神の御心にある結婚
Genesis 24:12-26P. G. Mathew | Sunday, April 14, 2013
Copyright © 2013, P. G. Mathew
Language [English]
創世記24章を学ぶが、特にキリスト者の独身の男女に言いたい。この創世記の長い章から、イエス・キリストの真の信仰者にとっての神の御心にある結婚について学ぶ。イエス・キリストへの信仰をもたない者たちとは異なり、キリスト者にはだれとでも結婚できる自由はない。我々キリスト者は、真の信仰者の異性のみと「主にあって」結婚すべきである。アダムのために、神はイブを与えられた。イサクの結婚相手として、神はリベカを召し出された。創世の当初から、全ての人種にとって、結婚は神の一般的御意志である。神御自身が言われた、「人が一人でいるのは良くない」。だから、神はそれぞれ神を畏れる男性に、神を畏れる女性を結婚相手として召しておられる。これは、神が特定の男性や女性にそれぞれ独身の状態でいるように求められる場合以外でのことである。後者の場合、神はそれぞれ独身の状態に留まるための賜物を与えられる。
父アブラハムの信仰
では初めに、信仰の父アブラハムの信仰を見よう。創世記24章で、40歳になる神を畏れる息子イサクのために、神が神を畏れる若い一人の女性を結婚相手として召される時にも、アブラハムは全面的に神を信頼していた。アブラハムは「エホバ・エレ」(神は備えられる)という原則を信じていた。契約の主は、イサクの代わりに全焼の捧げものとして子羊を既に準備しておられた。そして、イサクは結婚し、偉大な国の父となり、ここから世の救い主が来られるようにされた。主がイサクを死から免れさせ、また彼に神を畏れる妻を自ら選んで与えられる、とアブラハムは考えたに違いない。事実、モリヤの山で神がイサクを死から免れさせた後、アブラハムがその通りに神から知らされた。
主の天使が2回目に天からアブラハムを呼んで言った、「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」(創世記22:15-18)。
神は、御自身よりも上のものは存在しないので、自らにかけて誓われた。神のみが信頼するに値する。救い主はイサクの子孫から出て来られる。なぜなら神が言われた、「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」(創世記17:19)。契約は、イサクと結ばれた。イシマエルとは結ばれなかった。
アブラハムは、神がイサクのために神を畏れる妻を選ばれ、この永遠なる目的を成就されると信じていた。だから、彼は最も信頼する信仰のしもべ(おそらくダマスコのエリエゼル、創世記15:2参照)に指示して彼の一族のいる故郷に赴き、神がイサクの妻として選ばれた女性を探し出させた。彼は神を畏れないカナン人の女性を信仰者であるイサクの妻として求めなかった。
信仰者は、信仰をもたない者と契約を結んではならない。モーセはイスラエルの民に命じた、「異邦の民(カナン人)と縁組をし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。あなたの息子を引き離して私に背かせ、彼等はついに他の神々に仕えるようになり、主の怒りがあなたたちに対して燃え、主はあなたを速やかに滅ぼされるからである。」(申命記7:3-4)。ソロモンはこの命令を守らなかった。「ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちが彼の心を迷わせた。」(I列王記11:4)。だからパウロは警告している、「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いなくびきにつながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。」(2コリント6:14)。なぜ信仰者は信仰の無いものと結婚すべきではないのか?なぜならば、信仰のない伴侶は、信仰者を信仰から離すからである。エサウのような信仰のない者だけがカナン人と結婚したのである。
だからエリエゼルの一行は、イサクをメソポタミアに連れていくことはなかった。しかし、イサクはカナンに留まらなければならなかった。そこは、イサクの子孫に永遠に与えられた土地であったからである。そして結局、カナン人はその悪行のゆえに滅ぼされることになる。
エリエゼルは、その道中神の臨在と導きを確信し、神が選ばれたイサクの妻となる人を見つけることに成功した。この章で「主」という言葉は、「契約の主」であり、少なくとも17回出てくる。主は、その女性を見つけ出され、伴侶探しの仕事を最初から最後まで支配される方である。
神は我々の導き手である
神は、我々の導き手である。アブラハムは宣言した、「天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。わたしは今まで主の導きに従って歩んできた。主は御使いを遣わしてお前に伴わせ、旅の目的をかなえてくださる。お前は、わたしの親族、父の家から息子のために嫁を連れて来ることができよう」(創世記24:7, 40)。
神御自身が、この状況の中で行動された。イスラエルの民を荒野で導かれたように、神はアブラハムのしもべを導き、イサクの為に伴侶を見つけられたのだ。だからエリエゼルは言った、「主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」(創世記24:27;48節も参照)。
我々を救われた神は、我々の人生の全てにおいて導いて下さる。仕事を見つけるのにおいても、神を畏れる伴侶を見つけるのにおいても同様である。だから我々は全てのことにおいていつも神に感謝すべきである。神は我々の人生に神聖なる、栄ある計画を持っておられ、神の臨在のもとへと安全に導かれる。永遠の昔から我々をキリストにおいて選ばれた。計画に基づいて聖なる教会に我々を導き、清く整え、最後には栄光を与えられるためである。神の教会においてこそ、我々は永遠の昔から神が選んでおられる神を畏れる伴侶を見出すべきである。
我々は、しかしながら教会の中にいるカナン人に注意しなければならない。聖霊、聖書、そして神が聖なる教会にたてておられる指導者の導きが必要である。多くの者が、単に肉の欲が導いているのに、「神は私を導いておられる」と安易に言う。我々は、イエス・キリストの教会内のデリラやユダを警戒しなければならない。
親の責任
子の結婚における親の責任はなにか?聖書は、男子あるいは女子が単に其々伴侶を見つけるということだけを教えてはいない。聖書は、伴侶を見つけるという重大な決断をするためには成熟した知恵が必須であり、子にはその知恵が欠けているということをも教える。加えて、伴侶選びには、相性だけでは不十分である。(ここでの「相性」とは、「お互いを好きか嫌いか」という気持ちを、決断の根拠にすることを指す。)相性ではなく、キリストが我々の決断を導かなければならない。
キリスト者の結婚は、「主にあって」行われなければならない。神は、外見ではなく、内面の清さの美を見られる。だから、我々は親や牧師に相談する必要がある。イサクとリベカの結婚は、イサクの父を通して、神によってもたらされた。イサクとリベカは、その神の計画に完全に従った。彼等は、神が選ばれた伴侶を選んだ。この章の最終節を見よ。聖書は、彼らが恋に陥ってから結婚した、とは言っていない。この二人は結婚し、そしてお互いを愛し幸福に暮した、と聖書は言っている。
この章では、其々の人は、異邦人のラバンまで、みな神に導かれている。皆がイサクの伴侶を見つけることに神の導きを認識していた。キリストが我々を導かれ、我々はキリストに従わなければならない。キリストが我々の後を子犬のようについて来られることは決してない。キリストが我々を引っ張って行かれるのだ。それは、キリストが我々を永遠の命へと向かう細い道に導かれ、そのようなキリストに我々が従って行くためである。
伴侶となる二人の純粋さ
イサクの神を畏れる人格に目をとめよ。彼はいつも神に従った。イサクの父アブラハムは神の栄光をイサクに教えた。神は、父アブラハムを生まれた地からカナンへ導き、祝福された。アブラハムの信じる神は真の生きている神である。彼の先祖たちが頼っていた偶像ではない。イサクの神を畏れる態度は、彼自身がまさに献げものとされるときに明らかにされた(創世記22)。イサクは試みられ、それに合格した。父アブラハムが神の栄光のための全焼の献げものとして、イサクを木材の祭壇のうえに縛りつけるまで、イサクは従い通した。そして、神の名が「畏れ」おおいものであるということを学び、これを後にイサクの子ヤコブが「イサクの畏れ」と呼んでいる(創世記31:42)。
我々は、神を畏れ従うべきである。シナイ山で神はモーセを含む民の全員が震えあがるような畏れと共に現れられた。神の畏れは我々が罪を犯さないように守る。我々は神を畏れないと罪を犯す。
イサクは神を畏れた。彼は神を信頼し、神を畏れる伴侶を与えられた。彼は父アブラハムを信頼し、カナンの地に残った。そして神から与えられる糧を待った。
だから、エリエゼル一行は10頭のらくだに高価な贈り物を積んで、ナホルの町の外に到着した。主は彼らを一歩一歩導かれた。
祈りの重要性
エリエゼルは常に祈っていた。彼は自分自身の理解力に頼ろうとはしなかった。「神は、私を導いておられる。」と、人が嘘を言っているのを聞いたことがある。我々は教えられている、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」(箴言3:5-6)。パウロは書いている、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(ローマ8:14)。もしもあなたが「イエスが主である」と聖霊によって告白するならば、あなたは聖霊によって導いていただきたいと考えるであろう。
神は、神の民が祈るなかで導かれる。神は、神の羊の群れの牧者である。我々は祈らずに、何事もしようとはしない。神の民は、喜んで神の意志に従う。だから、エリエゼルは、アブラハムの民の属し、神を畏れる女性を見つけ出せるように祈った。
その祈りを見てみよう:
そこで彼は祈った。「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたのしもべイサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたがたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。しもべがまだ祈り終わらないうちに見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た。彼女は、アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘で、際立って美しく、男を知らない処女であった。彼女が泉に下りて行き、水がめに水を満たして上がって来た」(創世記24:12-16)。
リベカが最初にそこに来たと私は考える。「彼が祈り終える前に」彼女は到着した。すばらしいことだ。イザヤは言っている、「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける。」(イザヤ65:24)。イエスは我々に教えられた、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7:7-8)。
イサクはモリヤ山での試みに既に合格していた。彼は畏れをもって不思議な神の御心に従った。今アブラハムに仕えるエリエゼルは、思考を神の使いに制御され(即ち神御自身に制御され)、イサクの伴侶を見つけ出すテストを行った。その女性は心から仕える者でなければならない。利己的で、自分に仕えるよう人に命令する者であってはならず、献身的に他の人々に仕える者である。彼女は、神を心から愛し、隣人を自分のように愛する人であるべきで、すべてにおいて主なる神に仕え、そして主なる神に対するように夫に仕えるべきである。
彼女は処女、性的に純潔な人であるべきである。パウロは言う、「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろのけがれたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。」(エペソ5:3)。今日、多くの人間が処女を恥とみなしている。良いことは悪であり、悪は良いものと見られるのが我々の現代文化である。
旧約聖書では、両親が彼等の子の性的純潔を保証することになっていた。若しも未婚の女性が性的にモラルに反することを行っていれば、彼女は殺された(申命記22)。今日、子の為にそのような人を殺さないでもよいことを神に感謝せよ。ここで大事な点は、キリスト者の女性と男性は、性的に純潔であるべきであるということだ。パウロは勧めている、「若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」(2テモテ2:22)。
リベカは聖イエスの母のように処女であった。リベカは純粋、謙遜で、人徳があり、人をもてなし、生産的、そして神を畏れる女性であった。その上に、彼女は神聖なる試験に合格した。彼女はエリエゼルとかれの付き人に水を与えた。それから、彼女は一行のらくだにも水を与えた。10頭のらくだは1トンの水を飲むかもしれない。彼女は水を汲む仕事を終え、そのテストに合格した(説教者の解釈)。エリエゼルは、アブラハムの神が目的をかなえさせ、イサクのために神が選ばれた花嫁を示されたことをついに確信した。「目的をかなえてくださる」という言葉は、この章に5回でてくる。
神を畏れる妻は神からの贈り物である:「家と財産は先祖からの嗣業(しぎょう)。賢い妻は主からいただくもの。」(箴言19:14)。他の個所では、次のようにも書いてある、「口を開いて知恵の言葉を語り、慈しみの教えをその舌にのせる。一族の様子によく目を配り、怠惰のパンを食べることはない。息子らは立って彼女を幸いな人と呼び、夫は彼女をたたえて言う。『有能な女は多いが、あなたはなお、そのすべてにまさる』と。あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる」(箴言31:26-30)。
御業は遂行された
御業は遂行され成功した。神は、アブラハムの仕え人エリエゼルをイサクの伴侶となる人のもとへ導かれた。
リベカは、アブラハムの兄弟ナホルの孫であった。つまりナホルの息子ベトエルの娘であった。またラバンの姉妹であった。聖霊は、創世記22:23で既に彼女を紹介しておられる。彼女がらくだに水を与えた後、エリエゼルは彼女に金の装身具、鼻飾り、腕輪を与えた。そこで彼女は出て行き彼女の兄弟と両親に全てを報告し、兄弟と両親はエリエゼル一行をもてなした。しかし、エリエゼルは主人アブラハムが任せた目的はたす前に、そのもてなしの飲食をすることを断わった。だから、エリエゼルはこの道のりでの神の導きと祝福についてのいきさつと、どのように神がアブラハムを大きな資産をもつほどに祝福し、アブラハムの妻サラが老齢になってからイサクを産んだことについて話した。エリエゼルはアブラハムがどのように全ての資産をイサクに与えたかを話し、神の導きによりアブラハムの民からイサクの伴侶を見つけてくる仕事を、アブラハムがエリエゼルに任せたいきさつを話した。そして、神が、これら両親やその他の者たちの思いに働かれ、彼等は明らかに示された神の御意志を受け入れた。
ラバンとベトエルの反応を見よ:「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください」(創世記24:50-51)。これが神の御心にある結婚である。エリエゼルは、リベカと彼女の家族に10頭のらくだで運んだ高価な贈り物を全て与えた。それから、彼等は飲食をして、神がイサクの妻としてリベカを選ばれたこと、彼女を見つける目的をかなえられたことをもって、神をほめたたえた。
朝には、一行はリベカを伴って出発を願った。しかし、彼女の両親は少なくとも彼等に10日滞在するように願った。エリエゼルは、これを断り、彼女に決断を任せた。リベカは、「ここにイサクを連れて来て下さい。私は自分の故郷、親族、父の家を離れ、遠くへ行きたくありません。」と言っただろうか?いや、神が行われることは全てにおいて正しい。ルツのようにリベカは言った、「あなたが行かれるところに私も行きます。留まられるところに留まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はたわしの神です。あなたの死なれるところで、わたしも死に、そこでわたしは葬られます。」
だから彼等は彼女を呼んで言った、「彼とともに行きますか?」そして、聖霊は彼女くだり、彼女は答えた、「私は行きます」(創世記24:57-58)。言いかえると、「わたしは今すぐ行きます。延期はしません。病めるときも健康なときも、豊かなときも貧しいときも、喜びのときも悲しみのときも、その男性と結婚生活を共にするため、私は行きます。」という意味である。
そこで、彼等は旅立った。彼女は決してアラム・ナハライムへ戻って来ることはない。彼女は15歳ぐらいであった。カナンへ到着するまで約30日かかった。800 kmぐらいの道のりであった。
幸いな結婚
イサクとリベカにデートはなかった。実際、お互い会ったことはなかったのだ。これは神が整えられた結婚で、神の御意志にかなっていた。神はリベカの両親の心に働かれ、彼女の心にも働かれた。神は、アブラハムの心に働かれ、またエリエゼルの心に働かれた。神は、危険な旅の道中全ての者を守られ、そしてイサクの心にも働かれた。
イサクは彼女に合い、彼女をテントに招いた(彼女と結婚をしたという意味)。そして、彼女を愛し、死が引き離すまで二人は幸福に暮した、と記述されている。イサクとリベカを通して、イスラエルの国が創出された。そして、彼等二人を通して、救い主イエス・キリスト、即ち教会のための夫イサクが与えられた。
父なる神は、我々を永遠の昔より、花嫁である教会として選ばれた。我々を今でも清く栄光ある者としておられる。だから次のように書いてある、「夫たちよ、キリストがそうなさったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。この神秘は偉大です。私は教会について述べているのです。」(エペソ5:25-27, 32)。
イエス・キリストは我々の罪のために死なれ、我々が義とされるために復活された。キリストはなぜ十字架の恥ずべき死で死なれたのか?なぜならキリストは我々を愛されたからである。キリストは、我々の罪を贖うために死なれた。父なる神は、キリストにおいて我々を聖なる責めるところのない者として選ばれた。キリストは、我々を聖なる責めるところない者とするため、即ちキリストの栄光はる花嫁とするために、我々の死を代わりに死なれた。父なる神はキリストに全ての豊かさを与えられた。従って、キリストの豊かさは全て私たちにもたらされる。そして、我々の罪からくる全ての債務をキリストが担われ、我々の借財を全て払われた。
イエスが全てを支払われた。
我々は全てを彼に負う。
罪は、赤い染みである。
彼はそれを雪のように白く洗われた。
イエスは言われた、「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(マタイ5:8)。今でも我々は、キリストを信仰によって見る。キリストは我々と共におられる。我々の中におられる。信仰によって、キリストと一つにされる。神と御子主イエス・キリストから我々を引き離すものは一切存在しない。
神の御子には美しい花嫁がいる。パウロは言う、「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです」(2コリント11:2)。神は聖なる花嫁を持たれる。もしも聖くなければ、あなたはキリストに属していない。あなたはカナン人である。あなたは、教会の中のユダである。このように書いてある、「わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。『ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。子羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」(黙示録19:6-8)。キリストの花嫁は聖い者となる。
適応
- 真の信仰者は、キリストを真に信仰する者とのみ結婚しなければならない。キリスト者であると口先で断言・宣言したとしても、清さが証拠となる。だまされてはいけない。
- デートは、相手が配偶者としてふさわしいかどうか、つまり本当に神を愛し畏れているかどうかを見出すためである。もしも相手がカナン人、すなわちキリスト者ではないならば、その人と何の関係ももってはならない。イゼベルやユダを避けよ。
- 性的清さは真剣に要求される。性的に罪を犯した者は、その罪を悔い改め、性的純潔の生活に変えられたことをその証拠とすべきである。
- 神がリベカをイサクの伴侶に選ばれたように、神は神の民に神を畏れる伴侶を与えられる。神を信頼して、聖霊、聖書そして教会に導かれるよう祈れ。
- 神が与えておられる人を選ぶべきである。神は決してそれが男子であっても女子であっても悪人をあなたの為に選んで来られない。神がイサクとリベカを会わせられたように、結婚があなたへの神の御心であれば、神はあなたに神を畏れる伴侶をその時が来たら導いて来られる。
- 「神は我々の結婚を一歩一歩導かれた」と言ってはならない。もし、それが本当でないと知っているならば。
- もし神があなたに結婚をさせられたなら、離婚してはならない。なぜなら神は離婚を憎まれる。
- 神のことば(聖書)を学び、そこに明らかにしておられる神の御意志に完全に従え。
- 結婚をするずっと前から、神を畏れる伴侶が与えられるように、神を畏れる子供が与えられるように熱心に祈れ。
- 神を畏れる生活をせよ。
- 神を畏れる両親と牧師に相談せよ。
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