神の国の子とされるということ-1
P. G. Mathew | Saturday, April 29, 1995Copyright © 1995, P. G. Mathew
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今日は、我々キリスト者は主なる神の養子とされている、という聖書の教えについて考えたい。妊娠中絶支持者が次のような文句を言っているのを聞いたことがある。それは、「中絶反対者は、思いやりがないので子供達を養子にしたくないから、中絶するしかしょうがないのだ」という文句である。勿論、これは嘘である。この教会でも、養子を持つ方々がいるが、その子供達に素晴らしい未来を与えており、愛情を注いで、健全な生活ができるチャンスを与えている。
さて、旧約聖書のユダヤ文化では、養子を持つことは一般的ではなかった。それは なぜか?彼らには、この問題に対処する別の方法があったからだ。その 一つはレビラト婚と呼ばれていた方法だ。兄弟が子供なしに亡くなった場合、彼の兄又は弟がその未亡人と結婚し、兄弟のために子供をもうけることだ。もう一つは、一夫多妻だ。第1サムエル記には、エルカナが、最初の妻ハンナに子ができないという理由で別の女性と結婚したことが記されている。三番目の方法は時々行われるが、正当な理由のない単なる離婚だ。だから、一般的に言うとレビラト婚、一夫多妻、離婚、これら三つが、旧約聖書時代のユダヤ文化の中で、まかり通っていた解決法であった。
さて、ローマとギリシャの文化では、養子は広く実施されていた。通常は、若い男性が養子の対象であって、女性ではなかった。養子である青年は、彼の前の家から法的に除外され、新しい父親との親子関係に置かれた。頻繁には行われなかったが、かつてローマの家庭では父親が実権を持っており、これを維持するために、自分の家族さえ殺すこともあったほどである。だから、養子を指すギリシャ語フイオセイアは、フイオスが息子を意味し、セイアは配置を意味する。それは息子同様に養子を受け入れることを意味した。結果、養子に借金があれば、帳消しにされるだけではなく、新しい父親の下で新しい権利と義務を得て生活できるようになっていた。
養子縁組は、今日でも法的な行為である。養子は、以前は子としての権利を一切持っていなかったにもかかわらず、新しい家族の一員としての全ての権利を付与される。本質的に、養子縁組は新しい人間関係の付与に他ならない。
そもそも、愛に基づいて行われないなら、誰も養子を受け入れないはずだ。父は養子を愛し、養子は、以前の人間関係から法的に全く断たれてこそ、新しい親子関係が成立する。現代でもこれは同じである。養子の両親は、彼の生みの親がもはや何も主張しないよう、肉親との法的人間関係が断たれる、ということを確認する必要があるのだ。
我々は、霊的な意味で神の家族に養子縁組されるという、この聖書に示された教義に興味を持つ。以前、救いの道筋について学んだが、それは再生、悔い改め、信仰、罪の赦し、義認という一連のことだ。この救いの道筋は、すべて同時に起こるとしても、我々が神の国の養子となる前に起こることがらである。しかし、論理的に言うと、我々個々人は、それより前に、まず神によって呼び出され、再生されなければならない。あなたは、自らの罪を悔い改め、主イエス・キリストを信じて、信仰によって神によって義とされている必要がある。これらすべての筋道は、我々が神の国の子とされるという祝福の前提条件である。
ジョン・マレー師は、「神による我々のための養子縁組は、贖いの祝福の頂点である」と言っている。つまり、あなたが体験できる可能な限り最高の祝福である。この点は、パウロがエペソ1:5に記しているように、「わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」。神が永遠の昔から我々を無条件に選んで、神の前に清く責められることのないようにしてくださる、とパウロは教えている。イエス・キリストを通して、愛によって我々を神の国の子としてくださることで、神に祝福される者と定めて下さる特別の祝福である。
霊的再生は、創造者であり審判者であられる神の働きによる。我々の中に新しい命と性質が創造され、義とされる。同時に、子とされるということは、その創造者である神が、我々の父親になることを意味する。これは、心に留めておくべき非常に重要なポイントである。霊的再生は、神の国に我々を導くことである。霊的に再生されなければ、イエス・キリストがヨハネ3章で言われたように、誰も神の国に入ることはない。また、子とされるということは、我々が神の家族の中に入ることを意味する。
子とされることについての教えについて、聖書はどのように教えているかを見てみよう。すでに学んだように、それは神が我々の父となられるという養子縁組の関係だ。ヨハネ1:12-13は言う、「イエス・キリストを受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる権利を与えたのである」。権利とはエクソウシアと言って、神の子となる権利を意味する。それは自然の血筋によって生まれることではない。これは、人間の意思決定や、子供と認める夫の意志とは関係なく、神から生まれることを意味する。以前学んだ霊的再生のところを振り返って、そこで使用されている聖書の言葉を思い出していただきたい。13節にあるように、養子縁組の祝福には、前提条件として霊的再生が起こっている。それは、我々の神学によれば、キリストを受けいれる(キリストの名を信じる)ことを意味する。主なる神が再び霊的に生まれさせなければ、人は自分の罪を悔い改めて、主イエス・キリストを信じるようにはならない、ということである。これには順序がある。最初に、霊的再生があり、次に、キリストを信じて受け入れる。そして第三に、神が我々に子となる権利を与える、という順序である。これはキリスト者にとっての最高の祝福である。神による権利の付与である。神の家族に入れていただく、という父なる神によって与えられる権利の付与である。
第四に、これは何のための権利か?それは、神の子、神の養子になるために他ならない。霊的再生があって、キリストを信頼すること、エクソウシア、子としての権利が与えられる、という流れである。結果、人は恐れず恥じずに神の前に来ることができる。神が子としての権利を与えられたので、神のところに来ることができる、と知る。これが、神によって子とされることである。
ヨハネは、第1ヨハネ3:2で語っている、「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか」。ヨハネは養子縁組について語っているのである。養子を受け入れる方は、御子イエス・キリストや聖霊なる神ではなく、父なる神である。このすべての根本には愛がある。だから、「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか」と言っている。これに関して、神が与えられたもの、それは養子としての特権である。神の子と呼ばれる、それが養子の意味だ。ヨハネの福音書1:12は、「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」と言っている。それは我々自身が、キリストを信じるならば、神の子として常に父なる神と共に生きる、この養子縁組の祝福を受けているのである。
ヨハネ8章で、イエスは、イエスを信じていないユダヤ人が、神に属さず悪魔に属している、と言っておられる。我々も、かつては悪魔に属しており、アダムの子であった。しかし、神の償いによって、神の家族に迎え入れられ、合法的に養子として受け入れられた、フイオセイアされた。今は、神の養子としてのすべての権利と地位と尊厳を有している。
しかし、我々は神の国においてキリストと同じ栄光の体に変えられる時、養子としての祝福を完全に得ることができる。全ての罪から解放され、我々の父なる神に顔を合わせて会うときにそのようになる。1 ヨハネ3:2に、「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしかたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである」と教えているとおりである。これは栄光の祝福が到来することを言っており、人間として経験し得ることとしては大きな祝福である。主なる神の臨在の中にある交わりが許されること、それは我々自身が未だ罪に影響されている現時点では起こらないのである。
パウロはこのことをローマ8:19で言っている、「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」。神の子たちというのは、養子たちのことを指しており、やがて出現する、と言っている。神の子たちとは、罪にまみれることがない栄光に満ちた神の子たちである。だからパウロは、ローマ8:23で、「それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」と表現している。実に、将来の我々養子としての完全な贖いのことを言っている。キリストの復活の体と同じような、罪に影響されることのない、即ち栄光の体をいただくことだ。
ローマ8:29に、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子の形に似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」とある。我々が神の子たちとして現われるとき、それはイエス・キリストの兄弟として、主なる神にまみえる、喜ぶべき祝賀のときである。
だから、我々は、父なる神がこれら全ての業の元であるとわかる。そして、御聖霊も我々が養子となるプロセスで、独自の働きをされる。御聖霊は、我々が神によって養子とされたということがわかるようにされる。それによって、我々は、自らすすんで神を愛し、本当の子供のように、「アバ、父よ」と呼ぶようになる。乳離れした子が呼ぶ言葉「アバ」は、ヘブル語で「パパ」を意味する。このような親子の関係を、御聖霊が我々に与えられるので、自信をもって父なる神を「アバ、父よ」と呼ぶようになる。
ガラテヤ4:5-7とローマ8:15に、「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである」と書いてある。御聖霊が、子たる身分を授ける霊を与えられる。これによって、我々は、「アバ、父よ」と呼ぶ。あなたが神の子であるからだ。御聖霊が、我々に父なる神を呼ぶようにされ、理屈ではなく自然に、主なる神に対する信頼と愛情が沸いてくる。「このような信じ方をしないと、あなたはキリスト者ではい」とかいうような、法則はなく、それは、我々が神の子であることを御聖霊が与えられるという特権である。三位一体の御聖霊によって創造される体験的事実である。
子が父に向って泣くように、我々も父なる神を呼ぶ。これで、我々が神の子であることがわかる。我々は、父なる神に祈る。神は我々に答えられる。それは神の家族とされていることの確かな証拠である。我々は、かつて悪魔の家族に属し、アダムの家族に属していた。祝福を受ける神の子としての権利を持たなかった。しかし、今や法的に神の養子とされ、家族の一員とされている。この栄光ある養子縁組の教えを理解しよう!
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