この世界で星のように輝け

1 Peter 2:11-12
P. G. Mathew | Sunday, April 23, 2017
Copyright © 2017, P. G. Mathew
Language [English]

始めに

始めにペテロ2:11–12は、真の信仰者はこの世界に対して主なる神について証しとなる生活をする必要性を教える。福音を伝えること、そして福音を実際に生活において行うことを教える。本当にキリストに信頼する信仰を持っているなら、神の選びの民である。聖霊によって清められ神に従う生活をする。主イエスに従う。もしそうでないなら、主イエスに従わず、自分は神に仕えない、神から自由である、と考えているなら、今、その罪を悔い改めて主イエス・キリストを信じ救われるべきである。

我々はすべて生まれながらに不従順な者であった(エペソ2:2)。しかし、今や、新しく生まれ変わり、神の子とされ、主に従う本当の信仰者となったのである(ペテロ1:14)。我々は聖霊の宮となり、神に仕える清い者として選ばれた者とされた、とペテロは言っている。王や司祭、聖なる国家、神の所有する聖なる民となったのである。死とモラルの暗闇から、我々を呼びだしてくださった主なる神に、賛美と栄光を宣言する。主なる神が、霊的な死人の中から我々を引き上げ、命を与えて下さったのである(ペテロ2:9)。かつては、悪魔の支配下にある世界で生きていた。しかし、宣べ伝えられた福音を聞いて、栄光へと導かれたのである。

主イエスは世界の光である。主イエスにあって我々は、世の光となる。だからこそ、我々は、世の常に従うことを拒むのである。この世の中に生きているが、世の中にぞくしていないのである。ペテロは教えている、「従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず」と言っている。信仰を持たない者は、倫理的に無知の状態で生きている。信仰のない者とは対照的に、「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」続けている (1ペテロ1:14–16)。パウロも教えている、「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものであ。主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい」(エペソ5:8–10)。主が喜ばれることは何かを知り、それを行うべきである。

パウロはまた言っている、「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる」(ピリピ2:14–16)。我々はこの暗闇で星として輝く者である。神が召し出される人々が救われ、共に主なる神に栄光を帰すためである。

福音は我々を変える。パウロは言っている、「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」 (エペソ4:28)。同様に、酔っ払っていた者はしらふとなり、不誠実であった夫は妻に忠実になるのである。怠惰な者は勤勉に、自己中心の者はキリストを中心に、他者を尊重して生きる者と変えられるのである。しょう。主なる神が我々を選ばれたのは、このように我々が変化し、世界の星として輝くためである。

これについて、7つのポイントを1 Peter 2:11–12から学んでみよう。

愛する者達よ

ペテロはこの箇所で、「愛する者達よ」(11節)。ギリシャ語でアガペトイ「愛されている者」と書き始めている。我々は、父、子、聖霊である三位一体の主なる神によって永遠から愛されている。主なる神は、喜んで我々を永遠に愛しておられるのである。人生と死の中で愛されています。すべて人間の理解をはるかに超え得る果てしない神の愛を我々はいただいているのである。

我々は、天の父なる神によって唯一の御子であるキリストにあって、愛されているのである。そして、主なる神のみならず、使徒たちや神の家族のすべての真の信仰者によっても愛されている。主イエスは言われた、「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネ13:34–35)。

主なるキリストが我々の罪のために死なれたほどに愛されたのであるから、我々をお互いに愛さなければならない。パウロは次のようにたずねる、「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:35, 38–39)。だから、神の聖徒たちよ。命にあっても死にあっても決して恐れてはならない。

外国人であり寄留者

ペテロは我々が「この世にあっては、よそ者である」と言う(11節)。即ちこの世では、外国人であり、この世の市民ではない。この世の基準ではなく、聖書の基準、天国の基準によって生きている一時居住者である。パウロは言う、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(2テモテ3:16)。我々が信じる教理と生活は正しくなければならない。例えば、次の聖書の箇所を覚えているだろう、「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい」(エペソ5:25)。しかし、あなたは本当にこのように自分の妻を愛しているか?

我々はこの堕落した世の中を通り過ぎる巡礼者のようなものである。聖霊に満たされている我々は、キリストという君主の下で、聖なる道、まっすぐ狭い道を歩かなければならない。我々自身が神の聖なる教会として生きている。我々は、この世の市民権を持たない。我々の市民件は天の国にある。パウロは、信仰を持たない者について次のように言っている、「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる」(ピリピ3:19–20)。

本当のキリスト者であれば、我々は清い生活をするはずである。正しい神学は清い生活に我々を導く。パウロは言っている、「神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基づき、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み」(2テモテ1:9)。彼は自らを「神の僕、イエス・キリストの使徒」と呼び、こう言っている、「わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた者たちの信仰を強め、また、信心にかなう真理の知識(=神学)を彼らに得させるためであり、偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠のいのちの望みに基くのである」(テトス1:1–2)。教理と生活は分離できない。

我々の人生は一時的である。我々は、すぐに主なる神と天使と共に生きる者となる。聖なる教会である我々は、新しい天と新しい地である主の正義に生きる者となるのである。詩編90編が語るように、私たちはこの地に一時的生きている。それも約25,550日間である。体の丈夫な人なら、80年(約29,200日間)ぐらいは生きるであろう。その後は、主なる神と永遠に生きるのである。だから、このように書いてある、「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外(地獄を意味する)に出されている」(黙示録22:14–15)。

罪深い肉の欲を避けよ

そこでペテロは言っている、「たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい」(1ペテロ2:11)。使徒は、この箇所で、罪深い肉の欲を避けよ、と我々にアドバイスしている。

我々が死ぬまで罪は我々につきまとう(ローマ7:17)。 しかし、神の民は神から生まれているので、新しい性質、すなわち神の性質が与えられている。新しい心、新しい意志、新しい感情を与えられている。我々は、神の思いを考えることができ、神の意志が解り、主なる神がすべてのことを働かせて我々に永遠の益を与えられるということを知っており、それゆえ苦難にあっても喜ぶのである。このように、主なる神は我々を義の階段を昇っていくように導いておられる。

さらに、今我々の中に住んでおられる御聖霊の力によって、新しい力を与えられ、御聖霊は我々を教え、聖なる生活を送る力を与えられるのである。だから我々は世のならわしに合わせない。我々は、神の言葉に従う。苦しみを受けても、唯一の基準である主イエスに従うのである。ペテロは次のように書いている、「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである」(1ペテロ2:21, 24)。

ペテロは、我々の魂に戦いを挑んでくる肉の欲を捨てるようにと教えている。この戦いは、我々が主なる神によって再生した時から始まった。この戦いは、我々がこの肉体の死を迎える時まで続くであろう。聖霊が我々に内在され、主なる神の聖なる意志を行わせ、悪魔に抵抗する力を与えて下さる。それゆえ、我々が肉の欲を捨てるように聖霊が助けられるのである。我々は神に従うことによって悪魔に抵抗するのである。

聖霊と聖書で満たされているなら、我々は神の全ての武具を身に着けることになり、戦いを挑んでくる悪に主イエスの名によって打ち勝つのである。主イエスは、十字架の死によって我々の敵すべてを滅ぼされた。そして、敵に対して我々を圧倒的な勝利者として下さるのである。かつて我々は悪魔と罪の奴隷であったが、キリストにあって、義の奴隷とされた。我々は自由にされた!パウロは書いている、「しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである」(ローマ6:22)。

我々は遂に永遠の自由を与えられた。聖霊により主なる神に従う者とされたのである。次の聖書の箇所にあるように、我々の罪は滅ぼされたのである:

  • ローマ8:13–14: 「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。」
  • コロサイ3:5–10: 「だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。」
  • テトス2:11–14: 「すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。」
  • ヤコブ4:7: 「そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。」
  • ピリピ4:13: 「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」
  • コロサイ1:29: 「その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。」
  • 1ペテロ4:1–2: 「このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。」

この戦いは今も続いている。サムソンとダビデがどのように罪に陥ったかを考えてみよ。 聖霊の中にいるなら、あなたは神の力である聖書に支配されている。罪を滅ぼすのは霊の言葉である。主イエスは、常に「聖書に書かれている」と言って、悪魔に勝利された。ヨセフも、「どうして私はこの邪悪なことをし、神に対して罪を犯すことができようか?」と言って、罪に対して勝利したのである。

キリストにおいて、すべての信仰者は、罪に対して勝ち得て余りある生き方を実行することができるようにされている。キリストに頼ることをしなかった以前は、我々は、罪を犯さないということができなかった(ノンポセ ノンペッカーレ)(マシュー牧師解釈)。しかし今は、我々は罪を犯さないことができるようにされている(ポセ ノンペッカーレ)。 天の国では、我々はまったく罪を犯すことができなくされる(ノン ポセ ペッカーレ)。

清い行いによる清い生活

そこでペテロは言っている、「自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい」(1ペテロ2:12)。第4のポイントは、聖なる生き方をすることである。いくつかの節に「やり方」という言葉が出てくる。あなたは、この世でどのような生き方をしているだろうか? 世と歩調を合わせて生きているのか、それとも、この世にあっても星のように輝く生き方をしているか?我々は、誰しも親に逆らうことがあるし、そのような者であった。しかし、本当の意味において、キリストに従う者だけが、真に両親に従うことができるものである。次の聖書の箇所を考えてみよ:

  • 1ペテロ1:15: 「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。」ギリシャ語の原文では、「物事のやり方において清くあれ」という意味である。
  • 1ペテロ1:18: 「あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではない。」ここの「空疎な生活」とはギリシャ語で「腹黒いやりかた」という意味である。
  • 1ペテロ2:12: 「異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。」「立派な行い」とは良心的なやり方のことを意味する。
  • 1ペテロ2:15: 「善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。」
  • 1ペテロ3:16: 「しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じるであろう。ここで言っている「良い生活」とは、「良心的なやりかた」である。
  • ヤコブ3:13: 「あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい。」

良いやりかたとは、良き行いである。それは、主イエス・キリストに従うことである。パウロは、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」(エペソ2:10)、と書いて我々に教えている。パウロはまた言っている、「このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない」(テトス2:14)。主イエスご自身がこう言っておられる、「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう」(マタイ7:24)。我々は契約の主である神が言われることを聞いてそれを行わなければならない。

主なる神の道は清さへの道である。イザヤ書35章には次のように書いてある、

そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、愚かなる者はそこに迷い入ることはない。そこには、ししはおらず、飢えた獣も、その道にのぼることはなく、その所でこれに会うことはない。ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。(イザヤ書35:8–10)

どのようにしたら、清い生活ができるのであろうか? パウロは書いている、「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである」(2コリント9:8)。

我々は、この世から聖別されなければならない。邪悪な預言者バラムでさえ、聖霊の影響を受けて、イスラエルについては、「これはひとり離れて住む民、もろもろの国民のうちに並ぶものはない」と預言している。我々はこの世においては旅人であり、天の国に向かって進む巡礼者である。もしも今あなたが、キリストに信頼していない者であるなら、悔い改めて主イエス・キリストを信じ、我らと共に天の国への真直ぐな狭い道を旅するようになるよう祈る。

我々の救いの証明

我々が世から、罪から救われているということを、何が証明するであろうか?それは世からの迫害と中傷が証明するのである。不信者は常に真の信仰者の悪口を言うものである。彼らは信仰者を中傷し、ときには殺すことさえある。注意せよ。世があなたを賞賛するならば、それはあなたが罪の中に生きている不信仰者であることを意味するかもしれないのであえる。

主なる神の友となる者は世の敵であり、世の友となる者は主なる神の敵なのである。ヤコブ書にこのように書いてある、「不貞の輩(やから)よ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである」(ヤコブ4:4)。

本当のキリスト者は迫害を受ける。主イエスは言われた、「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(マタイ5:11–12)。 パウロは、「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受けると書いている」(2テモテ3:12)。実際、 パウロは神に従っていない教会即ちサタンの宮によって迫害を受けた。

初期のキリスト教徒は多くの迫害に耐えた。彼らが無神論者と呼ばれたのは、偶像を崇拝することを拒否したからであった。主の晩餐について、キリストの弟子たちは人の肉を食べたり、血を飲んだりしている、と告発されたりもした。 彼らは、彼らの妖精の饗宴を誤解した人たちによって近親相姦の罪で告発された。 彼らは家族を分裂させたとして非難されましたが、実際にイエスは家族を分裂させています。キリスト者が家族で仲良く食事を共にいているということをねたんで、近親相姦をしていると告発するこの世の者もいた(そういうこの世の者自身が近親相姦をしていたのであるが)。キリスト者は、家族に分裂を起こすやからである、と告発する者もいた。実際は、キリストに従うために、家族とは足並みをそろえる訳にはいかないキリストの弟子がいたからである。主イエスは言っておられる、「あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」(ルカ12:51-53)。主イエス・キリストはこのような分裂を確かにもたらされたのであるが、(主に従う者とそうでない者を分けて)主なる神ご自身が次のように言っておられることを思い起こさなければならない、「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」(ローマ9:13)。

「ドミヌス・デウス・ノーステル(我々の唯一の主であるのは我らの神)」と言って、カエサルを崇拝することを拒否したので、キリスト者は訴えられた。偶像を売って生活していた者が、徐々に儲からなくなったため、商売を邪魔する者としてキリスト教徒を非難した(使徒19:26-27)。最後に、キリスト者は異教の不道徳と生活習慣に従わなかったので、皆から嫌悪された。ペテロは書いている、「今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている」(1ペテロ4:4)。 しかし、そもそも迫害されたのは彼らだけではなく、主イエスご自身が、罪人、貪欲、大酒飲み、サマリア人、悪霊つきい、などと呼ばれて避難されたのである。そして、今日も、不信心者だけでなく、信仰者と自称しつつも実際には悪魔の子供たちである偽信仰者から、大きな非難が浴びせられている。真のキリスト者が福音を伝え、聖なる生活を送るため、これに対する非難を浴びせるのである。しかし、それでも我々はこの暗闇の世界に輝く星として輝くのである。

良い種を蒔く

ぺテロは我々に言っている、「異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう」(1ペテロ2:12)。神に選ばれている者さえもが、この世の者と結託して、我々を嘲笑うかもしれない。しかし、彼らはイエスを見ている十字架上の泥棒のように、我々を観察しているのかもしれない。イエスと一緒に十字架につけられた二人の泥棒がいたが、一人だけが天の国に召し上げられた。このように記録されている、「十字架にかけられた犯罪人のひとりが、『あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ』と、イエスに悪口を言いつづけた。もうひとりは、それをたしなめて言った、『おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互いは自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。そして言った、『イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください』。イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』」。(ルカ23:39–43)。

我々が世に輝く星として召されている理由は、神によって選ばれた罪人が、キリストを主と告白して救われるようになるためである。世は我々が間違っていると非難するかもしれない。しかし、しばらくの間、我々の良い行動を観察した後では、もはや避難することをやめるであろう。逆に、彼らが言っていることが誤りで、実際には、我々が主なる神にあってより優れた生活を送っているとやがて悟ることになるであろう。

神の民は、主イエスの看板となって、我々の周りの人に主イエスを宣伝すべきである。だから、主なる神は、世の中から救うべき者を選ばれ、クリスチャンの夫は避けに酔う者ではなく、性的に不道徳な人でもなく、泥棒でも、怠け者でもないことを悟らせられるのである。また、キリスト者は懸命に働いて、家族を養い、妻を愛し、妻は喜んでその夫に仕える。子供たちは彼を尊敬し、また彼に従う。キリスト者の言葉は信頼できるのである。「誓った事は自分の損害になっても変えることはない」(詩篇15:4)。貧しく苦しんでいる者を、キリスト者は助け、また忠実に主イエス・キリストを礼拝する。彼は、聖書を生きる人であり、聖書の知識は彼の人生を変えているのである。

主イエスは、我々がこの世に星のように輝くことの重要性を教えて言っておられる、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)。これらの選ばれた罪人たちが、我々キリスト者を観察するにつれ、彼らはキリストにつながる者となっていき、神の聖なる教会に加わる。

我々は、この世において星のように輝くべきである。主イエスは言われた、「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネ13:34–35)。パウロは次のように書いている、「これらの事を命じ、また教えなさい。あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい」(1テモテ4:11–12)。

主なる神は、ある人を罪人の中から選び、その人をキリスト者とされる

神によって選ばれた者は、福音を聞き、また我々の良き業を見たらどうなるのであろうか?「異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう」(1ペテロ2:12). 神が選ばれた罪人は、教会に来たとき、あるいは我々の言葉を聞くときに、福音に接する。主なる神はキリストの福音を伝える人によって、ご自身の方へとその者達を導かれるのである。主なる神は、現在も、そのような者達を救いに導いて、結果、彼ら自身も生活と言葉をもって、神に栄光を帰する人

神は、ペテロを通して、福音宣教により、コーネリウスとその家族を訪問された。どうなったが?「ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。それは、彼らが異言を語って神をさんびしているのを聞いたからである」(使徒言行録10:44–46)。

神は、選びの民にご自身の僕を送ることによって訪問される。パウロはこう書いている、「しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は』と書いてあるとおりである」(Rom. 10:14–15)。彼はまた言っている、「わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ」(ローマ15:18)。我々はキリストによって送られた者に耳を傾けるべきである。

適用の問い

  1. あなたはクリスチャンとしての生活と証しによってこの世で星のように輝いていますか? あなたは、この世に溶け込んでいるか、それともこの世と足並みをそろえずに歩んでいますか?
  2. 人々は、あなたの信仰のために悪口を言ってあなたを迫害していますか? もしそうなら、あなたは主イエスの本当の信仰者であり、主イエスが語られた通りの者である、「それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(マタイ16:24–25)。
  3. あなたの敬虔な生活を見て、誰かイエス・キリストを告白する者になりましたか? あなたはこれまで、何を建て上げようとしてきましたか?あなたの証によって、あなたの人生を見て、だれかがキリストを告白するように導かれましたか?
  4. そうでないなら、おそらくあなたは、自分自身を調べる必要がある。あなたの罪のために死に渡され、あなたが義とされるために復活された主イエス・キリストのみを信頼していますか?もしそうでなければ、私は、今日あなたがそうして救われることを強く勧めます。