神の国の子とされるということ-2
P. G. Mathew | Saturday, April 29, 1995Copyright © 1995, P. G. Mathew
Language [English]
ひき続き、神の国の子とされるということについて見ていこう。前回、主なる神が贖いの業をされたことによって、我々を悪魔の家族から神の家族に養子縁組されたと言った。これにより、神の息子や娘としての扱いを受けるようになったと学んだ。それにふさわしい身分や特権を与えられたが、その偉大なる神の愛の根拠は一体何か?そもそも愛されなくては、養子縁組などはない。神は永遠の昔から我々を家族に加えて下さろうと計画しておられたのである。
我々を清くされるプロセスとは異なり、我々を義とされる場合と似ていて、これは一気に起こる。神の御子キリスト、御聖霊の働きではなく、父なる神の働きである。
神による義認(義とされること)と同じように、法的に、養子縁組が行われ、以後は子として宣言され扱われる。この法的プロセスを通して、決して元の状態に逆戻りしない、神の子としての立場を永遠に与えられる。なんという安心安全だろうか?我々人間は、間違いをおかすだろうが、神はけっして我々を見捨てない。人間のなかには、親に見捨ててほしいと思う者もいるかもしれないが、そのような人は、神が与える絶大な安心安全をはたして想像できるだろうか?不安のなかでも力強く生きる者もいるだろう。しかし、私は、むしろ神に信頼して、大いなる安心安全の中で力強く行きたい。我々は神の子となり、変わることのない神への信頼で生きるのだ。
養子縁組されたことの証拠はなにか?前回学んだように、御聖霊の働きによって我々に子としての態度を与えられ、主なる神を父親のように呼ぶ立場に置かれたということである。イエスは、「父なる神に祈りなさい」と教えておられる。イエスは主なる神を父と呼んでおられるので、あなたも、父なる神と呼ぶのである。だから祈りは、父なる神との親しい会話で、神の養子となった証拠である。子供に教えなくても、父親に対しては、「お父さん」とか「パパ」とか言う、子供のような立場である。そこには既に愛に基づく親子の関係が確立している。
もう一つの証拠は、神に対する信頼からくる安心があることである。丁度、帰宅した父親の足にしがみついてくる幼い子供のような、安心である。子供は、父親が帰って来て、安心するのだ。父親がその子のそばにいるので、もはや何をも恐れる理由がない。父親が部屋で会話をしていても、勉強をしていても、ドアをあけてはいってくるであろう。話しかけても叱られない。神の子になっている我々は、そのような安心がある。そのような親子のような神の愛ゆえ、我々は大いなる勇気を与えられる。
ユダヤ人の文化では、父なる神を「お父さん」と呼ぶような気軽さはない。なぜなら、神はあまりに偉大で遠くの存在であるから、そのように親しく呼ぶことはしない。しかし、イエス・キリストはそのようなことは気にしておられない。なぜなら、父なる神といつも語られているからだ。だから、イエス・キリストは、つねに父なる神を「アバ」つまりアラム語で「お父さん」と呼ばれた。そのように我々にも教えておられ、これこそ信心深さの最高の形である。神が我々を愛される、親子の関係である。
では神によって養子とされた祝福はどのようなものか?覚えておくべきことは、我々はかつて悪魔の子たちであったということだ。神に敵対し、ののしり、その反抗心のゆえ、神を冒涜していた。しかし、神は無限の哀れみと恵みを我々に与えられた。それこそ、神の御子キリストの十字架の犠牲に他ならない。その犠牲で、我々は、悪魔の子の立場を解かれ、神の国へと養子縁組されたのである。神の家族の一員として、11の祝福が約束されている。
- 新しい立場と尊厳を与えられた。それ以前は何者でもなかった。我々は、地獄以外に行先がない悪魔の子であった。しかし、神はイエス・キリストが、我々を地獄に属すべき悪魔の縄目から解いて、神の家族に招きいれて下った。それゆえ、今は神の子供達と呼ばれ、最高の立場と尊厳を与えられている。世界で最も偉大な人は誰か?もしもその子であったらどんな立場だろうか?しかし、その偉人もしょせん人間である。我々の主なる神はもっと偉大である。どんな偉人の子にも比べ物にならないほど、子としての真の喜びと安心の立場を与えて下さる。どんな人種も、どんな門地に生まれていても、また教育レベルも、財産の大きさも気にしてはならない。神が与える、最高の尊厳、神の子の立場が与えられている。それを考えてみよ。これこそ真の自尊心というものである。人は、人間の尊厳を語るが、神の子であるということが真の尊厳である。それを忘れてはならない。むしろ神の子供とされたことを喜び、ここからくる偉大な安心と安全によって、この世を生きていけ。
- 神との養子縁組によって、我々に新しい父親、すなわち父なる神が与えられたからには、どのようなことにおいても究極の心配のネタはないのである。マタイ6:25-34を読み、特に32節にこのように書かれている、「これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」を理解せよ。言い換えると、父親が子供を大切に思うということだ。物質的であれ、霊的であれ、神は必要であれば与えてくださる父である。父が我々を大切な存在として扱われる。我々も、我々の子供達に対してもそのはずである。父は、その子の必要が満たされているかどうかを考え、前もって準備しておくべきものを考えるのである。父なる神が父親であるから、なおさら我々に必要なものをご存知である。だから、山上の説教で、主イエスは、「心配するな」と繰り返し教えられた。父なる神が我々を大切に思っておられる。必要なものをご存知であるのだ。
- 我々は、神からの訓練もいただく。もし神の子供達なら、神の家族に養子となっているのだから、どんな状況においても喜ぶべきである。あなたは、時にナンセンスなことを行うかもしれない。神は、あなたを鞭打たれるだろう。それは神の訓練である。へブル12:5-11には、父なる神の愛による訓練について教えている。神による訓練は素晴らしいことである。自分勝手な行動を神は許されない。神は、御子を送られ、御子は我々のために代わりに死なれ、その結果我々を贖われた。のみならず、聖霊の力によって、正義、平和と喜びの道を我々が歩めるように、我々を訓練される。そして、我々が神に敵対することに終止符を打たれる。そのプロセスには、痛みが伴うかもしれないが、神は規律のうちに我々を扱われる。1コリント11章に、「しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである」と教えている。
- 我々は神に祈ることができる特権をいただいている。御聖霊が我々の中に神を慕い求める気持ちを与えられることを学んだ。キリストの教えは、単なる知的なことではなく、神に対する深い思いや感情も与えられるのである。もし、神に対するなんの感情もわいてこないなら、おそらくそれはあなたが、未だ主にあって新生していないということなのかも知れない。愛は感情を伴う。愛は喜びを与え、その感情面は我々の霊的生活において大切な部分である。今日、「ただ信じなさい。あなたはキリスト者なら、なにも心配する必要ない。心配の気持ちにもとらわれるな」と教える。しかし、気持ちや感情も大切である。子供ならば、両親のことについてなんらかの気持ちや感情をいだいているはずである。そのように、父なる神に対して語ること、すなわち神に祈ることは子として祝福されている行いである。
だから祈りは祝福である。「来て私に語れ」と神は言われる。これはなんと素晴らしいことだろうか。イエス・キリストは我々の兄弟となっている。だから、イエス・キリストは「天におられる父なる神よ、と祈りなさい」と教えておられる。祈りは神の養子とされた者の特権である。我々が真剣に、大胆に、信頼に満ちた態度で、主なる神に対して、集中して祈るように導かれよう。そして、御心に沿って我々の祈りに応えてくださる父なる神に感謝しよう。
- 我々は権威(エクソウシア)を与えられている。ヨハネ1:12は言っている、「しかし、彼を受け入れたすべての人、彼の名前を信じた人々に、彼は神の子となる特権を与えられた」。エクソウシアは「パスポート」、「権威」の意である。なんとすばらしいことだろうか。神のもとに来るとき、我々は他人としてではなく、神の子たちとして来る。 神が臨在されるところに来ることができる。その権利をあたえられているとは、なんという特権であろうか。これこそ、私たちが毎日行使すべき特権である。
- 我々は、神にある安心によって、あらゆる人間的なおそれから解放されている。我々は、神を畏れるが、それは奴隷のような恐怖ではない。悪霊に支配される結果として生じるような「臆する霊」ではなく、神によって悪霊から解放された素晴らしい安心である。これ以上の祝福があるだろうか?
- 神が我々を愛される。既に読んだ箇所だが、1ヨハネ3:1でヨハネは喜んで次のように証言している、「父なる神が私たちに惜しみなく与えられた愛はどれほど素晴らしいことか」。神の子に与えられる父なる神の愛、その深さや広さを測ることは不可能である。あなたを訓練される偉大な愛を、常に心にとめよ。神の愛のだからこそ、そこには訓練があるのである。神の愛という強固な基礎は、決して消えてしまうことはない。
- 我々は、神の相続者として財産を与えられている。これもまた素晴らしいことである。人生において、あなたが財産持ちでなくても、両親から何も相続するものがなくても、心配するな。あなたは、神の子とされたことを信じ、神が相続者に与えられる物を全て期待せよ。そもそも、最高・最上の相続財産とは何か?神があなたに与えておられる相続財産は、この世にあるものとは到底比べられないものである。あなたは、もはやこの世の安物を求めるな。あなたが神の養子、相続者となれば、最高の祝福をいただくことになる。それは神との家族関係に入れられたことに他ならない。
- 子供は親を真似する。同様に、我々が神を真似するのは自然である。エペソ4:32-5:2は言っている、「互に情け深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである」。これこそ、あなたが揺るぎのない安心を持てる、もう一つの証拠である。神の子とされたので、あなたは神を真似する。この教会に来ている子供達が、時々巧妙に親の真似をする。くしゃみの仕方や、歩き方まで鏡に映したようにそっくりである。同様に、神の子とされると、神を真似するのは自然であって、神の御性質の一端を映し出すようになる。これも特権である。かつて、我々は悪魔の真似をしていた者達である。今は、神の真似をする特権を与えられている神の家族、神の子である。
- あなたには家族があるだろうか?神の家族に養子縁組されたら、あなただけが養子ではなく、他にも多くの養子達がいることを知るべきである。その集まりが教会という素晴らしいところである。我々は、神を礼拝して、神の言葉を聞きにくるために教会に来るだけではない、神の子とされた兄弟姉妹にも会いに来るのである。人種や性別は関係なく、あなたがたは、お互いに兄弟姉妹となっている。神の偉大な養子縁組によって、新しい兄弟姉妹が与えられ、お互いに大切に思うことができるとは、なんと素晴らしいことか?あなたの隣にいる兄弟は、神の養子とされた兄弟であって、あなたも同じである。あなたの肉親の兄弟はイエス・キリストに信頼していないかもしれない。しかし、イエス・キリストに信頼して、神の養子とされたキリスト者の兄弟は、その肉親の兄弟に勝るのである。イエス・キリストにある兄弟姉妹は、永遠に兄弟姉妹であり続ける。イエス・キリストの子でないなら、あなたの母でさえその中には入らない。しかし、これらの兄弟姉妹は、これからもずっと神の子たちとして、あなたの兄弟姉妹である。なので、兄弟姉妹はお互いに重荷を担い合うのである。あなたは、妬みや嫉みという、かつてのこの世での悪魔的行いを捨て去り、同じ神の兄弟姉妹とされた者に相応しく、お互いを自分より優れた者として大切に扱うべきである。かつて一番になることだけを目指していた者ならば、今は次のように言えることを誇りと思うべきである、「あなたが、私の兄弟姉妹でいてくれて、とても光栄です。なにかお役に立てるでしょうか?」。そのように、謙虚に他の兄弟姉妹を優先する気持ち、そのようなキリストの神の子としての愛が存在するのである。だから、兄弟姉妹と関わりあわないで済まそうとする、そのような選択肢はない。神によって生まれ変わった者達は、神の家族に養子として受け入れられ、結果、イエス・キリストの教会につながる兄弟姉妹を、自然に大切に思うようにされるのである。
- イエス・キリストは、我々にとって、一番上の兄弟である。これは驚くべき祝福の特権である。聖書は、イエス・キリストが我々の一番上の兄弟だということを繰り返し教えている。これは、また我々に安心を与える。イエス・キリストは、裁くために再び来られ、審判者として対面される。すなわち、イエス・キリストの前に、我々は立たされるのである。しかし驚いたことに、あなたは裁かれず無罪となる。なぜなら、同時にあなたの上の兄弟であるイエス・キリストは、あなたの罪のために死にわたされ、復活してあなたの罪をすべて購われたからである。イエス・キリストが、愛のゆえにあなたを裁かれない、という単純なことではない。我々を法的プロセスによって義なる者と判断してくださるのである。単に見逃されるのではない。このように、神の子とされることに関しての様々な事柄を考えてみるがよい。神の養子縁組によって実の子とされるというのは、贖いの祝福の根幹であって、驚くような祝福の基である。
祈り:父なる神様。私たちは、かつて悪魔の子でした。エペソの手紙2章にあるように、悪に従い、実際に悪魔の望むことを行っていました。あなたに逆らい、神の家族となんの関わりも持たず、全く失われた存在でした。真の尊厳も豊かさも持たず、悪として葬られるところでした。しかし、このような者に永遠の愛を注いで下さり、ほんとは地獄のようなさまを苦しむべきであったにも拘わらず、御子イエス・キリストが代わりにその地獄を味わわれ、我々をそこから解放して、神の子供とし、家族の一員として迎えて下さいました。深く感謝いたします。
主なる神様。放蕩息子が豚小屋で暮らしていた状況を思います。悪臭と空腹はあっても、尊厳もなにもないその姿は、かつての私です。しかし、そのときでも、見捨てることなく、正気に戻してくださいました。「死んでいたと思っていたが、今は生きているわが子」と喜んで、養子として招き入れて下さいました。家の使用人の一人ではなく、身なりにおいても、食事をするにしても、愛する子として扱ってくださり、感謝いたします。
今、素晴らしい家族の一員として、その大いなる神の愛にあり、光の中であるあなたと共に生きていけるように助けてください。いつも、自分で案じるよりも先にご配慮くだり、大切に扱われる、その温かさに包まれていけることを、そして常にあなたを信頼して歩めることを感謝いたします。あなたの子として祝福の道をこれからも歩めるよう、導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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