力ある神の言葉

2 Timothy 3:14-17
P. G. Mathew | Saturday, June 25, 2016
Copyright © 2016, P. G. Mathew
Language [English]

神の言葉よりも大切なものはない。17世紀のウェストミンスター信仰告白の最初の章に述べられているように、神の言葉は、新約聖書の旧約聖書である。神の語られる言葉を詩篇の作者はこのように言っている、「これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い」(詩篇19:10)。次のように宣言している、「それゆえ、わたしは金よりも、純金よりもまさってあなたの戒めを愛します。それゆえ、わたしは、あなたのもろもろのさとしにしたがって、正しき道に歩み、すべての偽りの道を憎みます」(詩篇119:127–128)。つまり、「正しく歩め」と命令している。

神の言葉は、世界で最も貴重なものであり、強力で無敵である。パウロは言う、「わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破る」(2コリント10:4)。神のことばという強力な武器を用いるようにとパウロはテモテに教えている。「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている」(2テモテ3:15)。ローマの教会にパウロは書いている、「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」(ローマ1:16)。

この2テモテ3:14–17から、神の力あるみことばについて7つのポイントを教えている。

1.神の言葉にとどまる/生きる(14節)

パウロは次のように始めている、「しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っている」(14節)。パウロはテモテに「神の言葉にとどまり、神の言葉を実践し、神の言葉に従え」と命令している。これによって祝福されるためである。

パウロは、悪霊に影響された偽りの牧師たちが、悪い状態から最悪に向かい、教会員を惑わして自分自身も欺いていると知っていた。このような人々は決して神の言葉の真理を教えないのである。彼らは悪魔に惑わされており、自らの嘘で人々を欺くことになるのである。そのような詐欺師や悪魔の代理人とは全く違っていなければならないとパウロは言っている。旧約聖書と福音から学んだことによって、生活すべてを制御しなければならないのである。信仰に立ち、良心をもって行動せよ、と警告している、「ある人々は、正しい良心を捨てたため、信仰の破船に会った」(1テモテ1:19)。

他の箇所でも同様にパウロはテモテに教えている、「あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい」(2 テモテ2:15)。神が真実であり、全ての人間は偽善者である。ヨハネは次のように書いている、「すべてキリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者は、神を持っていないのである。その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ」(2ヨハネ1:9)。ヨハネは勧めている、「初めから聞いたことが、あなたがたのうちに、とどまるようにしなさい。初めから聞いたことが、あなたがたのうちにとどまっておれば、あなたがたも御子と父とのうちに、とどまることになる」(1ヨハネ2:24)。

神の言葉を守れ、とテモテとコロサイの兄弟にパウロは教えている、「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロサイ3:16)。テモテは神の言葉を信じ、神の言葉を生き、神の言葉を宣べ伝え、いつも神の言葉によって支配されていた。神のみが真実なので、神の言葉は真実である。

テモテは聖書を学ぶだけでなく、聖霊の働きによって神の言葉が真実であることを確信した。我々は神の言葉を読むだけでなく、御聖霊が我々の心に働いて、神の言葉が真実であると確信する。

我々は御聖霊を信じる。聖霊は我々を満たし、我々の心に内在される。御聖霊は我々を再生される。聖書を読んでいる時、我々を教え、御聖霊の働きによって、神の言葉の真実を確信する。御聖霊は我々に救いを適用される。したがって、御聖霊は単なる理論や教義ではなく 無限我々個々人の中に住み、我々を導かれるのである。

テモテは、聖書を学んだ人たちを心にとめ、その人達の性格や敬虔さ、道徳的なふるまいにも目を配る必要があった。へブル書にも記録されている、「神の言をあなたがたに語った指導者たちのことを、いつも思い起しなさい。彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい」(へブル13:7)。

テモテは誰から聖書を学んだの? 彼は祖母ロイス、母親ユーニス、特にキリストの使徒パウロ自身から学んだ。パウロはテモテに言っている、「わたしは、この福音のために立てられて、その宣教者、使徒、教師になった」(2テモテ1:11)。パウロの働きでテモテは、「信仰による真実の子」(1テモテ1:2)となったといっている。

主イエス・キリストについてのすべての真実を教えた教師たちに倣うように、とパウロはテモテに書いている、「あなたは、キリスト・イエスに対する信仰と愛とをもって、わたしから聞いた健全な言葉を模範にしなさい。そして、あなたにゆだねられている尊いものを、わたしたちの内に宿っている聖霊によって守りなさい」(2テモテ1:13–14)。そして、「あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい」(2テモテ2:2)と教え、「あなたは、わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐をつくせ」と命令している(2テモテ3:10)。テモテに課せられた義務は、指導者パウロの言う通りに従うことであった。

具体的には以下に列記するように、喜んで聖書に従い、聖書に支配された歩みを続けたのである:

  1. 福音を恥と思わない(2テモテ1:8)我々は福音を恥じる必要がどこにあるだろうか? 我々が世の中を重んじるとき、世界の普通の価値観を重んじるとき、そのときこそ我々は自らを恥じるべきである。しかし、我々は世の中に信頼を置いていない。全世界は悪の支配下にある。パウロは言っている、「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」(ローマ1:16)。パウロは福音を誇りに思っていた。なぜなら、神の怒りから救えるものは他にないことを熟知していたからである。
  2. 福音の為に苦しむ (2テモテ1:8)。
  3. 福音を人々に伝える (2 Tim. 1:11)。
  4. 福音を守る (2 Tim. 1:14)。
  5. 福音を正しく学び、正しく教える (2 Tim. 2:15)。
  6. 福音を忠実な人々に委ねる(2 Tim. 2:2)。
  7. 神の言葉、真実の言葉であり、朗報である福音を教える。福音は、人々を賢明にし、救を与える健全な事実である(2 Tim. 2:2)。だから、ほかの者たちにも教えられる忠実な人々に、福音をゆだねよ。

パウロは奨める、「わたしの第一回の弁明の際には、わたしに味方をする者はひとりもなく、みなわたしを捨てて行った。どうか、彼らが、そのために責められることがないように」(1テモテ4:16)。そして主イエスご自身が言っておられる、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」(John 15:7)。神の言葉にとどまるとは、神の言葉に従うことである。

テモテのように、我々は福音に従い、忍耐して福音を守り通すべきである。神の言葉に従う者には祝福が来るのである。だから、神に従って祝福されよ!レビ記26章、申命記28章を読み、服従と呪い、祝福に関する聖書の命令を学べ。

2.福音は人を救う力が強大である

パウロはテモテに書いている、「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている」(15節)。第2に、神の言葉は人を救い癒す力が強いという事実である。人を癒すことば、それは神の言葉、即ち福音である。これをもって彼らを力づけたのである。「み言葉は、彼らを癒し、彼らを滅びから助け出された」(詩篇107:20)。

テモテが5歳ぐらいの幼児期から聖書を学んでいたことを思い起こさせて、聖書が神の言葉であることをパウロは教えている。「聖い神の言葉」の「聖い」というところを強調している。聖書は聖い。なぜなら神ご自身が聖い方だからだ。

特に、来るべきキリストの救いを語った旧約聖書をここでは指している。キリストの完全な服従と十字架上の死は、我々の代わりに行われた神の業である。世界の罪を取り除く神の子羊であるキリスト。我々の償いを完成されたのである。のみならず、旧約聖書はキリストの復活についても述べている、「主イエスは彼らに対して言われた、『わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する』。そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、『こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる』」(ルカ24:44–47)。パウロは言っている、 「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された」(ローマ3:21)。 使徒行伝17:2–3にこう書かれている、「パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また『わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである』とのことを、説明もし、論証もした」。主イエスがサマリヤの罪深い女性に言ったことを見よ、「女はイエスに言った、『わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう』。イエスは女に言われた、『あなたと話をしているこのわたしが、それである』」(ヨハネ4:25–26)。イエスはご自身が救い主であると言われたで、女は信じ救われたのである。

聖書には旧約と新約の両方が含まれる。聖書は、罪、罪からくる呵責、死、悪魔、神の怒りからの救いについて賢明に教えている。聖書は、死を滅ぼし、信じるすべての者に対し、甦えりを与えられたイエス・キリストを指し示している。主イエスを信頼し、従う罪人を義とし、神の怒りを受けるべきであった人を救ってくださったのである。

イエスとは誰か? 主イエスは、「私はある」というご自身である。命のパン、イスラエルの王、神の御子、救い主、世界の唯一の希望、羊の門である。彼は良い羊飼い、復活であり命、道であり真実。誰も彼を通してでなければ、父なる神のもとには来られない。真のブドウである。主イエスを離れては、誰も聖なる三位一体の神を喜ばせることはできない。すべての創造主であり、常に被造物を維持しておられ、即ち神ご自身であられるのだ。 彼は神の言葉そのものである。この主イエスは、我々の罪のために死に、我々の正義のために復活された。彼は生きている者と死んだ者の裁判官である。彼は再び来る。

聖書はすべて主イエスを指し示しており、神は聖書によってご自分の民を救うための知恵を与えられたのである。詩編作者は、書いている、「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする」(詩篇19:7)。ここで言われる「無学な」とは、邪悪な者と愚かな者を意味する。

世界は、まさに愚かな富豪、愚かな教育者、邪悪な政治家、邪悪な宗教家、愚かな科学者で満ちている。世界の人々の大半は、愚か者である。つまり、神を敬遠する邪悪な者である。パウロは書いている、「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に、『わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする』と書いてある。 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか」(1コリント1:18–20)。

イエス・キリストだけが、救い、即ち霊の再生の奇跡を与える。このように真に賢明にするする業を、ヤコブはこう言っている、「父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである」(ヤコブ1:18)。 ペテロも言っている、「あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである」(1ペテロ1:23)。主イエスご自身は言っておられる、「イエスは答えられた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない』(ヨハネ3:5)。

イエスは彼を信じる者を救われる。信仰によって、我々は救いの賜物を受ける。キリスト・イエスは救いの基礎、源泉であり、彼を信頼する信仰はその手段である。だから、我々はイエスを信じ、生活のすべてで彼に従う(ローマ1:5).

キリストに従わない単なる口だけの信仰は、救いを与えない。実際、それは悪魔の信仰である(ヤコブ2:19)。聖書は神の言葉であり、我々の生活における究極の権威である。救いにおいて、イエスのみを信頼する者は、聖書を信頼する。

モーセがこのように言っていることを考えよ。「あなたがたはわたしが、きょう、あなたがたに命じるこのすべての言葉を心におさめ、子供たちにもこの律法のすべての言葉を守り行うことを命じなければならない。この言葉はあなたがたにとって、むなしい言葉ではない。これはあなたがたのいのちである。この言葉により、あなたがたはヨルダンを渡って行って取る地で、長く命を保つことができるであろう」(申命記32:45–47)。

あなたは本当に賢いか? 永遠の救いのため、イエス・キリストだけを信頼しているか? ヨハネは言った、「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(ヨハネ20:31). イエスの名によって命をいているか?

3.聖書の源

パウロは言う、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」(2テモテ3:16–17). 聖書はすべて神の息(セオプニュートス)がかかっている。聖書の源は神である。聖書は神の創造的な息の産物である。したがって、それは神の言葉である。聖書の言葉によって、神自身が我々に話される。聖書は神の言葉である。

4.聖書の性質

聖書に7つの性質がある。

  1. 聖書に誤りがない。聖書の無誤性。
  2. 聖書の明確性(明瞭性)。神の言葉はすべての人々明らかである。しかし、神の言葉に信頼する選びの民のみに救いをもたらす。信じない者は、聖書が言う神についての真理を理解はするが、その真理を受け入れず、自らが神の敵としてふるまう。
  3. 聖書の必要性。聖書がなければ我々は救われない。
  4. 聖書の十分性。聖書に何かをつけ加えることも、取り去ることもできない。
  5. 聖書の力。宇宙は神の言葉によって創造されただけでなく、神の言葉を信じるすべての人を救う神の力である。
  6. 聖書の完全性。聖書は生活、人生全てに包括的に関わる。
  7. 聖書の権威。神の言葉は絶対的な権威を持っている。なぜなら、神自身が話しておられる言葉だからである。

5.聖書は全て神の息がかかっている

16節で、パウロは、聖書は全て(ギリシャ語で、パサ グラフィ)神の息がかかっている、といっている。人間の言葉ではなく、神の言葉である。ペテロは言っている、「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が(完全に)聖霊に感じ(支配され)、神によって語ったものだからである」(2ペテロ1:20–21)。

使徒たちと預言者たちが全体として書いたことは、神の言葉である。旧約聖書も新約聖書も同様である。ペテロは言っている、「また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている」(2ペテロ3:15–16)。ペテロはパウロの記述したものが神の言葉であると肯定している。これらは聖書である。

パウロは、自身が書いている書簡を、神によって書かされていると意識していた。コリントの教会に彼は書いている、「もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである。もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視される」(1コリント14:37–38)。テトス1:14でパウロは言っている、「ユダヤ人の作り話や、真理からそれていった人々の定めなどに、気をとられることがないようにさせなさい」パウロが書いたことは、彼自身の意見ではない。それは神の命令である。1テモテ5:18に彼は書いている、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」また「働き人がその報酬を受けるのは当然である」。ここでパウロは聖書を2箇所引用している。一つは、申命記25:4:「脱穀をする牛にくつこを掛けてはならない」、もう一つは、ルカ10:7で主イエスが語られている言葉:「働き人がその報いを得るのは当然である」。ここで引用の言葉は、主イエスが語られた言葉であり、モーセが語った言葉でもある。だから、パサ グラフィ、新約も旧約も聖書全体は神のことばである。

他の箇所でパウロは書いている、「この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである」(1コリント2:13)。パウロは、聖霊に導かれて書いているのである。それが、聖書であることを彼は知っていた。「あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい」(2テサロニケ2:15)。こうも書いている、「この手紙があなたがたの所で朗読されたら、ラオデキヤの教会でも朗読されるように、取り計らってほしい。またラオデキヤからまわって来る手紙を、あなたがたも朗読してほしい」(コロサイ4:16)。パウロは、神の戒めが教会で読まれるようにと、書簡にはっきりと命令している。テモテに言っている、「わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい」(1 Tim. 4:13)。

6.聖書は全て有益で価値があり、実際的である

16節には、神の言葉が有益で価値があると書かれている。愚かな者や聖書を拒否する者には有益ではない。しかし、神の民には有益である。それは金よりも貴重なのである。

他の箇所でパウロは書いている、「からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる」(1テモテ4:8)。彼はフェリモス「有益」という同じ言葉を繰り返し使っている。愚かな者はこの世に希望を託している。しかし、彼らには本当の希望も神もない。彼らの希望は、死ぬまでに可能な限り人生を楽しむこと、それだけが彼らの黄金時代である。本当なら、「救われるためには、私は一体何をしなければならないのですか?」と尋ねるべきである。答えは「主イエス・キリストを信じて、あなたが救われる」ということである。

神の言葉は、信じる者にとって非常に有益である。パウロは言う、「これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰の言葉とあなたの従ってきた良い教の言葉とに養われて、キリスト・イエスのよい奉仕者になるであろう」(1テモテ4:6)。

教え導くのに有益

神の言葉は何のために有益か? 第一に、教え導くことに有益である。父、母、牧師、信仰の友として、我々はお互いに聖書をもって教え導く使命がある。でないと、まず我々は救いに導かれない。主なる神を信じないのに、その名を呼ぶこともないし、神の名を聞いていないなら、信じることもできない。その神の言葉をだれかが説かなければ、神の名を聞くことがなく、説く者が送られない限り説かれない。神は、福音を伝えるために天使たちを送られない。神は人間を送られる。したがって、貴重な神の言葉を伝える説教者や伝道者を我々は尊敬しなければならない。

パウロは繰り返し聖書が有益であると書簡を通して語っている:

  1. 1テモテ4:16: 「自分のことと教のこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれば、あなたは、自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる。」
  2. 1テモテ6:3–4: 「もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば、彼は高慢であって、何も知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。」
  3. 2テモテ2:2: 「そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。」
  4. 2テモテ2:15: 「あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。」

教えること、それは第一に重要なことである:初期の使徒等はこうであった、「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた」(使徒行伝2:42)。神は、感情的で神秘に陶酔する愚かな状態に人を導かない。我々には知性が与えられており、それを優先すべきである。主なる神は、永遠の救いのためにイエス・キリストのみに信頼する、その福音を我々が理解することをまず願っておられるのである。 そういうわけで、説教し、教えることが重要である。

パウロは書いている、「これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである」(ローマ15:4)。すべてが崩れても、神の民は希望を持っている。

戒めるのに有益

聖書は教えるだけでなく、戒め(プロス エレグモン)のためにも有益である。我々を叱責する人には感謝しなければならないのだ。エレミヤ1:10によると、牧師の仕事の50%以上が、人を戒め、正すことである(マシュー牧師の解釈)。なぜ牧師は叱責しないとならないのか?牧師は、愛に基づいて叱責する。我々は、偽りの教師や指導者の誤りを明らかにして、人々が迷子にならないようにしなければならないのだ。

聖書は我々の判断基準である。教えや倫理も、聖書から逸脱していたら叱責すべきである。詩編の記述者は言っている、「あなたは罪を責めて人を懲らされるとき、その慕い喜ぶものを、しみが食うように、消し滅ぼされるのです。まことにすべての人は息にすぎません(詩篇39:11)。パウロも書いている、「罪を犯した者に対しては、ほかの人々も恐れをいだくに至るために、すべての人の前でその罪をとがめるべきである」(1テモテ5:20)。また、「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」(2テモテ 4:2)。だからこそ、我々を戒める人たちが気遣ってくれているので、感謝しなければならない。子供たちを罪深い状態に放置する親は、「教え、戒め、正しくし、義に導く」義務を怠ったことを最後に弁解することとなるのだ。

聖書に従わない者は、叱責して正される必要がある。家族、地域、および教会でどのように生活すべきかを聖書がはっきり教えている。子供、妻、夫、父親がどうあるべきかを全てはっきり聖書は書いている(エペソ5:18–6:4)。例えば、夫が自分の妻や子供のために生活の糧を与えるべきことも教えている。「もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい」(1テモテ5:8)。主の聖日には、主なる神を礼拝すべきである、と教えている (へブル11:25)。

正すのに有益

聖書は正すことに有益である。ギリシャ語、「プロス エパノルソシン」は、「物事を正しく設定」すると訳され、叱責の積極的な側面を意味する。

積極的に正す、それは我々の教えも行動も真っ直ぐにすべきだということである。たとえば、妻が夫に従わない場合、妻はそれを正し、夫に従うことを習慣にするまでやり直す必要があるということである。ジェイ・アダムス教授は、人が6週間正しいことをしたら、それは習慣になると教えている。我々は正しく物事を行うのを自然なこととしたい。

パウロはテトス1:5に書いている、「あなたをクレテにおいてきたのは、わたしがあなたに命じておいたように、そこにし残してあることを整理してもらい、また、町々に長老を立ててもらうためにほかならない」。指導者がいないと混乱がおこる。教会は長老などの指導者によって指導されるべきである。国家も、神が任命した代理人によって統治されるようになっている。家族は、父によって指導されるべきである。キリスト者の家庭は、無秩序ではなく、秩序ある所である。それは神の国であり、神の支配が及ぶ所である。

曲がったもことすべては、福音の適用を通してまっすぐにされるのである。ルカ3:5 にはこう書かれている、「すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされる」。だからパウロは命令している、「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」(エペソ4:28)。主イエスは復活の後、ペテロと会い正された、「『ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか』。ペテロは言った、『主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです』。イエスは彼に『わたしの小羊を養いなさい』と言われた。またもう一度彼に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。彼はイエスに言った、『主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を飼いなさい』。イエスは三度目に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。ペテロは『わたしを愛するか』とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、『主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を養いなさい』」(ヨハネ21:15–17)。神に感謝せよ。主イエスは、我々を真っ直ぐなるよう正されたのである。教会の兄弟姉妹もその権限を帯びている。我々も、お互いに正し合う権限を帯びているのだ。キリストを信じる者として、互に訓戒し、導き合う権限と力が与えられているのである (ローマ15:14)。

黙示録2~3章では、主イエスがアジア州の教会を正す様子が示されている。主イエスは、燃えるような火の目で全てを見抜き、真っすぐにすべきことを命令される。真っすぐにしなければ、彼らの燭台を取り除かれる。そして、実際に燭台は取り除かれた。現在、トルコ地域には、かつてのように多くの教会はない。

義に導くのに有益

聖書は教え、戒め、正すのみならず、義に導く(プロス バイデイアン)にも有益である。即ち、不道徳を戒め、正義を行わせるのに有益である。

そこで、「子供たち、あなたの両親に従いなさい」と書いてあるように(エペソ6:4)、子供が自転車に乗る訓練のように、親に従うよう正しく訓練すべきである。そのような訓練は容易ではない。子供は自転車から落ちるかもしれないが、倒れても乗りなおすように言わなければならず、何度もやり直す必要がある。しかし、すぐに子供たちは自転車に乗れるようになるのである。同様に、子供たちは父と母の言うことを聞くようになるべきである。両親は、彼らに「不従順と邪悪は許さない」と言うべきである。我々は誰であるかを理解しなければならない。我々は神の代理人である。

何度も何度も正すべきである。神の代理人なのだ。箴言3:11–12にある、「わが子よ、主の懲しめを軽んじてはならない、その戒めをきらってはならない。主は、愛する者を、戒められるからである、あたかも父がその愛する子を戒めるように」。訓練には3つの側面がある。まず権威である。父親や母親や牧師を敬わず、その権威に服さないなら、その子は終わりである。そのような者は遅かれ早かれ教会から離れるであろう。ユダの例を考えてみよう。悪魔は彼をそそのかして忍び込んだ。そしてユダは出ていって、結局夜中に自殺した。これは福音を伝道している教会から出て行くすべての人間に起こる。このような人々は、罪を犯そうと教会を離れ、放蕩息子のように遠く離れて罪を犯す。

第二に、その権威は神の言葉を教えなければならない。神の言葉がどう教えているかをはっきり教える責任がある。第三は執行にほかならない。我々は神の言葉に従うように、痛みを伴う訓練をもって命令すべきである。聖書は教えている、「あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである」 (1コリント11:30)。教会が怠慢で、訓練を拒否したとしても、主なる神はますますプレッシャーをかけるかたである(レビ26章28節参照)。

我々は、心理学やその他世俗的な学問ではなく、神の言葉に明らかにされていることに従って、神の目の前に正しいことを行わなければならない。ヘブル人への手紙12章に教えられている、次の訓練を忘れてはならない。

「また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、『わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである』。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである」(へブル12:5–10)。

神の目的は、我々をイエス・キリストのように清くすることである。我々を正しく、清くするのだ。こう書いてある、「あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならない。そうすれば、あなたはさいわいを得、かつ主があなたの先祖に誓われた、あの良い地にはいって、自分のものとすることができるであろう」(申命記6:18)。

神の目に正しいことを行うべきである、「もしわれわれが、命じられたとおりに、このすべての命令をわれわれの神、主の前に守って行うならば、それはわれわれの義となるであろう」(申命記6:25)。これは実際的な正しさについて語っている。自分自身を調べてみてどうであろう、正義を行っているだろうか? これは我々の救いのための神の義の賜物のことではない。神が我々を救った証拠は、我々が神の言葉に従うかどうかに表れる。神に従わなければ、私たちは救われていないのである。

へブル書は言っている、「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(へブル12:11)。

7.最終的な目的

最後に命令の目的が17節に書いてある:「それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」。「神の人」は、両親、信仰者、特に牧師を指す。1テモテ6:11に、神の人は有能でなければならないとある。 多くの閣ほとんどの牧師は無能である。彼らは敬虔でもなければ、ちゃんと学んでもいない。彼らは、本当にはキリストによって呼び出され送りだされてはいない。

真の牧師は教会に対するキリストの賜物である。真の牧師は、聖書の言葉を説くため、キリストによって呼び出され、送られている。でなければ誰も救われることがない。聖書を教え、正しく解釈するよう呼び出されている。本当の牧師は正しく聖書を解釈し、罪ある人間が救いのため悔い改めてキリストを信じるよう、キリストを大胆に説教する。真の牧師は聖霊とみ言葉で満たされている必要がある。

したがって、聖書の目的は、神の人がなすべき使命をすべて行う能力を与えることである。聖書の言うことを心から信じると、牧師を含めて信じる全ての者が神の命じられることを行えるようになるのである。パウロは書いている、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」(エペソ 2:10)。神によって生まれたものは、全て良い行いの道を歩む。

神の言葉は、特に真の牧師によって説教されるとき効果を発揮する。パウロは言う、「後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか」(2コリント2:16)。言い換えれば、説教によっては殺しもするし、生かしもするのである。パウロはこう尋ねている、「誰がそのような牧師の能力があるのか?」答えは、神自身がその能力を与えるということである。神は牧師を選び、能力を与えて、送り出される。こう書いてある、「もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす」(2コリント3:5–6)。パウロは言う、「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである」(2コリント9:8)。パウロは自分の弱さについて、主に祈って言った、「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」(2コリント12:9)。そして、ピリピの信徒に向けて書いた、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)。

死に至るまでみ言葉を説教するように、神はパウロに能力を与えられた。パウロの最後の言葉を考えよう:「わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう」(2テモテ4:6–8)。

聖霊と聖書で満ちた我々は、神の栄光と我々の永遠の喜びのため、神の御心を行うことができる。キリストと共に、あらゆることに勝ちえて余りある者となる。キリストが木で、我々はその枝であり、父なる神の栄光のために多くの実を結ぶべきである。キリストを離れては、何もすることもできないが、イエス・キリストは我々の生活、我々の能力、叡智、義、聖、栄光である。キリストがすべてを満たされるのである。神をほめたたえよ! そして、福音のために良い働きをする能力を我々に与える。それは、我々のある者は殉教に至る働きかもしれない。

み言葉と聖霊に満ち、主に従い、多くの実を結ぶことによって、主に栄光をもたらすように助けていただけるよう祈ります。

1 2016年6月24日のマシュー