うことがおできになる。聖書は言っている、「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(2コリント6:2)。では、どうすれば救われるのか?パウロは言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒行伝16:31)。 またこうも言った、「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)。ペテロも言っている、「悔い改めなさい。そして、あなたがた一人一人が罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(使徒行伝2:38)。だから、信じて罪を告白し、悔い改めよ。そして主イエスに祈れ。福音書の記録にある、「しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った」(マタイ14:30)、すると主イエスは彼らを救われた。彼の名はイエス、人を罪から救われる方である。もし、あなたが今、主を信頼するなら、永遠の命を得るであろう。イエスは言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」(ヨハネ5:24)。

救われた人々は神を祝って礼拝する。だから我々は祝おう! 多くの天使たちと、罪から救われたすべての人々、すなわち天と地の両方の民全員が歌いつつ、主を礼拝しよう。「グロリア・イン・エクセルシス・デオ」、高いところには神に栄光が、地上では平和が、主である御子イエス・キリストを信じる者と共にあるように。「世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン」(1テモテ1:17)。天の24人の長老と共に歌う賛美がある、「彼らは新しい歌を歌って言った、『あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう』」(黙示録5:9–10)。ハレルヤ!

1ジョン・マレー, 組織神学講義集, 第2巻 ジョン・マレー著作集から(Edinburgh: Banner of Truth, 1977), p.132.

2ジョン・マレー, p.133.

3ジョン・マレー, 第2巻, p.134–5.

4 J. グレシャム・メイチェン, キリストの処女降誕 (Grand Rapids: Baker, 1965), p. 385, 391, 396.

5 B. B. ワーフィールド, キリスト論とその批判, B. B. Warfield 著作集第3巻 (Grand Rapids: Baker, 1981), p.452.