岩なる主イエスの働き
1 Peter 2:4-8P. G. Mathew | Sunday, March 12, 2017
Copyright © 2017, P. G. Mathew
Language [English]
1ペテロ2:4-8は、イエス・キリストが生きた岩であると言っている。旧約聖書の預言にもそう書かれている(詩篇118:22; イザヤ書8:14; 28:16)。天においても地においても権威を持たれる方、岩なる主イエスの働きは2つある。
信じる者全てを救うため、主イエスはまず、「わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」(ローマ4:25)。主イエスだけが、甦りであり命である(ヨハネ11:25)。道、真理、命であり、主イエスを通ってでなければ、だれも父なる神のもとに行くことはできない(ヨハネ14:6)。ペテロは言った、 「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒言行録4:12)。永遠の命は神のひとり子にある。ヨハネは、「御子を持つ者は命を持つ」と言っている(1ヨハネ5:12)。主イエスご自身も言われた、「わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがない」。会衆は、優しく、権威と清さに満ちている主イエスを知っていた。それはペテロの手紙から明らかである。彼らは生きた福音の言葉、不朽の主の言葉で生まれ変わった。罪を悔い改め、イエス・キリストのみを信頼し、永遠に救われた。神の御言葉という霊的に純粋な栄養を十分とっているので、救いの知識において急成長していた。
主は選びの罪人たちを救われるが、罪を悔い改めず、キリストへの信頼を拒否する大多数人々を裁かれる。これら後者の邪悪な罪人たちは、「主とは誰か?その者を信じてなぜ従うべきなのか?」と尋ねる。エジプトのパロと同じように心をかたくなにする。それは主なる神が彼らの心をかたくなのままに置かれ、そして彼らを裁かれるのである。断罪します。「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」(ヨハネ3:36)。主イエスを救い主としないならば、我々は主を審判者として経験することになる。この岩なる主イエスに信頼せよ。そうでなければ、この岩は我々を押しつぶす。
それが我々の直面する選択である。主イエスの寛大なる招きを受け入れよ。こう言っておられる、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28–30)。こうも言っておられる、「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10:10)。
では、この箇所から、生ける岩であるイエス・キリストに関する3つの点を考えよう。
イエス・キリスト、生ける岩
「あなたがたは生ける岩のところに来たのである」とペテロは書き始めている(4節)。罪人である我々人間は、回心して救い主であるイエス・キリストを人生に招き始めた。主イエスは、罪のうちに死んでいる我々を生き返らせる。主イエス自身が、埋葬されたラザロを生き返らせた復活の神のことばである。彼自身が復活であり命である。
霊的に死んでいる人は、一体どのようにして主イエスのところに来るのか? 主ご自身が言われた、「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ6:44)。主が引き寄せられるのである。これこそが、有効な召命である。わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」(ヨハネ12:32)。父なる神は我々を引き寄せ、御子キリストは私たちを導き、聖霊は我々を再生し、悔い改めて、信仰を授けて救われる。これが、悔い改めて主イエス・キリストを信じて救われる理由である。
イエス・キリストは生ける岩であるから、すべて彼に来る者を永遠に生かされる。父なる神は、主イエスを死から甦らせた。それは我々の罪を解決するためである。また、主イエスはぶどうの木で、我々はその枝である。主イエスの命が我々に流れてくる。我々は、豊かに実を結ぶことができる。我々と共におられるキリストのゆえに、我々は神の意志をすべて実行できる。「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」のである(ピリピ4:13)。即ち、復活の主イエスの命のゆえに、我々は生ける岩となっているのである。岩であって、もてあそばれることはない。聖霊の力が我々を再生し、新しい心、新しい性質を与えられた。聖霊は我々に内在し、力を与え、真の啓蒙を与えられる。主イエス・キリストの狭い道を行くように導かれる。
ペテロはこう言っている、「主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である」(4節)。主イエスは神の民ではない邪悪な者によって拒否された。人々は聖書を読み、福音を、イエスのことを聞き、聖なる教会神が選ばれた牧師が説く教えを聞いた。即ち、主イエスが行われた奇跡的業と確かな教えに直面した。しかし、これらイスラエルの長老、司祭、ファリサイ派、サドカイ派、そして王ピラトは、最終的に主イエスを拒み、十字架につけた。預言の通り、3日目に主イエスが死から甦えられたことまで知ったのであるが、それでもイエスを信じ、主として告白することを拒否した。
しかし、この生ける岩は、父なる神によって選ばれた神の子である。彼の死と復活によって我々を贖うため、神の永遠の業を行うため選ばれた救い主である。神によって選ばれました。だから、このように書いてある、「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす」(イザヤ書42:1)。 そして、新約聖書にはこのように記録されている、「彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け』」(マタイ17:5)。我々は他の人に耳を傾けがちであるが、本当に耳を傾けるべきは、イエス・キリスト唯一人である。主イエスの言われることを聞け!ペテロは言っている、「キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである」(1ペテロ1:20)。従って、我々もまた主イエス・キリストにあって選ばれた。ペテロは「イエス・キリストの使徒ペテロから神の選びの民へ」と書き始めている(1ペテロ1:1)。パウロは、「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選ばれた」と言っている。(エペソ1:4)。我々はイエス・キリストにあって選ばれた。
主なる神にとってイエス・キリストは栄光に富んだ高価な御子である。あなたは、そのイエス・キリストに栄光を帰し、彼に従うか?最も価値が高い真珠のような宝であるイエスご自身が言っておられる、「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである(マタイ13:44–46)。これは、ご自身のことを言っておら得るのである。主イエスは宝である。
キリスト者として、我々は世界中で最も金持ちの不信者よりも豊かである。それはなぜか?我々には主なる神がおられるからである。世界で最も貧しい者とは、永遠の救いであるイエス・キリストを信じない人たちである。そして、主イエスを信じる我々も神の宝である。「宝」は、へブル語でセグラーと言う。主は言われた、「それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」(出エジプト記19:5–6)。旧約聖書にある、「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ」(マラキ書3:17)。即ち我々は大切にされている宝物である。主なる神は我らの宝であり、我々も主なる神の宝である。
キリストが我々を招かれると、我々はキリストのもとに来る。父御子御霊の、三位一体の主なる神は我々に力を与えられる。主は失われた者を探し求め、命を与え救う霊である。彼は身分の高い者にも低い者にも、そして悪霊にとらわれた者にすら救いを与える方である。我々人間は、罪に死んでおり、罪に対する主なる神の怒りから救われなければならないのである。主なる神のもとに来る者は、本当に生きた者とされるのである。
そこでペテロは言っている、「この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい」(1ペテロ2:5)。イエス・キリスト、即ち大いなる石(岩)の上に教会を建てられるのである。ペテロは「岩」という意味であるが、基礎に据えられる岩ではない。キリストはその岩に命を与えられる。そして、イエス・キリストご自身が基礎となられて、その上に教会が築かれるのである。
キリストはユダヤ人をはじめ異邦人からも霊的な岩を招き入れて、霊的な家である教会を建てられる。そこには何の差別もない。パウロは書いている、「そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである」(コロサイ3:11)。聖霊はキリスト者に内在しておられる。パウロは言う、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか?」(1コリント3:16)。真の信仰者は生ける岩である。それが教会を建てる。したがって、信仰者の確かな基礎はキリストである。言い換えれば、教会を建て上げる信仰者は、自分勝手に動く存在ではない。本当の信仰者はキリストを愛し、教会のあらゆる信仰者の仲間をも愛する。1人のメンバーが苦しむならば、すべてが苦しみ、1人が喜ぶならば、すべてが喜ぶ。
キリストが建てる霊的な家である教会には、いい加減な生き方をする岩はない。いい加減な岩とは、時に流されあちらやこちらへと流される人のことである。そのような者のことをヨハネは次のように書いている、「彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである」(1ヨハネ2:19)。しかし神の教会に属する者たちは教会を立ち上げる。パウロは言っている、キリストの教会は「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである」(エペソ2:20–22)。
この生ける岩でできている建物は聖なる場所であり、全ての信仰者は、老若男女や貧富に拘わらず、主に仕える祭司である。主なる神が聖なる方だから、その祭司も聖くあるべきである。
アンチノミアニズム(反律法主義)今日の福音世界における支配的な神学であり、改革派の教会にも蔓延している。ほとんどの牧師は聖なる生活について話さない。しかし、聖霊が教会におられるならば、我々は聖くあるべきで、聖い生活をする必要がある。神は言われた、「私は聖なるものであるから、あなた方も聖なる者でなければならない」。アンチノミアニズムが教える「一方的な神の愛」を支持する者は、やがて主イエスが来られる時に、その誤りについて申し開きをしなければならい。「そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイ7:23)。
主イエス・キリストが建てられる教会には教皇や司教はいない。すべての信仰者は、恵みの御座に来ることができる祭司である。だからへブルの手紙の著者は書いている、「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(へブル 4:16). He also says,「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」(へブル7:25)。
我々は、聖なる祭司である。キリストに信頼する者はだれでも本当の祭司である。こう書いてある、「わたしたちの神に仕えるために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました」(ヨハネの黙示録 5:10). これは、神の民を神に仕えるにふさわしく整えるために、特に牧師や教師が教会に与えられていることである。聖なる神の奉仕者の目的は何か? それは霊的犠牲を提供することである。今日、礼拝で血まみれの犠牲を捧げる必要はない。ヘブル書に書いてある、「彼(主イエス)は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである」(へブル7:27)。キリストによる一度の犠牲が我々を義とするために必要十分である。しかし、我々は霊的な犠牲を捧げる必要がある。それらはどのようなものか?
- 我々の体をささげる。パウロは書いている、「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」(ローマ12:1)。我々は自分の体を使って好きなことをする権利はない。我々の体は代価を払って買いとられたのである。尊いキリストの血によって買い取られたのである(1ペテロ1:19)。
- 我々は福音伝道をしなければならない。福音伝道は礼拝なのである。パウロは言っている、「このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤めるためである」(ローマ15:16)。すべての信仰者は、福音を他の人々と分かち合う責任がある。救いを体験した者が、その福音をだれにも話すことができないかけがあろうか?我々は、家庭内、近隣地域、そしてその他の人々に福音を話す必要がある。御霊と力と権能に満たされて、罪人を罪から救うイエス・キリストを示す必要がある。
- 我々は自分に与えられている賜物を福音伝道に用いなければならない。パウロは書いている、「わたしは、すべての物を受けてあり余るほどである。エパフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りている。それは、かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である」(ピリピ4:18)。
- 我々は神を礼拝すべきである。へブル書の著者は言う、「わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか」(へブル13:15)。
- 我々は祈るべきである。へブル書の著者は言っている、「わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか(へブル4:16)。この天の国の幻について考えよ、「また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった」(ヨハネの黙示録8:3–4)。
- 我々は良き行いをし、必要をもつ人に分け与えるべきである。へブル書の著者は書いている、「そして、善を行うことと施しをすることとを、忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる」(へブル13:16)。我々は兄弟姉妹がが何も食べるものがないのに、そのまま通り過ぎてよいだろうか?
- 我々は神の前に悔いた心で出てくるべきである。詩篇の著者は言っている、「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」(詩篇51:17)。本当の悔い改めは犠牲を伴う。主なる神はそれを受け入れられる。
我々は主なる神に受け入れられる犠牲を捧げるべきである。世界中キリスト教会で、ほとんどの礼拝は神に受け入れられない(Mathew牧師の見方)。実際は、新生していない、信仰のない人々が礼拝しているのである。彼らの見せかけの礼拝は、神に受け入れられたアベルの犠牲のようではなく、拒否されたカインの犠牲のようなものである。
あなたの礼拝は主なる神に受け入れられているか?それとも、罪によって妨げられているか?主イエスは言われた、「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」(マタイ 5:23–24)。主はまた言われた、「また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださる」(マルコ11:25)。ペテロも教えている、「夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊びなさい。それは、あなたがたの祈が妨げられないためである」(1ペテロ3:7)。
悔い改めていない罪は、我々の礼拝を主なる神に受け入れていただけなくする。だから、教会に来る前に、我々は配偶者、子供、または他の人たちとの人間関係が正されていなければならない。そうでないと、主なる神は我々の礼拝を受け入れられない。キリストの犠牲は神に受け入れられたので、主なる神は彼を死から蘇らされた。
ペテロは、私たちがイエス・キリストを通じて霊的な捧げものである礼拝をすべきだと言っている。主なる神に受け入れていただける礼拝は、聖なるキリストによるしかない。主イエス・キリストは大祭司、神と人の間の唯一の仲介者である。我々が本当の礼拝ができるのは、主イエスの名によって父なる神のもとに来ることができるようになっているからである。自分の力で主なる恵みの御座に近づくことは誰にもできない。パウロは書いている、「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」(ローマ5:1–2)。キリストの死によって、神殿の幕が上から下へ2つに引き裂かれ、主なる神の臨在に与ることができるようになった。だから、我々には法王や司祭、司教に仲立ちとなってもらう必要がない。我々自身が、救いの岩なるキリストを通して司祭なのである。
イエス・キリストは救いの岩
ペテロは書いている、「『見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない』と書いてある。この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものである」(1ペテロ2:6–7a)。真の信仰者は主イエスのもとに来て初めて、主なる神が真に正しく良き神であられ、偉大で力ある方であることがわかる。主イエスは、我々の救いの主である(詩篇34:5,8)。しかし、正しい主なる神の前に自分の罪を悔い改めて、救い主であるイエスを信じる者に対してだけ、その通り救い主となられるのである。なぜなら、罪が清められて、主のもとに来ることができるようになるからである。疲れた者はイエス・キリストによって真の休息を得るのである。我々の罪の重荷に疲れた霊が、主イエス・キリストによって立ち上がる、と聖書は語っている。ペテロは聖書を引用して言う、「それゆえ、主なる神はこう言われる、『見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。信ずる者はあわてることはない』(イザヤ28:16)。シオンにこの救いの岩、この生きた岩を敷いたのは父なる神である。我々の救いを計画され、我々罪人を選び、神の贖いの愛を与えられたのである。
- 主は「見よ」と言われる。それは、神は罪人を滅ぼすのではなく、主イエス・キリストの命と死によって罪人を救われるのである。驚きをもってペテロも語っている、「見よ」。罪人を選ばれるのだ。罪から救われる方は、主なる神であり、そして人であられるイエス・キリストである。なんと驚くべきことか。あなたも、主なるキリストを信頼し、神をもっとよく知るようになれ。
- キリストは人としても試みられたが、生ける岩であるイエス・キリストは、罪のないその完全さを現された。父なる神はキリストを喜ばれる。しかも、キリストを試み、これを通して承認されたのである。だから、選びの民でない罪人たちはキリストを拒んだのである。彼らはキリストを試み、そして反対に拒否したのである。
- この生ける岩は大変強い岩である。誰も倒せない。彼は、すべての敵を撃破し、信頼する人々に永遠の安全を与える。
- この生ける岩はとても貴重で、すばらしい助け主、偉大なる神、永遠の父、平和の君(イザヤ書9:6)である。まさしく義の太陽であり、その癒しの翼をもって立ち上がられる(マラキ書4:2)。主なる神の栄光の輝きである(ヘブル1:1-4)。主イエス・キリストの中には神の臨在が満ちている(コロサイ2:9)。
- この生ける岩は確固とした礎石である。二つの壁の間を支えるこの岩を基礎として、建物全体が支えられる。この壮大な礎石である主イエス・キリストによって、預言者と使徒たちの上に、教会が建てられた。だから、教会のすべてはこの生ける岩につながっている。教会は砂の上に建てられていない。生ける岩イエス・キリストの上に建てられている。なので、教会は動揺することがない。地獄の門は、決してイエス・キリストの教会に勝てない。
詩篇の作者は言う、「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない」(詩篇125:1)。この生ける岩は、我々の信頼の基盤である。救い主イエス・キリストを信じる者は決して恥じることがない。真の信仰者は永遠に救われ安全だからである。パウロは書いている、「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」(ローマ8:1)。 こうも言っている、「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:37–39)。
主イエスは我々の罪のために死に、そして我々に命を与えるために復活された。主イエスは宝であり、我々も主の宝である。主イエスは決して滅びず、永遠の救い主であり主ご自身である、信頼する者にとってきわめて貴重な存在である。
イエス・キリストつまずきの石
ペテロは結論している、「この石は、不信仰な人々には『家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの』、また『つまずきの石、妨げの岩』である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである」(1ペテロ2:7b–8)。
王の王であり主の主であるこの生ける岩イエス・キリストは、天と地のすべての権威を持っておられる。パウロが言っていることを聞け、「万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた」(エペソ1:22)。これは教会のためである。パウロはまた言っている、「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめである」(ピリピ2:9–11)。
主イエスのもとに来ても信頼しない者、主の前にひれ伏すことを拒んだ者は、別のことを経験することになる。その岩は彼らの上に落ち押しつぶすことになるのである。ダニエルが預言している、「あなたが見ておられたとき、一つの石が人手によらずに切り出されて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。こうして鉄と、粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場のもみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。ところがその像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました」(ダニエル書2:34–35)。キリストの国は永遠に存続する。ダニエルはまた言っている、「それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と、青銅と、粘土と、銀と、金とを打ち砕いたのを、あなたが見られたのはこの事です。」(ダニエル書2:44–45a)。
人はだれも、この生ける岩であるキリストを救い主として迎えるか、それとも裁判官として迎えるかのどちらかの道をたどる。あなたは、死んだらそれで終わりで、神に向き合うことなどないと言うかもしれない。しかし、あなたはおそらく驚くことになる。その瞬間、裁きの場所に立つことになる。キリストはあなたを神の国に招かれるだろうか。そうでなければ、あなたは永遠の滅びに置かれることになる。
あなたが主イエス・キリストを嫌うならば、あなたは滅びるであろう。自らの死と復活によって死と悪魔の力を滅ぼされた方、主イエスを信頼しないならばそうある。しかし、聖い神への唯一の仲介者である主イエスを拒むのであれば、やがてあなたは裁判官としてのイエスに対面し巨大岩が転がり落ちるように粉砕されることになる。
しかし、同じ岩は信頼する我々にとっては救いを与える。このように書いてある、「そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい』」(マタイ25:34)。 しかし、彼は悪しき心の者たちを地獄に送られるであろう。聖書はこう言っている、「それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ』」(マタイ25:41)。パウロは書いている、「その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう(2テサロニケ1:8–9)。
この巨大な岩は、主イエスを信じて救われた人々にとっての礎石である。しかし、心の悪しき者にとって、同じ岩は、つまずきの石、破壊の岩となる。
主イエスは御自分について、イスラエルの指導者たちが拒否する岩であると言われたことをペテロは聞いている(マタイ21:42、マルコ12:10、ルカ20:17、使徒4:11)。彼らは主イエスを十字架につけ葬り、この石の問題を解決したと考えたが、「主イエスは死者の中から復活された」のである。主イエスは再び来られ、すべての邪悪な者を取り扱われる。
主イエスご自身の言葉を聞け、「イエスは彼らに言われた、『あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、〈家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える〉それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう』」(マタイ21:42–44)。黙示録に書いてある、「その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。その着物にも、そのももにも、『王の王、主の主』という名がしるされていた」(ヨハネの黙示録19:15–16)。
救われるか、粉砕されるか、それが我々の選択である。岩のなされる業は救いか滅びかである。王の王であり主の主であるイエス・キリストに、伏し拝まれるよう、私はあなたに請願する。主イエスの言葉を信頼して、今救われよ。ヨハネは書いている、「わたしたちは人間のあかしを受けいれるが、しかし、神のあかしはさらにまさっている。神のあかしというのは、すなわち、御子について立てられたあかしである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(1ヨハネ5:9, 12)。
あなたは御子をもっているか? 永遠の命を得ているか? もしもそうでないなら、今すぐ主イエスのもとに来て主を信頼し、救われよ。イザヤが預言している、「あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない。主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となり、わなとなる」(イザヤ 8:13–14)。
主なる神はこう言われる、「わたしを尊ぶ者を、わたしは尊ぶ。私の否む者を、私も否む」。主イエス・キリストのもとに来るべき、これらのことについてまだ確信が持てないならば、次の聖書の箇所を考えよ:
- 詩篇13:46: 「パウロとバルナバとは大胆に語った、『神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ』。そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた。」
- ローマ9:22–23:「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。」二つの道しかないのである。
- ローマ11:22: 「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。」ペテロがこのように教えた教会の人々は、誠実で義なる神を知った。しかし、パウロは、主なる神の別の御性質を味わうことになる者たちがいる、と言っている。主なる神は我々にどちらを求めておられるか?それは、正しい、慈悲に富んだ、愛の御性質に、我々が向き合えるようになることである。我々はただ、主の前にへりくだって歩むべきである(ミカ書6:8)。
- 1ペテロ2:8: 「イエス・キリストは『つまずきの石、妨げの岩』である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。」人々がこれらのことを信じたくないとしても、それは驚くには及ばない。それは、彼らがつまずき倒れ、彼らの上に落ちる大きな岩を示しているのである。
永遠の命(使徒13:48)それとも滅び(1ペテロ2:8)のどちらかに分かれ、その間はない。主イエス・キリストとその救いの招きを軽く扱ってはならない。彼は王の王であり、主の主である。天と地においてすべての権威を持っておられ、全てを維持しておられる救い主である。あなたが今、主イエス・キリストを、信頼し、救われるよう祈ります。
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