神の言葉を説教せよ!

2 Timothy 3:14-4:5
P. G. Mathew | Saturday, May 16, 2015
Copyright © 2015, P. G. Mathew
Language [English]

祝41周年記念

初めに

グレース・バレー・クリスチャンセンターは神の言葉を説教するということに徹する教会である。そのような説教なしに、この教会の存続はありえなかった。この41年記念を節目に、2テモテ3:14–4:5から学んでみよう。

これはテモテにむけたパウロの最後の勧めである。テモテは、パウロのあとを引き継いで福音を説教した。やがてパウロはローマで殉教することになるが、パウロはテモテへの最後のことばとして、「神の言葉を説教せよ!」と命じている。

パウロの信仰の息子テモテは、生涯を通して聖書を学ぶ弟子であった。幼少期に祖母ロイスと母ユーニスから神の言葉を学んだ。パウロはまた、テモテの教師で、次のように言っている、「あなたは、キリスト・イエスに対する信仰と愛とをもって、わたしから聞いた健全な言葉を模範にしなさい」(2テモテ1:13)。そういう私も、同じように皆さまの牧師としてこのことばを謙虚受けとめている。実に幼少期から聖書の中で育てられた祝福をいただいている!

テモテは、人生を通して聖書と聖霊によって律せられていた。パウロは書いている、「あなたにゆだねられている尊いものを、わたしたちの内に宿っている聖霊によって守りなさい」(2テモテ1:14)。

まもなく背教が起こり、パウロの同士であるデマスはこの世を愛して福音を捨ててしまう(2テモテ4:10)。その前にパウロはこのように書いている、「しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善の仕業である」(1テモテ4:1–2)。

さてパウロは言う、「しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい」(2テモテ3:1–5)。

テモテは、彼のために死んで永遠の命を与えられたイエスに忠実であり、正しく真理を理解し、神の言葉を伝えるために聖書を勉強しなければならなかった。聖書だけが真実を語るのである。「あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである」(ローマ3:4)。もしも人の言う言葉が神の言葉と矛盾する場合は、人の言葉は嘘である。なぜなら、そのような人の言葉は悪魔の言葉だからである。悪魔は嘘の父なのである(ヨハネ8:42, 44)。

聖書だけが、生ける三位一体の神、神による創造、そして人の完全な堕落についての真実を語る。聖書だけが、罪人のための神の愛を伝える。神が、人を選び出し、イエス・キリストの福音で救われることを伝えるのである。キリストは我々の罪のために(カタグラファス)死んで葬られ、そこから甦って、数多くの人にご自分を示された。天と地のすべての権威を受けられ、王の王、主の主であること示された。この神であって同時に人であられるイエスは、我々の救いを完成するため、そして世界を裁くために再び天から来られるのである。

王なるイエスは恵みと哀れみに満ちておられるので、自分の罪を悔い改めてイエスを信じる者を救われるのである。聖書はこのことのほかにももっと教えている。テモテは、死に至る時まで、聖霊の力によってこれらのことを教えなければならなかった。

グレース・バレー・クリスチャンセンターではこれを実行している。この教会は妥協しない。使徒たちの正統教理を忠実に教える教会であり、且つ聖霊の油そそぎによってこれを行うのである。福音は我々を罪に勝たせる力である。神はすべての人を救われない。イエスに信頼して従っていく者のみを救われるのである。神であり人であるイエス以外に救いはない。罪なきイエスは十字架の死によって我々の代わりとならなれた。神は世界中のすべての者に、悔い改めて救われることを命じておられる。

イエスは復活であり命である。イエスのみが道、真理、命である。イエスを通らないでは、だれも父なる神のもとに行くことはできない。神に至る道はいろいろあって、キリストの教えはそのひとつだ、というような教えほど悪質なものはない。真実は、イエスが唯一の道であるということだ。だから我々はイエスだけが罪びとだけを、それもタルソのサウルという人間のような罪びとを救われるのである。あなたは罪を悔い改めて、唯一の救い主イエス・キリストを信頼しているだろうか?

従って、パウロはテモテに次のように教えている。なにを教えているのか?最も重要な真理を、2テモテ3:14; 4:2, と4:5にあるように、神からの命令を示しているのである。

2テモテ3:14

最初の命令は2テモテ3:14にある。たとえ他の者達が信仰を捨てていっても、テモテ自身は福音の信仰に生きなければならない、ということである。

神の言葉に従う

そこにはこう書かれている、「しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っている」。言い換えるなら、パウロは、「聖書の言葉にしっかりとつながり、それによって常に制御され続けるように」と言っているのだ。聖書が指し示すイエス・キリストと聖書に信頼するようにテモテに指示している。デマスのように途中で脱落することがないよう、福音を捨ててしまうことがないようにと言っている。聖書と聖霊によって制御され、聖霊の力と愛と健全な思考力を与えられるように、と教えているのである。

テモテは、数々の指導者から神について教えられ、教科書である聖書に学ぶように導かれていた。祖母ロイスと母ユーニス、そしてパウロは、テモテの信仰に必要な全てを聖書から教えた、信頼できる信仰深い人たちであった。

聖書は我々を永遠の救いに至らせる力と知恵をもっている。愚か者は、心の中で聖書の神はいないと思っている。そのような愚か者を知恵ある者へと変えられるのは、福音だけである。福音のみが、神の怒りと地獄から我々を救い出せる神の力である。福音が我々を救いの信仰に導くのであって、その信仰は祭司や牧師を信じることではない。旧約聖書の預言者を通して示されてきた救い主を信じる信仰である。

我々の信仰はイエス・キリストを信じることである。パウロは書いている、「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである」(エペソ2:8–9)。ピリピの監守はその夜自分の罪を示され、「救われるにはどうしたらいいでしょうか?」と助けを求めた。パウロは答えた、「主イエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」。

イエス・キリストは失われた者を見つけ出すために天から来られたのである。その中には大いなる罪びとザーカイもいる(ルカ19:1–10)。イエスが天から来られたのは、仕えられるためではなく我々に命を与え、我々を罪の絆から解き放って自由にするために罪の代価を支払いに来られたのである。パウロは書いている、「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(2コリント5:21)。

イエスは我々が罪のために受けるべき罰を我々に替わって全て受けられた。キリストは我々の替わりに十字架につけらあれ死なれたのだ。キリストは、神の小羊であり、我々の罪を全て取り除かれた。のみならず、不思議の不思議は、二重の商談のようなことをされたのである。イエスは神からの永遠に責められることのない義を我々に与えられた。我々はこれを信じることによって神の前で義人と認められ、このときから後は永遠に神との平和を得る(ローマ5:1)。

聖書の言葉は、すべて神の息がかかった神の言葉である

パウロは命令を続ける前に、テモテに聖書の特徴について語っている。聖書は神の言葉であって、真理であり福音である、これを説教せよ、と教えている。パウロは最初に言う、「聖書はすべて神の息がかかっている」(16節)。ここにはギリシャ語イセオプニューストスが使われている。神が語られた、神の息がかかった、神が著者である、という意味である。神が聖書の源なのである。

これは新しい考えではなく、創世記1章に「そして神は言われた」というへブル語(ウェイオメル エロヒム)が八回出てくる。神は言われた。霊の息で言われたのである。その息で全てを創造された。正に聖書は神の息である。聖書の中心的著者は聖霊である。人はあくまで2次的な著者である。神から選ばれ、力を与えられて聖書を記述したこれらの人々は、御聖霊の完全な制御の中で聖書を記述したのである。

これは旧約聖書についても真実である。ペテロは書いている、「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである」(2ペテロ.1:20–21)。聖霊に完全に制御されて書かれている旧約聖書である。新約聖書はどうか?ペテロは言っている、「また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている」(2ペテロ3:15–16)。そういうわけで、新約聖書も神の息のかかった神の言葉である。

従って、聖書は全て、一語一語が間違いのない神の言葉であり、完全で権威ある確かな言葉である。しかも我々を教え、生活を導くのに必要十分な神の言葉である。神の言葉は、心理学ではない。マルクス主義ではない。金儲けの類や社会学、女性学、真理セラピーではなく、科学や偽りの宗教ではない。

神の言葉はすべて有益である

パウロは、神の言葉がすべて有益であると言っている。その無限の価値を測ることは不可能なぐらいである。イエスは言われた、「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(マタイ16:26). 我々は世界の全て得たとしても、地獄にいくことになるのである。 健康、富、権力や名声などの有益さのことをパウロは言っていない。そのような偽福音ではない。パウロは、本当の福音のために牢獄に入れられ、まさに殺されようとしていたのである。神の言葉は永遠の救いのために有益であるといっているのだ。これには5つの目的が含まれる。

  1. 教え: 神の言葉はイエス・キリストについての神の知識を教えるのに有益である。パウロはテモテに言った、「これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰の言葉とあなたの従ってきた良い教の言葉とに養われて、キリスト・イエスのよい奉仕者になるであろう」(1テモテ4:6)。パウロはこうも書いている、「わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい」(1テモテ4:13)。
  2. 正す: 神の言葉は人を正すのに有益である。これは神のことばが、人の考えの間違いを指摘するということを意味しており、人は生き方やその信じることがらに間違いがある時、神の言葉によって正されるのである。
  3. 矯正: 神の言葉は矯正して回復するのに有益である。神のことばは我々の実生活を矯正する。それは我々をエパノルソシンする、つまり、我々の信仰の教理や我々の行動を矯正するという意味である。丁度、歯並びが悪い時、ブレイスを入れて歯を矯正するのに似ている。歯があるべき状態に並ぶように、我々の行動が矯正されるのである。ヨハネの福音書21章で、間違ったことを行っている兄弟姉妹を矯正するようにペテロは勧めているが、これは我々全ての義務なのである。ヤコブも言っている、「このように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである」ヤコブ5:20。罪の中にさまよっている兄弟姉妹を矯正するのも我々の責任である。
  4. 義の訓練: 神の言葉は我々を正義に向けて訓練する。それは、神の目に正しいことを行うようになるためである。こう書いてある、「あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならない」(申命記6:18)。神の言葉は正しく良い物である。正しいこと以外を教える者がいても、それをしてはならない。あくまでも神の目に正しいことを行うべきである。だから説教者は、聖書を説教し教えるために召されているのである。聖書を教えることは、訓練を含み、聖書から離れた場合の罰をも含む。詩編にこう書かれている、「わたしは苦しまない前には迷いました。しかし今はみ言葉を守ります」 (詩篇 119:67)。しかし、苦しみの後に、「わたしは神の言葉に従います」と書いてある。 神は、我々に苦しみを与えて、正しいことを行うように訓練されるのである。我々の生活全てに関して正しいことを行うように訓練されるのだ。
  5. 完全に整えられる: 神の言葉の最終的な目的は、牧師であれ他の信仰者が完全に整えられることである。それは、すべて良い業(即ち、神の御心)を行うためである。パウロは神の御心について言っている、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」(エペソ2:10)。我々は、速やかに、その通りに、喜んで神に従うべきである。神が我々を罪から救われたからである。パウロは言っている、「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである」(2コリント9:8)。

これらの特性は全て、神の言葉が充分であることを示している。神の言葉に欠けているものは一切ないのである。イエス・キリストの知識と恵みにおいて成長するために必要なことがすべてそこに書いているということだ。だから、聖書に人間の伝統を加えてはならない。聖書にこの世の知恵、即ち神を知らない人間の知恵を加えてはならない。神の言葉、聖書のみが生活全体で必須条件を全て満たす。これを神から送られている牧師が教える。聖書に何かを加えてはならない。聖書から何かを取り去ってはいけない。ヨハネは書いている、「この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受けるべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる」(黙示録22:18–19)。

パウロは以前テモテに言った、「わたしは、神とキリスト・イエスと選ばれた御使たちとの前で、おごそかにあなたに命じる。これらのことを偏見なしに守り、何事についても、不公平な仕方をしてはならない」(1テモテ. 5:21)。さてパウロは、終わりに厳粛に命令している、「神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる 」(2テモテ4:1)。

牧師、長老、そして私も、今あなたに命令する。神・イエス・キリストがおられるこの場で命令する。イエス・キリストは生きている者も死んだ者も裁かれる。パウロやテモテも例外ではない。テモテは、そのキリストに申し開きをしなければならない。これをつねに覚えよ。キリストは、死んだ者も生きている者も裁くために再び来られる。キリストは来て神の国をすぐにでも立ち上げるのである。キリストは、まさに王の王、主の主であるのだ。

2テモテ4:2

テモテは、神から命じられた働きを忠実に行う義務があった。神が喜ばれる、キリストが喜ばれること、それを行う義務である。さらに、2テモテ4:2で、パウロは命令している。

神の言葉を説教せよ

パウロは、「神の言葉を説教せよ」(ケルクソン トン ロゴン)という命令で始めている。その語源ケルッソは、神である王が天の裁判所から正式に宣言されたメッセージ、すなわち福音を告げることを意味する。聞け。王イエスからのメッセージを!これは朗報である。神の言葉である。謝罪ではない。この福音を告げる者は、すべての権限と信念を持って行う必要がある。宣言せよ!イエス・キリスト、偉大な神であり救い主は、罪を悔い改めてキリストを信じる罪びとを救われるのである。罪一つないキリストは、我々が行くべき地獄に行き、我々の罪の代わりに死んで、復活し我々を完全にそこから救い出してくださったのである。

聖書が言っているように、イエスは我々の罪のために死に、葬られ三日目に死人の中からよみがえらされた。復活後、使徒たちの前にご自身が生きていることを見せられた。いま、イエス・キリストは天において、全ての被造物を支配しておられる。そして、生きている者と死んだ者とを裁くために再び来られるのである。我々の為に苦しみを受け、喜びをもって我々を救われたイエスキリスト、最も高く清いイエス・キリストを褒めたたえるのである。

テモテは死に至るまでこの神の言葉を伝えた。福音を伝える奉仕に終わりはない。それは、我々にとって最も大切な奉仕である。天からの召命であり、最も高く聖なる召命である。喜んで、イエス・キリストの到来を告げよう。

いつも準備していよう

パウロは言う、「時が良くても、悪くても準備せよ」。我々は常に説教すべきである。それを常に準備しているべきである、(牧師解釈)ということだ。その福音を伝えるため、あらゆる機会を使え。この世界には、福音以外に希望がない。従って、我々は福音信仰を共有するために伝道する。

責める

次の命令は、「責める」ことである。我々は、教えや生活で誤りのある人たちを非難しなければならないのである。我々は神の権威によって、聖書を用いて彼らの思考に訴えていかなければならない。我々は、物乞いや自己弁護はしない。神はすべての人を、どこの場所でも悔い改めるように命令しておられる。キリストが命じられたすべてに従うことを教えるべきである。

叱責

人が間違った方向に行っているとき、我々はそれらを正すため、鋭くその人を叱責する必要がある。その人が我に返って自らを正すことができるように、本人の良心に訴え、その人を懲戒しなければならない。

勧める

最後に、パウロは言う、「勧めよ」。我々が聖書の言葉で、その者達の意志に訴えなければならないことを意味する。神の働きのすべてにおいて聖書は絶対に重要である。心理学や政治的なことを説く意味は全くない。我々は、永遠の命をもたらすキリストの支配、これに向うの狭い道を歩む人のために、聖書によって励ます必要がある。

背信が来る

パウロは、必ず背信が来るという観点でこれらのことに励むよう命令している。主イエスは、この配信のことを次のように言っておられる、「そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう」(マタイ24:10)。我々が人に福音を伝えると、大半の人は我々を嫌う。それは、聖書が教えるように、まさにイエス自身が言われた通りである。即ち、神に選ばれる者は少ない、ということに他ならない。

種まきの喩えで、二つ目と三つめの土地は1、神の言葉という種を拒否した。それは本当に健全な教えを拒否する人々のことを意味している。神の言葉にがまんができない、聞きたくないのである。そのような者は、本当に聞くべき神の言葉を語る牧師を追い出して、自分に都合の良いことを言ってくれる牧師を迎え入れる。我々は、そのような者たちに甘い話、聞こえの良いことを説教しない。この地に遣わされて41年目になる今年、神はこれからも、今後の百年に向けても、そのような者たちに聞こえの良いことを説教しない。

ほとんどの人は、古代アテネ人のように、何か新しい現代的なもの、すなわち新鮮な糞をもって、しばらくの間自分と家族を楽しませてくれるものを探している(使徒行伝17:21)。ほとんどのテレビ伝道師は、みんなお金持ちになれるとか、うまい話しを説く。これら嘘つき説教者は地獄に行く。そして、話を聞く者も連れていく。パウロはそのような者たちについて言っている、「彼らは常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することができない」(2テモテ3:7)。説教者に対して、「ほんとのことを説教するな!嘘をいってくれ!」と願っているのだと。

アハブとイゼベルには、嘘ばかりを言う400人のバアルの預言者がいた。アハブは言った、「ラモスギレアトと戦いたい。我らの預言者よ、私の戦略は正しいか?」予言者たちは言った、「正しい戦略だ。きっと勝利を得るであろう」。アハブは言った、「預言者たち、ありがとう。だが、主なる神の預言者ミカヤ。お前はどうだ?」。「私には、あなたが殺される様子が見えます」とミカヤは答えた。アハブは家来に言った、「私が勝利して帰ってくるまで、ミカヤを獄屋に入れておけ」。しかし、真の預言者ミカヤが予告した通り、アハブは殺された(1列王記22)。

昔の預言者も偽りの教師について語っている。イザヤは言った、「彼らはそむける民、偽りを言う子ら、主の教を聞こうとしない子らだ。彼らは先見者にむかって『見るな』と言い、預言者にむかっては『正しい事をわれわれに預言するな、耳に聞きよいことを語れ、迷わしごとを預言せよ。大路を去り、小路をはなれ、イスラエルの聖者について語り聞かすな』と言う」(イザヤ30:9–11)。予言者エレミヤも同じことを言った、「預言者は偽って預言し、祭司は自分の手によって治め、わが民はこのようにすることを愛している。しかしあなたがたはその終りにはどうするつもりか」(エレミヤ5:31)。

パウロは書いている、「不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである」(2テサロニケ2:9–12)。これらの人々は、自分が聞きたいことを求めて教会から教会へとさまよう。テレビでもそのような聞きたいことを話す説教者がいる。共に永遠の死に向かっているのである。命を与える福音から遠ざかり、空想にふけり、世界の嘘の根源である悪魔の嘘に聞き入ってしまうのである(ヨハネ8:42–44)。

2テモテ4:5

2テモテ4:5にあと4つ命令が書かれている。テモテ、そして真実の牧師、聖なるキリストの教会の聖徒たちは全て、神が語られることばに聞く。

「しらふ」でいる

パウロは、「酔っていないで、目を覚ましているように」つまり、「冷静であれ」と命令している。酒に酔ってはならない。聖霊に満たされよ。健全な精神を持つように命令している。神の言葉と聖霊に満たされる必要がある。そうすれば、我々は起こっているすべてを正しく判断することができる。聖霊にみたされた者は、すべてを判断できる。私たちはキリストの思いを持っているのである。神の言葉と聖霊に満たされている人は、何でも正しく判断できる。そのような人は、目を覚ましているのだ。言い換えれば、我々はすべての状況で警戒する必要がある。主イエスに思考を集中する必要がある。我々の生活するこの世界の上、つまり霊的な事柄を思考するように心がけるべきである。神の言葉は、我々の足もとを照らす明かりである。

試練に耐える

二つ目の命令は、「試練に耐えよ」である。キリスト者の生活は、常に健康でリッチだろうか?いや、パウロは我々が福音のために試練に耐えるよう命令している。本物の牧師は、試練に耐える。なぜなら、彼は福音に立脚しているからだ。2 しかし、神に感謝せよ。主イエスは言われた、「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)。健康、富、権力、名声の福音は聖書の福音ではない偽りである。

最初の殉教者ステパノやパウロ、そしてペテロ、中東における現代の殉教者たちを見てみよ。ローマ法王でさえ、キリスト者は聖霊に満たされて、殉教者として苦しまなければならない、と言っている。3

キリスト者は苦しむために召し出されたのである。主イエスは言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ16:24)。主イエスはまた教えて言われた、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」(ルカ14:26)。そしてまた言われた、「わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない」(ヨハネ10:28)。

伝道

三つ目の命令は、「伝道の仕事をせよ」である。我々は福音を恥じない。むしろ、我々は出会うすべての人々に福音を伝える必要がある。

与えられている働きを全うせよ

最後の命令は、「あなたの働きを完成せよ」である。言い換えると、あなたに任されている霊的働きを全うせよ、という意味である。「テモテ、私がしたように、自分に任されている霊的働きをやり遂げよ。そして、天の国で会おう」とパウロは言っているのである。

パウロは、自分に任された働きの終わりを知っていた。彼は書いている、「わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう」(2テモテ4:6–8)。

だから、マントがパウロからテモテに渡された。エリヤからエリシャに渡されたように、その任務は引き継がれた。主なる神に感謝すべきことに、パウロはその任務を果して言っている、「テモテよ、仕事を全うするまで忠実であれ」。そして主なる神が我々に言っておられる、「マシュー牧師、任務を全うせよ。他の皆も任務を全うせよ。全うしてから天の国に来たれ」。

そのマントは我々に渡された。エリヤからエリシャに渡されている神の聖霊の2つ分が、神からの真の牧師たちに与えられているのである。それは、神が呼び集められる者たちが福音によって救いをうけるためである。だから、死に至るまで忠実であれ。福音を伝えよ。主イエスが我々に命の冠を与えられる。主なる神のみが真実であり、すべての人間は偽りである、という福音を伝えよ。アーメン。

1 マタイ13, マルコ4, ルカ8章を参照。

2 例えば、2コリント11:23–27に記述されている、パウロが受けていた試練のことを考えてみよ。

3 2015年5月11日の説教を参照せよ(www.news.va/en/news/pope-even-today-christians-are-killed-in-the-name)。