聖なる神の教会にいるシロアリのような人々
Titus 1:10-16P. G. Mathew | Sunday, March 01, 2015
Copyright © 2015, P. G. Mathew
Language [English]
テトス 1:10-16
この世の中に存在する教会は完璧ではない。教会には三種類の人々がいる。まず、神から生まれており、神を畏れて生活している人、第二に、神から生まれているが、一時的に神に逆らって生活している人。第三に、神から生まれていない、新生していないので、クリスチャンのふりをしているだけで、神の目には罪ある生き方をしている人である。
牧会書簡であるテモテ1章と2章、そしてテトスには、よき行いについて強調されている。信仰は清さを生み、神を畏れるよう人を導いていく。もしそうでないなら、あなたは教会にいるシロアリのような人である。
パウロはクレタ島の教会の未解決の問題を正すようテトスに命じた。パウロは、福音をしっかり信じて教えることのできる牧師や長老をすべての教会で任命していた。牧師や長老に任命された男たちは、福音に反対する者を全て論破したのである。今日のほとんどの牧師はこの任務を全うできていない。これらの牧師は、しっかりと聖書を学んでおらず、生活に聖書が反映されていない。即ち、正しく聖書を解釈する能力がない。
使徒時代の教会は非常に神聖だったとある人は誤解している。新約聖書を見ると神聖ではなかったとわかる。テトス1:10-16は、初代教会にシロアリのような人々がいたと記録している。教会の指導者は、これらシロアリのような人々に対処しなければならなかった。テトスも、パウロも対処できる指導者を任命した。まず、神の聖なる教会にいたシロアリのような人とはどのような人なのかを見てみよう。
シロアリのような人の習性
1.反抗的
まず、ここで言うシロアリのような人は反抗的である。ギリシャ語、アノポタクトイ(10節)で表現されている。新約聖書の教会では、多くの人が反抗的な手に負えない人間、神に従わず自分の考えに従う者であった。彼らは、主イエス・キリストと牧師に素直に従わない者であった。
神の言葉を正しく教える牧師は、神によって召命を受けている牧師である。キリストご自身から権威を授かっており、キリストの名によって忠実に神の言葉を説教するのである。
教会にシロアリのような人がいるのは、今にはじまったことではない。新約聖書を通して、そのような人たちについての記録がある。ヨハネは書いている、「彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである」(1ヨハネ2:19)。
新約聖書の別の箇所には次のように書かれている、
「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込で、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。しかし、いばらやあざみを生えさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう」(へブル6:4–8)。
また、次のようにも書かれている、「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のための犠牲は、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、2~3人の証言に基づいて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。 『復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と言われ、また『主はその民をさばかれる』と言われたかたを、わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである」(へブル10:26–31)。
「この人々は、いわば、水のない井戸、突風に吹きはらわれる霧であって、彼らには暗やみが用意されている。彼らはむなしい誇りを語り、迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し、この人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。ことわざに、『犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、泥の中にころがって行く』とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである」(2ペテロ2:17–22)。
シロアリのような人は、キリストに仕えない。彼らは悪魔に仕える。彼らは自律的に行動している、とある人は言う。しかしそうではなく、悪魔に制御されているのだ。聖霊によって制御されている人は数少ない。パウロは言っている、「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」(ローマ8:14). ほとんどの人々は、悪魔に導かれているのである。ヨハネは次のように宣言している、「また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている」(1ヨハネ5:19)。
この世界に、真の自律性というものは存在しない。聖書によれば、人々は、主イエスに仕えるか、悪魔に仕えるかのどちらかである。教会の中でさえ、全ての主権者である主に対する反抗心を持つ人が多くいる。詩篇2では、時が来ると、神自らが反抗の民を鉄の笏で陶器のように怒りをもって粉々にされるとある。
反抗という言葉は、テトス1:6ではアヌポタクトイという語がつかわれている。牧師の子らは反抗的でなく、従順で信仰深くなければならない。反抗的な者は、神の権威を軽蔑する。ユダの手紙8節は、「しかし、これと同じように、これらの人々は、夢に迷わされて肉を汚し、権威ある者たちを軽んじ、栄光ある者たちをそしっている」と言っている。ペテロも、「特に、汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩み、また、権威ある者を軽んじる人々を罰して、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存じなのである。こういう人々は、大胆不敵なわがまま者であって、栄光ある者たちをそしってはばかるところがない」と言っている(2 Pet. 2:10)。1サムエル記15:23は、「そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」と教えている。パウロは次のように教えている、「あなたは、権威をもってこれらのことを語り、勧め、また責めなさい。だれにも軽んじられてはならない」(テトス2:15)
2. 空論に走る
「空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり」 (テトス1:10)とパウロが言うように、シロアリの様な者の第二の特徴は、マタイオロゴイという言葉で表現されている「空論に走る者」である。これらのシロアリは、今日の政治家や説教師のように喋り好きで、言葉数が多く自らを飾るが内容がない。その口は破壊の熱風を吐き出し、馬鹿者の話と怒りをまき散らすだけで、そこには何の意味もない。それには、福音も救いも贖いもなく、歴史上のイエス・キリストをも認めない。これらのシロアリは、彼に聞く者が、裕福で健康で有名になればそれでよいと考えている。彼らは聖霊の賜物を持っているふりをしているが、実際には悪魔の賜物しか持っていない。にもかかわらず、人々に預言して何をすべきか指図する。彼らは聖霊ではなく、実際は悪霊によって話しているのである。
このようなシロアリは、欺瞞とずるいやり方で、多くの人生を破壊していく。その口からほとばしる言葉は、聞く者をいい気分にさせ、やがてポケットを空にするのである。羊を殺して食べる羊飼いである(エゼキエル34章)。彼らは恵みの福音を持たず、ただ聞く者を言い気分にさせるだけである。彼らは、「イエスを信じて、罪をいくら犯しても大丈夫、それでも天の国にいける」と教える。このように、性根が曲がっており、本当はうるさく、お金を神として崇拝し、他人からお金を奪い取る詐欺師、精神病のやぶ医者なのである。
3.だまし
次に、パウロは彼らを「詐欺師」と呼ぶ(10節)。シロアリ達の言葉は、すべて人を欺くためである。彼らは悪魔の子らなのである。パウロは言っている、「御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善の仕業である」(1テモテ4:1–2). このようなシロアリの姿は、今日のテレビ伝道者や真の福音を伝えることを拒否した曲がった福音派に見られる。
4.霊的クレテ風
そしてパウロは言っている、『クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼう』と言っているが、この非難はあたっている」(テトス1:12–13)。シロアリは、霊的にクレタ人であるとたとえている。紀元前6世紀、クレタ島の詩人クノッソスのエピメニデスは、自らの種族のことを「いつも嘘つきである」と述べている。後に、詩人キケロは、「共和国」の中で言っている、「クレタ人は、路上強盗を名誉な行いと思うような人間である」。そのような者についてヨハネは書いている、「しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受けるべき報いである。これが第二の死である」(黙示録21:8)。
パウロは、エピメニデスに同意し、クレタ人はいつも嘘つきという表現を用いている。これは、世界中のほとんどの教会の実態を言い表しており、霊的クレタ風の生き方に対して警告しているのである、「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」(ピリピ3:19)。これらの者達は、快楽を愛し、神を愛していない。快楽を追い求め、自分の欲に仕え、吐き出すまで欲を食い続けるのである。
このような怠け者の貪欲シロアリは、福音に注意を払っていないナイーブなキリスト者からお金をまきあげる。彼らは根本的には快楽主義者で、欲望に満ちている。彼らは、即ち楽をして生きることを目指しているのである。それは今日の多くの人間が歩んでいる人生観そのものであり、これがすなわち霊的クレタ風の生き方である。快楽主義、お金集め、その他もろもろのことであるが、これらは教会やキリスト者の家族を破壊する。そのうちのあるものは、時折刑務所行きになるかもしれないが、出所してまた同じ金満・快楽の生き方に戻るのである。
パウロは言っている、「わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである」(2コリント2:17)。このように、当時も数多くの説教者と呼ばれる者が、我欲のために福音をネタに人を惑わしていたことがわかる。今日でも、神の言葉そのままを説教しないで、牧師職を単なる職業にしている者がたくさんいるのである。
ユダもそのような牧師をこう言っている、「彼らはわざわいである。彼らはカインの道を行き、利のためにバラムの惑わしに迷い入り、コラのような反逆をして滅んでしまうのである」(ユダ11章). バラムは彼が義人の一人として死ぬことを祈ったが、そうならなかった。彼はそもそも義人ではなかったからだ。(ヨシュア記13:22). ペテロは書いている、「彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛した」(2ペテロ2:15)。
パウロは他の箇所で次のように書いている、
「もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教えに同意しないような者があれば、彼は高慢であって、何も知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから、ねたみ、争い、そしり、猜疑心が生じ、また知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、はてしないいがみ合いが起るのである。しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで満足すべきである。富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅ぼし破壊し沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲張って金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした」(1テモテ6:3–10)。
ウェストミンスター神学校のジェイ・アダムズ教授が言うように、「金儲け主義の霊的悪徳弁護士によって多くの人生が台無しにされている」のである。1
5.ガン
パウロは、「実は、法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり、とくに、割礼のある者の中に多い」と書いている(10節)。シロアリの教えはガンである。それは人間を台無しにする。シロアリの教えは、即ち、心理学、社会学、科学、フィクション、ユダヤ教とキリスト教の神話、宗教多元主義、エンターテイメントである。彼らは十字架につけられたイエス・キリストの福音以外のすべてを教える。
他の箇所でもパウロは次のように書いている、「俗悪なむだ話を避けなさい。それによって人々は、ますます不信心に落ちていき、彼らの言葉は、ガンのように腐れひろがるであろう。その中にはヒメナオとピレトとがいる。彼らは真理からはずれ、復活はすでに済んでしまったと言い、そして、ある人々の信仰をくつがえしている。しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。『主は自分の者たちを知る』。また『主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ』」(2テモテ2:16–19)。
パウロはまた警告する、「あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えにもとづくものにすぎない」(コロサイ2:8)。ある教会は、人々を陥れている。しかし、神の言葉の釈義と説明を行う教会は、説教が恵みの主な手段であるため聖なる教会である。
このようにも書いている、
「これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。 あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、 キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである。 もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のある仕業らしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない(コロサイ2:16–23)。
だからパウロはこのように言う、「御言を伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、聞こえのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう」(2テモテ4:2–4)。しかし、誰かが私たちの罪を指摘して悔い改めるように勧めた場合、聞きたくなくてもそれに耳を傾ける必要がある。
シロアリの教えは聖書に反しており、それは悪魔的である。反聖書の教え、即ちゴミを教えるのだ。聖なる教会にあるような罪からの自由はない。我々は、神の言葉だけを教える必要がある。三位一体の神からの真の福音を拒否した人間、その人間の神話や戒めから学ぶべきものはない。「あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである」(ローマ3:4)。
6.清くない
パウロは説明する、「きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている」(15節)。霊的なシロアリは清くない。彼らの知性、意志、感情は完全に堕落しており、神と神の被造物を誤解しており、常に罪を犯すことを選択する。彼らの感情は常に誤作動をくりかえしている
これは聖書全体にわたって見られる人間の完全な堕落の教えである。創世記には次のように書いてある、「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた」(創世記6:5)。エレミヤは書いている、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか」(エレミヤ書17:9)。それを誰一人知る者はいないが、神は知っておられる。イエスは言われた、「すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」(マルコ7:21–23)。
人々の知性と良心は永久に汚れているのである。ギリシャ語、メミアメノイスは完了形での時制になっており、人々は、過去も現在もけがれており、これからもずっとけがれ続ける、という意味である。
全ての人間は、汚い心と汚れた良心を通してすべてを判断する。彼らは、善を悪、悪を善と見る。彼らは心の中で「神は存在しない」と言っている愚か者である。それは、彼らが神を信じることを拒否するからである。即ち、彼らは汚れているのである。神の言葉とイエス・キリストの血しか、その良心を清めることができないのである。
使徒行伝15:9で、ペテロは異邦人のことについて、「主なる神は、我々ユダヤ人と異邦人を分けへだてされることはなかった。彼ら異邦人を信仰によって彼らの知性が清められる」と言っている。 これはキリストの血によって清められるという福音に対する信仰によって、という意味である。他の箇所で、ペテロは「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい」と教えている(1ペテロ1:22)。真理は我々を清める。イエスは言われた、「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」(ヨハネ15:3)。パウロも書いている、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである」(1テモテ 1:5)。パウロはこのテトス書簡をこのように書き始めた、「神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから、わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた者たちの信仰を強め、また、信心にかなう真理の知識を彼らに得させるためである」(テトス1:1)。
自分の人生を調べてみよ。神の前に罪深い生き方を続けているなら、あなたはクリスチャンではない。パウロは書いている、「すべての人を救う神の恵みが現れた。 2:12そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活しなさい」(テトス2:11–12)。
7.正しい信仰告白内容、しかし矛盾した生き方
パウロは言う、「彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である」(16節)。これらのシロアリは、真の神について正しく説明できる(Pastor Mathewの解釈)。彼らは公にイエスを主と告白し、すべての使徒の教義に同意する。正式に洗礼を受け、地上の目に見えるキリスト教会のメンバーとなっている。定期的にすべての礼拝に出席し、聖餐式に参加する。しかし、彼らはシロアリであって、聖霊から生まれておらず、不信仰に「ノー」と言う生き方はでいない。
シロアリは、正しい教義を告白するが、彼らの行いは真の神を否定する。彼らは表面的に信じているようであっても、神の目には昔と変わらない罪ある生活を送る。パウロは、キリストから離れた古い生き方について語っている、わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた」(テトス3:3)。
しかし、聖霊は、すべての信仰者の生活を根本的に変えられる。私たちは神を嫌うことから、神とすべての彼の子供を愛することへ、死んでいる状態から生きている状態へ、闇から光へ変えられる。パウロはこのように書いている、「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである。主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である」(エペソ5:8–12)。
このようにも言っている、「それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである」(1コリント6:9–11)。
彼はまた言っている、「神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。『主は自分の者たちを知る。』また『主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ』。(2テモテ2:19)。ヨハネは、「『彼の内にいる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」と書いている(1ヨハネ2:6)。またこのように言っている、「『彼イエス・キリストを知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」(1ヨハネ2:4)。
イエスは言われた、「このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。(マタイ7:20–23)。パウロは、そのような者は「信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい」と教えている (2テモテ3:5)。そしてエゼキエル書33:31では、主が預言者に言われた、「彼らは民が来るようにあなたの所に来、わたしの民のようにあなたの前に座して、あなたの言葉を聞く。しかし彼らはそれを行わない。彼等は口先では多くの愛を現すが、その心は利におもむいている」。
8. 忌むべき、反抗的な、堕落した者
パウロは言っている、「彼らは忌むべきものであり、反抗的で、堕落していて、すべてのよき業を行うことに対して不適合者である」(16節)。
- これらのシロアリは(文字通り、デルクトイ、排泄物を意味し)忌むべきものである。これは聖霊が使用しておられる言葉である。彼らは嫌な人々である。彼らは世の光と呼ばれておらず、その心は清くない。義とされておらず、聖別されていない。神の子とされていない。シロアリは、彼らはこの世で希望もなく神もない。彼らは永遠の地獄に向かう途上で、悪魔の子である。
- 彼らは神、神の言葉、そして神の牧者に対して不従順(アペイセイス)である。
- 彼らは良い行いをすることができない、堕落(アドキモイ)している。神から生まれた者は、良い行いをする。シロアリは、神から生まれていないので、神を喜ばせるために何か良い行いをすることができない。
パウロは次のように言っている、「そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている」(ローマ1:28–32)。
シロアリのような人への奉仕
我々は、シロアリにどう対処するべきか。教会にいるけれども、腐敗しており、福音を拒否している者達に対してである。牧師は、彼らが健全な信仰に導かれるために、対処する責任が与えられている。
パウロは書いている、「彼らの口を封ずべきである。彼らをきびしく責めて、その信仰を健全なものにしなさい」(11, 13節)。牧師は、神の権威を軽蔑する者達の反抗の口を封じるべきである。キリストによって召命を受け、委託されている真の牧師は、神の言葉を説教する時、キリストの名の下で神の言葉を説き、キリストの権威によって語るのである。神の民はその神の言葉を聞き、これを行って救われ、祝福される。クリスチャンの両親が語る時も、キリストの権威をもって語る。すると、彼らの子供たちは、それに従うのである。
聖霊と神の言葉で満たされている牧師は、教会に反抗的なシロアリ達を黙らせることができる。キリストとその業の客観的な福音に反対する人間の考え、その口を封じることができるのである。次の3つの方法で、シロアリどもの破壊的な行いを停止して殺虫効果を示すことが肝要である。
1.福音を説教する
まず、純粋な福音を伝えることで教会のシロアリに対処しなければならない。神の言葉に基づく議論を展開すべきである。聖書全体を通して講解説教をしなければならない。神の恵みは、説教される神の言葉から生じる。聖書を説教しない教会は、サタンの集会である。その教会はあなたを地獄に送る。教会は真理の柱であり基礎であるべきである(1テモテ3:15)。
このような誤りの発生源を黙らせるため、牧師は真実を説く必要がある。闇を払拭するために、神の言葉の光を当て、その間違いを正す必要がある。真実を説教することは、旧約聖書で約束され新約聖書で成就したキリストを説教することである。
なぜ我々はキリストを説くのか?罪人を救うことができるのは、イエスだけだからだ。恵みの福音のみが、人々を不信仰から救い、神を畏れる生活に導くことができる。ほかの何もこれを行うことはできない。ゆえに、牧師は思いやりをもって、力強く、直接的に、明確に福音を伝えなければならない。福音はイエスを信じるすべての人を救いに導く神の力である。すべての誤りに反対してそれを正し、聞く人が福音を生きることができるように訓練しなければならない。
2.誤りの輩に警告する
第二に、自分の間違いを悔い改めるように、シロアリのような者達に警告をすべきである。彼らが福音信仰の生活に戻ることができるようにするためである。このために牧師は、恐れることなく、明確に、直接的に、強力に福音を説教しなければならない。牧師がこれを行わない場合、人々に愛を示しているとはいえない。そのような牧師は、実は牧会の責任の対象である神民に対して無関心であるばかりか、単に収入のための仕事をしているに過ぎない。
牧師は神の言葉を説教し、人々に警告し、教え、間違いをおかしている者には反対しなければならないのである。前記述で、パウロは教会の長老を一定の基準で選出するようにテトスに指導した。長老または牧師は、「教えにかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。それは、彼が(使徒の)健全な教によって人をさとし、また、反対者の誤りを指摘することができるためである」(テトス1:9)。
牧師の仕事は確かに困難である。彼は複数の博士号をインテリや億万長者に対しても同様に説教しなければならないし、その権限が与えられている。神がその権限を与えているのである。真の牧師は正に神の言葉を委託されており、相手の身分にかかわらず真実を宣言しなければならない。パウロは書いている、「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」(2テモテ4:2)。牧師はキリストから与えられた権威をもって語らなければならないのである。
だからパウロは「鋭く間違いを正せ」と奨める。イエスご自身が言われた、「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい」(黙示録3:19)。もしも間違いを正されない、訓練されないならば、我々は私生児として扱われているのである(へブル12章)。牧師が我々を正し、我々の父親が我々を正すのは、我々を愛するゆえである。我々はそれに気づいて、神の目に正しいことを行うことができるように、牧師は我々を正すのである。
詩篇の作者は言っている、「正しい者にいつくしみをもってわたしを打たせ、わたしを責めさせてください。しかし悪しき者の油をわがこうべにそそがせないでください」(詩篇 141:5)。従って、言い換えれば、間違いを正すために責めることは祝福である。牧師であれ、両親であれ、他の誰であれ、我々を愛のゆえに叱責すること、これを理解して喜べるように。それは正に頭上に注がれる祝福の香油のようなものなのである。
3. 悪しき者を追放する (訓練を与える)
牧師の取るべき最終的な手段は、ほとんどの教会では行われていない。それは、教会の第3の印である。第1は神の言葉、第2は、聖霊典を与えること、そして第3が追放することである。彼らが、説教、警告、非難を聞いても、依然その生き方を変えない場合、教会は彼らを教会から追放するし、サタンに引き渡すしかない。サタンは彼らの体を破壊するかもしれない(1コリント5:4–5)。
パウロは、教会の中で、このような規律の行使について多くを語っている。その後、この手紙で彼は言っている、「しかし、愚かな議論と、系図と、争いと、律法についての論争とを、避けなさい。それらは無益かつ空虚なことである。異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい。たしかに、こういう人たちは、邪道に陥り、自ら悪と知りつつも、罪を犯しているからである」(テトス3:9–11)。
他の箇所で、パウロは、「信仰と正しい良心」を保つようにとテモテを励ましている。そして、次のように付け加えた、「ある人々は、正しい良心を捨てたため、信仰の破船に会った。その中に、ヒメナオとアレキサンデルとがいる。わたしは、神を汚さないことを学ばせるため、このふたりをサタンの手に渡したのである」(1テモテ1:19–20)。他の箇所でも次のように奨めている、「さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである」(ローマ16:17–18)。
ガラテヤの人々に対してもパウロは書いている、「しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言う。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである」(ガラテヤ1:8–9)。忌み嫌われる、非難される、または呪われる、という言葉アナテマというアラム語がつかわれている。
結論
これは神の真の神の民対する私の助言である。最初に私は、まず健全な教会のメンバーになることを勧める。健全な教会とは、熱心に信仰を守って、よく訓練された牧師が、混じりけのない福音を説教し、すべての誤りに反対する教会である。
ローマ人への手紙、それは非常に必要な神学の書となる手紙である。これを書いたパウロのことを考えてみよう。このような神学なければ、我々は、ナイーブでだまされやすいままである。感情的、情熱的であるかもしれないが、福音を理解していないことになる。パウロは使徒行伝26章で言っている、「まず初めにダマスコにいる人々に、それからエルサレムにいる人々、さらにユダヤ全土、ならびに異邦人たちに、悔い改めて神に立ち帰り、悔改めにふさわしいわざを行うようにと、説き勧めました」(使徒行伝26:20)。
クリスチャンと自称しても、もし生き方に証拠がない場合、それは何も意味しない。そのような人々がキリストを知っていると公言しても、その行為が彼らを否定するのである(テトス1:16)。彼らは、忌み嫌うべき者、不従順な者、すべての良い行いにおいては不適合で、堕落している。敬虔な生き方というのはとても重要である。我々が福音を信じるならば、それは神の意志を実行するように我々を導いていくはずである。
もしも、ある教会が福音を伝えていない場合、それはサタンの集会である。牧師は病気に侵されており、その病気は伝染する。彼は、健全な教えを説教しないので、全会衆が病気になるのである(1テモテを6:3-5)。そのような教会からは離れよ!
牧師が、もしも自分のためにお金を稼ぐことだけに興味を持っている悪徳弁護士であれば、その教会は、神の聖なる教会ではない。その教会から離れよ!あなたの家から少々離れていても、敬虔でよく訓練されている牧師のいる教会を探せ。これによって、あなたは自らの魂を救い、神の言葉に聞いて従うようになる。がそうであるようにそうすることで、保存します。
イエスは言われた、「心の清い者は幸いである、彼らは神を見るようになるからだ」。 イエスは、忌むべき、反抗的な、堕落した者に対して言っておられない。へブル12:14は言っている、「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」。これは、ペテロが、「この救については、あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べた」(2ペテロ1:10)。
一つだけの事が必要である。私たちは救われるために何をしなければならないか?主イエス・キリストを信じなさい、そうすればあなたは救われる。
1.Jay Adams, The Christian Counselor’s Commentary: 1 Timothy, 2 Timothy, Titus(Hackettstown, NJ: Timeless Texts, 1994), 102.
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