教会の背信、第一

2 Timothy 3:1-5
P. G. Mathew | Sunday, April 24, 2016
Copyright © 2016, P. G. Mathew
Language [English]

始めに

使徒パウロは、しばしば教会の背教者について語っている。すべての真の教会には、背教者になる者がいるのである。それは3つ目の土地に該当する者である。そのような人々は、自分の心のままに罪を犯すため最終的に教会を離れていく。

今日の聖書の箇所の少し前に(2 Tim. 2:24–26), パウロは、反対する者を柔和な心で教え導くように命じている。それは彼らが、が悔改めて、真理を知り、一度は悪魔に捕えられて欲するままになっていても、目ざめてわなからのがれるようになるためだ、と教えている。

さて、2テモテ3:1–9で、パウロはテモテに、教会で将来何が起こるかを警告している。 神の真の教会にいる偽りの信仰者は、多面的な不道徳といえる反律法主義(アンチ・ノミアニズム)を行うようになり、結果として教会自体が背教の危機に直面することがあるのである。その不道徳の特性が1~5節に21点にわたって挙げられている。このような不道徳を行い、悔い改めることを拒む者は、キリストの聖なる教会から追い出さなければならないのだ。彼らは悪魔に任せられるのである。

第1節で、テモテはパウロに、使徒たちの教えを理解し忘れないように、と命じている。終わりの時に近づくにつれ、イエス・キリストを信じる者にも恐るべきことが起こるといっている。今の時代、邪悪なテレビの説教者たちがいる。キリストを信じるなら、富と健康が保証される、といった偽りのメッセージを流している。そのような説教者は偽物で、悪魔の使いである。主がエレミヤに語っておられるように神の民がかれらにそそのかされるのである、「わが民はこのようにすることを愛している」(エレミヤ書5:31)。

「終わりの時」とは、キリストの来られた時から再臨までの期間を示す。従ってそれは今である。背教は歴史をとおして教会に起こってきた。ヨハネは言う、「子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る。彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである」(1ヨハネ2:18–19)。

悪魔は、キリストが建てる教会に激しく反対してくる。悪魔は、真の信仰者に反対する。 しかし、真の信仰者が形成するキリストの教会を破壊することはできない。時がくると、偽りの信者は背教者となり、キリストの聖なる教会を離れるか追放される。彼らは、なんでも受け入れてくれる、いい加減な教会、すなわちサタンの教会を探す。彼らは正に毒の群れとなっており、以前はイエスを主人として告白していたものの、最終的に否定し、世俗と無法に傾いていくのである。

だから、神の教会の中にいるある者は、悪しき者となるのである。パウロは他の箇所で書いている、「しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善の仕業である」(1テモテ4:1–2)。主イエスは言われた、「そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ24:10-13)。つまり、目に見える教会の中の全ての人が救われるのではない、ということである。ペテロも言っている、「まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活するであろう」(2ペテロ3:3)。

イエス・キリストとその業を否定しつつ、しかも救われると言っている、すべてのカルト、すべての哲学、すべての宗教は、悪魔から来ており嘘である。そのような虚偽を信じる者は、パウロが言っている、汚れた泥のやからである(2テモテ2:20)。彼らは悪い実のみを結ぶ悪い木である。「彼らが結ぶ実によってそれがわかる」と主イエスは言われた。さて、不道徳の21の側面を検討してみよう。パウロが2テモテ3:1–5で述べていることである。

終わりの時に現れる様々な不道徳

1. 自己愛(ギリシャ語でフィラウトイ)。主イエスは言われた、「心をつくし、精神をつくし、力をつくして主を愛せよ。また自分のようにあなたの隣人を自分自身のように愛せよ」。これは神の戒めの全体をまとめている。しかし、偽りの信仰者は神と神の民を憎む。彼らは聖書と神の言葉を説く牧師を憎むのである。自己中心的で自己愛の塊なのである。彼らは、他人からよくしてもらうことを求めるものである。悪魔に対しては、毎日完全に従う奴隷であるのだ。主なる神に対しては「いいえ」、悪魔に対しては「はい」である。「私は自分自身を愛している」と彼らは言う。これは今の西洋の世俗的哲学における支配的な考えである。そのような人々は自分自身を愛し、崇拝する。自分を幸せにしてくれることをすべて行うのである。この自己愛の哲学は、彼らの背教心を読み解く鍵である。

2. 金銭を愛する(フィラルグロイ)。言葉通り、それは「銀の愛好家」という意味である。人々は金を愛する。彼らを幸せにするものが、金で買うことができるからだ。主イエスは言われた、「あなたは神とお金の両方に仕えることはできない」。しかし、お金は彼らを幸せにするので、主イエスを信じないのである。お金は彼らの神なのである。死ぬまで、飲み食いして楽しみ、罪のすべての喜び味わいをも楽しませてくれる金銭。より多くあればあるほど、それは彼らにとって大きな幸福を意味する。主イエスが言われた次の言葉を確かに知っている、「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マタイ16:26)。 また、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)、また、「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである」(ローマ14:17)。 主イエスが警告しておられることも知っている。ルカ12:15に、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」と言っておられる。愚かな金持ちに対してイエスが教えられらことを知っている、「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」(ルカ12:20–21)。それは愚か者ナバルがしたことでもあり、ナバルは神により滅ぼされたのである。

主イエスはお金を持っていなかったが、世界で最も幸福な人なのである。主なる神を捨てる者は、金銭を多く持っていたバラムとナバルのようになりたいというのが本音である。彼らは金持ちになるためにお金を奪ったアカンようでもある。主イエスを売ってお金を稼いだユダのようでもある。自らの罪のために、彼らは全て滅んでいった。金銭を愛する者たちは、死ぬまでに幸せな生活を送っていたいと考え、罪をも正当化するものである。彼らは言う、「みんないずれ死ぬのだ。 だから、生きている間だけできる限り多くのお金を手に入れて、幸せになれればいいではないか」と。

パウロが1テモテ6:10で言っていることに目をとめたい。「金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲張って金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした」。これこそ、彼らが考えた幸福、そのための支払ってしまった代価である。彼らの中には、「救われるためには、何をすればよいでしょうか?」と尋ねる者もいる。ただ、悪魔の答えは、結局「どんな手段を尽くしてもより、金を稼ぐのだ」というものにつきる。ルカ16章に出てくる富豪は、死んで地獄を味わっているのである。

3. 高ぶり(アラゾネス)。 ほとんどの富裕層は、お金を使って強力になる。そして、豊かで力のある者ほど、高ぶった思いになり、その心は傲慢である。そのような人々は、すべてに足りており、神を必要としないと考えている。ある者は毎日パーティーのような生活を行っているものである。いつも、どれほどの富を築き上げたかを自慢している。そのような者たちに、ヨハネは警告している、「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる」(1ヨハネ2:15–17)。

主なる神を信じない者たちは、彼らの富、美しさ、知性、血統、そしてその力について自慢するものである。エゼキエルの28:17で、悪魔について次のように書かれている。「あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした」。

神が与えられる賜物(能力)も人をしばしば誇らせる。コリント教会へのパウロ言葉を心に留めておくべきである。「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか」(1コリント4:7)。

4. 誇り(フペレファノイ)。自分を誇る者は、主なる神を否定する。人格を持たれ、全能の創造の神を否定するのである。すべての支配者であり、神の民の救い主である主を否定する。彼らはこのような主なる神の目の前ではで生きてはいられないのである。主なる神は、教会の中にいる誇り高き者にも立ち向かわれる。しかし、へりくだる者には恵みを与えられる。自分の義が救ってくれると信じていた誇り高きパリサイ人は、罪に定められた。しかし、神の哀れみに信頼する者は、義とされた(ルカ18)。

エゼキエル28章が言っているように、誇りこそ天使ルシファーを悪魔にさせた罪である。この誇りを持っている者はすべて、肉体の死のみならず第二の死によっても死ぬ。 どれだけ多くの者たちが誇りの罪で自分自身を滅ぼしていることか!誇りは滅亡に先立つが、へりくだる者を神は恵まれる。誇る者は自分自身とその業績を誇張する。ルカ1:51–52に書いてある、 「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げる」。あなたに誇る心があるか? あなたに傲慢な心があるか? 警告であるが、誇りに思う者は、主イエスを信じることは決してない。むしろ、主イエスは彼らを裁かれ地獄に送り込まれるのである。

5. 神を冒涜する者(ブラスフェモイ)。神を冒涜するものは、神を信じる者に敵対して語る。エデンの園で、悪魔が神に敵対して、そしてアダムとイブに敵対して語っている、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:4–5)。

タルソのサウルは、回心する前に主イエスを侮辱していた。後に彼は言っている、「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである」(1テモテ1:13)。神は我々を知っておられる。神を冒涜する放漫になるために、我々はお金を持つ必要はない。パウロは書いている、「その中に、ヒメナオとアレキサンデルとがいる。わたしは、神を汚さないことを学ばせるため、このふたりをサタンの手に渡したのである」(1テモテ1:20)。彼らは神の民であったにも拘わらず、神の言葉を冒涜していた。これこそ、今日の我々が生きている世の中の文化なのである。人々は生きた真の神を自由に冒涜しているのである。ペテロはこういった者達について次のように言っている、「これらの者は、捕えられ、ほふられるために生れてきた、分別のない動物のようなもので、自分が知りもしないことをそしり、その不義の報いとして罰を受け、必ず滅ぼされてしまうのである」(2ペテロ12)。神を冒涜する者の中には、反社会的行動をする者もいる。地獄はまさに冒涜者でいっぱいになるであろう。

6. 両親への不従順(ゴネウシン・アペイセイス)。子供たちが両親を敬い、従うべきであると命じる十戒の一つである。両親を敬い従うことを拒否した子は、旧約聖書の時代では、死罪に服した。

両親に従わない子は、この戒めを与えた主なる神を冒涜し嘲笑することになる。牧師の子供たちについては、新約聖書に次のように書いてある、「長老は、その子たちも不品行のうわさをたてられず、親不孝をしない信者でなくてはならない」(テトス1:6)。あなたの子供はどうか?不従順な息子や娘は、主に呪われているといえる。しかし、両親に従う子は主なる神によって祝福される。そのような子どもたちは、特に永遠の救いの恵みをいただくのである。

ルカ2章で、主イエスは言われる、「幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上にあった。それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された」(ルカ2:40, 51–52)。神を畏れる息子や娘は主イエスのように成長するのである。

7. 感謝がない(アカリストイ)。アダムのすべての子孫は悪魔の子供であり、それぞれは小さな悪魔である。悪魔は創造主なる神に感謝することは決してない。悪魔のすべての子らも同じである。パウロは書いている、 「なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである」(ローマ1:21)。これがすべての不信者の本質なのである。 彼らは、物事が望むように行かないとき神を呪っているのである。健康、衣食住、家庭、両親、平和など、毎日受ける祝福を主なる神に感謝することはない。

主なる神に感謝しない子らは、両親を自分たちの奴隷のように従わせる。楽しみを与えるための親でしかないのだ。その子らは本当に心から「ありがとう」とは決して言わない。主なる神は、そんな恩知らずの者たちに対してさえも慈悲深く必要なものを提供しておられるのである。イエスは言われた、「しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである」(ルカ6:35)。

8. 清くない(アノシオ)。神は聖なる清い方であり、「私が清いように、あなた方も清くあるべきである」と言われる。我々は主なる神に倣って清くあるべきである。清くあれという神の命令に従わなければならない。我々は聖書が教えていることを知り、福音を信じるべきである。しかし、ほとんどの人々は、神から賜物を受けているのに、それを与えた主なる神を拒絶する。

清くない人々は、即ち心が邪悪である。彼らは神の法律に違反することを喜んでいる。 彼らは「神はいらない」と、神から離れて生きることを喜んでいるのだ。「姦淫をするな」と聖書は言う。しかし、「自分は姦淫もするだろう。それがなんだというのか?」と彼らは居直る。彼らは罪の様々な経験に引き寄せられ、結果、悪魔の子たちとなるのである。ヨハネ8:44で主イエスが話された、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」。アダムのすべての子は、神が再生されない限り、悪魔の子であり続けるのである。

9. 自然な愛情がない(アストルゴイ)。動物は、本能的に自らの血縁者を世話する。親は子供を、その逆もそうである。しかし、この国では、母親が子宮内で子どもを殺し、子供は老後に両親を見捨てる。中絶の他に、安楽死も行われている。我々は、聖書と聖書の神を捨てたのである。

10. 赦さない(アスポンドイ)。 キリストが我らの罪のために死に、我々を義とするために復活された、その真実に基づいて神は罪を赦されるのである。これこそ奇跡の中の奇跡である。だから、こう書いてある、「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである」(詩篇32:1–2)。

神は我々に罪を犯す者を赦すよう命じておられる。主イエスは言われた、「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」(マタイ6:14–15)。ある者は、死の床に至っても、ある特定の者を赦さないで死んでいく。彼らは死んで地獄に行くのである。許さないものは、悪魔の子なのである。

11. 中傷者(ディアボロイ)。小さな悪魔を意味する。背教者となり、キリストの聖なる教会から遠ざかる者は、悪魔となってキリストとその聖なる教会を中傷して回る。そのような人々は、主イエスを告発して断罪し、十字架につけるのである。現代の背教者は、主なる神に従う聖なる人々を告発する悪魔である。彼らの中には、インターネットを使って神の教会を誹謗する者もいる。

パウロは「にせ兄弟の難に会った」と言っている(2コリント11:26)。ガラテヤの教会にも書いている、「それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので――彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった」(ガラテヤ2:4)。

ユダは使徒の一人に選ばれたが、悪魔が彼に入って、イエスを裏切った。その後、ユダは自殺した。神の聖なる民を誹謗する者は滅ぼされる。彼らは悪魔と同じ運命をたどるであろう。

そのような人々は、特に神の言葉を忠実に説教する牧師を中傷する。悪魔とその輩はキリストとその真実に耐えられないのだ。我々が、このような悪魔のようにならないように聖書は警告している。例えば、執事の妻はこのような小さな悪魔になってはならない、と戒めている、「女たちも、同様に謹厳で、他人をそしらず、自らを制し、すべてのことに忠実でなければならない」(1テモテ3:11)。同様に、年配の女性もこのような小さい悪魔になってはならない。パウロは言う、「年老いた女たちにも、同じように、たち居ふるまいをうやうやしくし、人をそしったり大酒の奴隷になったりせず、良いことを教える者となるように、勧めなさい」(テトス2:3)。

12. 自制心がない(アクラテイス)。自制心がないとは、失禁を意味する。自制心は聖霊の賜物である(ガラテヤ5:23)。しかし、自制心のない者は、罪に対して「いいえ」と言えない。なので、彼らは神の教会から出て、絶え間なく罪を犯す。彼らに聖霊が住んでおられないので、聖霊の力もない。これらの者たちは自制するブレーキがない。彼らは反律法主義者で、単に宗教的で偽物の信仰しゃである。彼らの喜びは、主の律法ではなく、罪を増やすことである。彼らは神の声を聞くことがない。

牧師は自制心がなければならない。即ち、聖霊の働きに服し、力を与えられているべきである(テトス1:8)。ペテロは加えて我々に教えている、「知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を加えなさい」(2ペテロ1:6)。これこそ、我々が召命と神の民とされていることを確かめることである。

自制心がなければ、それは放蕩息子が人生を放棄したような生き方をするようなものである(Luke 15:13) それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。だからペテロは書いている、「今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている」(1ペテロ4:4)。

ヨセフは自制心のある人であった。神が彼と共におられたので、悪しき行いを避けたのである。ダニエルと友人たちはバビロンで自制心を尽くして、イスラエルの主なる神のみに栄光をささげた。主イエスは御霊の実である自己制御を完全に行い、悪魔の誘惑に決して屈することはなかった。すべての真の信仰者は、聖霊に満たされるとき、自制心を与えられる(ガラテヤ5:22–23)。

13. 残忍(アネモロイ)。背教者は殺して破壊する野生動物のようなものである。それがアネモロイの意味である。そのような者はワイルドな野生のままで、落ち着や自制心がない野蛮である。破壊的な、悪霊につかれたような人間である(マシュー牧師の解釈)。しかし、そのような者であっても、主イエスは救われた。悪霊につかれた者は座って服を着て、正気を回復した。彼は主イエスの言葉に耳を傾け従った、と記録されている。

クレテ島にいた悪しき者たちのことを、パウロは「彼らは悪しき獣である」と書いている (テトス1:12)。ユダの手紙にも記録されている、「しかし、この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている」(ユダ10)。

14. 善を嫌う(アフィラガソイ)。 キリストを信じる者は善を愛する者である(テトス1:8)。キリストに背く者は、善を嫌い、悪を好む。お金持ちの政治家に向かって、主イエスは言われた、「神以外に、誰も良い方はいない」。主イエスこそ神であり、行われることはすべて善である。主イエスは、神の御心を行うために来られた。

罪人がすべきことは、悔い改めて聖霊の力によってイエス・キリストを信じることである。そうすれば、聖書の命令に従って主イエス仕えて生きることがでる。

邪悪な者は善を嫌い、悪を愛する。彼はくるっているのである。預言者イザヤが言っている、「わざわいなるかな、彼らは悪を呼んで善といい、善を呼んで悪といい、闇を光とし、光を闇とし、苦きを甘しとし、甘きを苦しとする」(イザヤ書5:20)。すべてがねじ曲げられ、醜悪であるのに、「わが民はこのようにすることを愛している」(エレミヤ書5:31)。またパウロは書いている、「それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである」(1コリント6:9–11)。神の救いに感謝しよう!悪を愛し常に悪事をたくらんでいた者よ(Rom. 1:30)。

15. 反逆者(プロドタイ)。彼らは約束を破る者である。「イエス・キリストは主である」と告白する。これは全ての主である方との契約なのである。しかし、彼らは時が来ると、罪深い生活を送ってこの契約に背く。結婚するとき、死ぬまで約束を守ると神の前で宣言しはする。だが、一体何人の者が、この契約を破って離婚しているか?ある者は、自分の子が神を畏れる者になるよう育てると決心する。しかしことに同意します。 しかし、彼らは間もなく誓ったことに失敗する。ある者はキリスト信仰者を自称していても、ビジネスで契約違反をする。

詩篇の記者は、「誓った事は自分の損害になっても変えることのない」人のことを書いている(Ps. 15:4)。しかし、使徒の中にも裏切り者がいるのである。主イエスは使徒の名を挙げておられるが、その中で「ヤコブの子ユダ」も「イスカリオテのユダ」もいた。そして「このユダが裏切り者となったのである」(ルカ6:16)。

主なる神は約束されたことを守られる。神は誠実であられうそをつくことはできない。「なぜなら、神の約束はことごとく、キリストにおいて『しかり』となったからである」 (2コリント1:20)。あなたが真のキリスト者であるよう、あなたが神との契約を破ることがないよう、私は勧める。

16. 無謀(プロペプテイス)。これは頭から下に落ちていく者のことである。パウロは、永遠に誤りのない神のことばを心に宿さない人々について言っている。そのような人々は感情に支配され、不安定である。彼らがしていることも、していないことも、「神の言葉」に照らし合わせると全く正しくないのである。これらの人々は聖書とは関係がない。 彼らは背教者なのだ。その哲学は次のようなものだ。「自分はしたいことをやりたい。牧師が我々に何の命令ができるか?すべて我々の自由だ」。彼らはすぐ頭にくる衝動的な者である。彼らの人生を分析してみると、災害に満ちている。

アダムとイブは、神の言葉に無頓着であった。その結果、悪魔の嘘に従い、滅びてしまった。彼らの子孫はすべて、死の宣告をうけた。罪に思慮はない。罪を犯す者は神について考えないし、神の語られる言葉をも考えない。

17. 自尊心の塊(テトゥフォメノイ)。これは煙がいっぱいで光がない者という意味である。そのような人々は盲目で、現実を見ることはない。道であり、真理であり、命である方、即ち主イエスを拒否する。主イエスは盲目の人を癒やされ、目が見えるようになって主イエスを信じて礼拝したのである。しかし、パリサイ人たちは盲目であり、イエスを信じないで言った、「我々はこの人[イエス]は罪人であると分かっている」。煙に満ちた彼らの頭では何も理解できていなかった。主イエスは彼らについて次のように言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」(ヨハネ9:39)。

このような者たちについてパウロも書いている、「もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば、彼は高慢であって、何も知らない」(1テモテ6:3–4a)。しかし、我々はキリストの思いを持っており、すべてのものを判断するのである(1 Cor. 2:15–16)。

18. 1 快楽を愛する者(フィレドノイ)。罪の生活を愛する者の意味である。彼らはあらゆる形態の快楽にひたり、それを崇拝する。主イエスが、ルカ8:14で言っておられる、「いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである」。

結局、そのような人々は教会を離れ罪の生活に向かう。彼らは自分自身が霊的に再生されないことを証明している。堕落するこれらの偽キリスト者は、「罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選んだ」モーセとは逆である(へブル11:25)。

罪の快楽は短い間しか続かない。神との永遠の喜びと、はたして比較になるだろうか。聖書は言っている、「主はいのちの道をわたしに示される。主の前には満ちあふれる喜びがあり、主の右には、とこしえにもろもろの楽しみがある」(詩篇16:11)。邪悪な者は常に罪の喜びを選ぶのである。パウロが書いている、「わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた」(テトス3:3)。ヤコブもこれについて言っている、「あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ」(ヤコブ4:1, 3)。邪悪な者はこの世であらゆる種類の喜びを選ぶが、決して満足することはない。我々の心は、主なる神によらない限り決して落ち着かない。

19. 主なる神を愛さない。真の喜びは、神を知りこの世においても、神の国においても、主なる神に奉仕することからくる。人の本分は、神に栄光を帰し、永遠に主と共にいることを喜ぶことである。主イエスは言われた、「私の食べものは神の御心を行い、それを成し遂げることである」。罪の喜びは悲惨さと絶望を招くだけの単なる妄想に過ぎない。イエス・キリストは、我々を本当に幸せにするために来られたのである。主イエスは言われた、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28–30)。罪の生活の喜びに本当の安らぎはない。

詩編の作者は言っている、「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である」(詩篇73:25–26)。パウロは書いている、「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、糞土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためである」(ピリピ3:8)。以前にも述べたように、主なる神との安らぎに来るまで不安にさいなまれ続ける。テサロニケの信仰者は、「偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった」のである(1テサロニケ1:9)。

20. 見せかけの敬虔。真の敬虔は主イエスのようなものである。世俗は、この世界の神である悪魔のようになることである。パウロが言っている背教者は、かつて教会に参加していたか属していた。しかし、見せかけの信仰者であったのだ。コラ、アカン、ユダ、デマスのように、敬虔な信仰者のふりをしていただけで、人々を欺いていた。本当は、羊の服を着たオオカミである。すべてが自分を見せるためのショーであって、偽善者だったのである。彼らはパリサイ人であり、天から来られた救い主を必要とは考えてはない。彼らは自分たちの汚れた良い行いに頼るのである。

パウロはそのような者たちについて別の箇所でも語っている、「彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である」(テトス1:16)。主イエスは彼らを責めて言っておられる、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。」(マタイ23:25, 27)。イエスはまた、「彼らの結ぶ実によって判断できる」と言われた。

21. 福音の力を否定する。真に福音を信じることは、人を真の敬虔さに導く(テトス1:1)。これらの偽善者たちは、聖霊が敬虔に至らせるというその力を否定し、拒絶する。もし神が我々を救われるなら、我わらは本当に聖なる生活を送るようになる。聖霊が我々を再生され、悔い改めと信仰によって生きるようになる。聖霊は我々の内に住み、私啓発し、自分の意志で喜んで主イエスを愛する力を与えられる。清い生活をしない名ばかりのキリスト者は、偽善者であり、悪魔の子であり、悪魔の意志を行うために捕らわれた者である(2テモテ2:25-26)。即ち悪霊に取りつかれた者である。

彼らと関わりをもつな

最後に、パウロはテモテとすべての牧師と真の信仰者に、イエスの福音から遠ざかる背教者と何の関係も持たないようにと命じている。これらの背教者は悔い改めない。彼らはすでに神から拒否されている。サタンに従うようになった彼らは、いずれサタンに引き渡される。彼らは、教会から追放されるべきである。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」(1コリント15:33)。パウロは書いている、「しかし、愚かな議論と、系図と、争いと、律法についての論争とを、避けなさい。それらは無益かつ空虚なことである。異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい。たしかに、こういう人たちは、邪道に陥り、自ら悪と知りつつも、罪を犯しているからである」(テトス3:9–11)。教会はそのような者たちを非難することはない。彼らは自らが避難されるのである。そして、彼らが再び悔改めにたち帰ることは不可能である。(へブル6:4–6). へブル書は言っている、「神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである」(へブル10:29, 31)。

だから、神の恵みによって、神の御心を聞いて行い、自分の召命と神の民であることを確かめられるようにしよう。我々は裁きの日に、主イエスから「呪われた者よ。私から離れ去れ。悪魔とその御使いたちのために準備された永遠の火に入れ」と宣言される者となるのではなく、「祝福された者よ。あなたに委ねられている財産を受け取りなさい。世の創造以来、あなたのために用意されている神の国へ入りなさい」と宣言される者となろう。