神による訓練から生じる利益

1 Corinthians 9:24-27
P. G. Mathew | Sunday, October 10, 2004
Copyright © 2004, P. G. Mathew
Language [English]

あなたは知っているか?全ての走者がレースで走るけれども、1位の賞を取るのは一人だけであるのを?試合で競争するまでに選手は誰もが厳しい訓練に入る。永遠に存続しない冠を得るために。しかし、我々は、永遠に残り続ける冠を得るために訓練を通るのである。したがって、我々は弱さをもつ自らを打ちたたいて主なる神に従わせるのである。他の者に説きながら、賞を取れない失格者にならないためである。

1コリント9:24-27

身体の訓練

若き自転車競技選手ランス・アームストロングは精巣癌に苦しみ、ついに癌は脳に転移し命の危険に陥った。肉体の訓練によって彼は遂に癌を克服し、ツールド・フランス戦で6回もの新記録優勝をした。このように厳しい身体の訓練を通じて偉業を成し遂げてきたトップアスリートは他にもいる。

ほとんどの現代人は、このようなレベルの訓練を実施することからは遠ざかる。今日、身体の訓練は有益であると十分認識していても、なぜ定期的に運動やスポーツをする人がどんどん増えていかないのか?私自身、自宅の二階に歩行トレッドミルを所有してはいるが、私の体は毎朝二階に上がるなと言う。体が発するこの言葉を拒否してとにかくマシンに乗ると、今度は早く降りろ、明日やればよい、と体が言う。だからエクササイズが少しでも好きになれるように、私は自分の体を打ちたたくようにほぼ毎日努力している。

霊的訓練、身体の訓練、これは重要だと理解している。しかし、できれば汗を流して戦う苦痛なく、訓練の効果だけを手に入れたい、と思う甘さがどこかにある。世の中には変なスローガンがいっぱいある。「目いっぱい食べて、体重を減らそう!」「ちょっとだけ働いてお金をたくさん儲けよう!」「勉強しないで、成績を上げよう!」「エクササイズなしでスリムな体形になろう!」「クレジットカードで自由をエンジョイしよう!」「罪であってもたのしいことをいっぱいやって、それでも天国には行こう!」だが心の奥底で、我々はこれらすべてが嘘であると知っている。痛みなくして得る者はなく、十字架なくして王冠なしである。

霊的訓練は肉体の鍛錬より困難である。世の罪と悪、そして我々の中にも罪の性質があるからだ。サタンは、我々に訓練をさせたくない。特に霊的な訓練を。例えば、祈ってみよ。どれぐらい長く祈れるかをためしてみよ。やる気になれば、数分は続くかもしれないが、牧師であってもせいぜい日に2分程度という統計があるほどである。祈りは戦いであり、我らの敵は祈らないように願っているのである。身体的鍛錬、霊的鍛錬について聖書は多く教えている。それらを学んでいこう。

パウロは徒競走の喩えで書いている。「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい」Iコリント9:24。次の25節が鍵で、「すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである」と書いてある。

パウロの時代には、汎ギリシャ祝祭がいくつかあった。オリンピックは四年ごとに開催されており、一年おきには、コリント市近郊で、イストミア大祭が開催されていた。彼がコリントにいた丁度紀元51にも、パウロはこれらの祝祭での競技を目撃している可能性がある。確かにコリントの人々は競技について精通していたので、身体の鍛錬を例にとって語ったのである。

イスミアン大祭では、徒競走、ボクシング、その他の競技が行われた。人々の中には競技を見て祭りを楽しむだけではなく、自分が出場するために世界中から集まってくる者いた。競技に出場するためには、監督のもとで10ヶ月間のトレーニングを積み、一定のルールに従わなければならなかった。飲酒をひかえ、食事制限をするなど、選手は体を甘やかさずに鍛錬をして備えた。監督の命令に従って、純粋に地味な生活と節制を行い、競技の妨げになるものを全て取り除き、自らを鍛えねばならなかった。

競技の前、選手たちは過去10ヶ月間、規則に従ってきたことを宣誓しなければならなかった。宣誓しないならば、失格とされてしまった。さらに、徒競走選手の場合、規定のコースに沿って裸で走らなければならなかった。すべての苦難を耐え、精神を一点に集中し、たゆまぬ決意で一心不乱に走った。しかし、一人のみが賞を勝ちとることになっていた。だから自己鍛錬なしに、誰も競技に勝つことができなかったのである。

このように厳しい自己鍛錬の報酬は何か?同胞から認められ賞賛を受ける他、選手は花輪を受けとる。オリンピックの優勝者は月桂冠を授与されたが、イスミアン大祭の勝者は松葉の花輪を授与された。これらの冠はすぐに色あせて枯れた。しかし、キリスト者は永遠に残る報酬を受け取るのである。

キリスト者の自己鍛錬

1コリント9:24-27のテーマは、訓練である。訓練のギリシャ語はエグクラテウオと言い、「強さ」を意味する。パウロは誰もが競走する、その辛苦に耐える状態を表現している。寝ても、起きても、衣食住すべてにおいても、性においても、自分自身を正しいルールに基づいて訓練しろ、と言っている。それは痛みを伴うが、耐え抜かなければならない。

キリスト者の生活はレースであるとパウロは言っており、ギリシャのアスリートのように、自身を鍛錬して成功者になれ、と言っているのだ。ボクシングのリング、走者のトラックに今いるのである。26節で、「そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない」と言う。これは彼自身の実体験からきた言葉である。目標に焦点を定め、走り戦う。一歩一歩が意図的で、すべての打撃がカウントされるのだ。身体の叫びや欲望が、神の霊の思いと、そして聖書と、反対方向にあることが克服すべき大きな課題である。これを彼はよく理解していた。

自己鍛錬できていないと、自分の体に支配されてしまう。体側が、あれをせよこれをせよと命令してくる。そしてそれに従ってしまう。自分の願望に対してなんらブレーキをかけられない状態、たばこを吸いたい、あれをしたい、これをしたいと、願望の奴隷状態なのである。自分の心は奴隷、願望が主人である。

しかし、パウロはここで言う、「私は、自分の体を奴隷として従わせる」。神と聖書に従うことを心が欲し、体がそれに従うのである。パウロは体が悪であるというギリシャの見解を否定する。しかし同時に、体に罪の性質が残っている。従って、罪を犯す方向にも、神に仕える方向にも心は行くことを知っていた(ローマ6章を参照)。旧約時代のバテシバとダビデの罪、これに気をつけように「若い時の欲望を避けよ」とテモテに助言している。

パウロは自らの体を訓練していた。これは文字通り彼を酷使したという意味ではなく、比喩的に話している。自分の欲望によって操られることを拒否したのである。例えば、自分の体が朝起きたくないと言ったとしても、「目を覚まして祈った」ということである。自らの心が自分の体を支配する。これを我々は実行するのである。それは人間と動物の間の差であるといえる。私たちは心を持っている、と我々は彼らと私たちの体を支配することになっています。ポールは彼の心、彼の精神、そして彼に住んだ聖霊を、従うように彼の体を命じました。我々の体は、我々の心に、霊に、そして聖霊に従え。

1コリント6:18-20でパウロは言っている、「不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」。兄弟姉妹。我々は自分の体や欲望の奴隷になる権利はない。したがって、逃げよ!自分の体によって支配されるな!

キリスト者が勝つ

古代ギリシャの競技では、唯一人の選手が優勝に輝いた。同様に、自分自身を鍛錬する全てのキリスト者は人生において生活において勝つのである。すべてのクリスチャンは、義の冠、いのちの冠、滅びることがない清さに輝く月桂樹の冠、それを主イエス・キリストご自身から受け取ることになるのである。

2テモテ4:6-7でパウロは死を前に書いている、「わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」。すべてのクリスチャンは、霊的に地震を鍛え、成功者、勝者のレースを走りぬく。8節でも続けて言っている、「今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう」。そしてこうも言っている、「わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう」。

だれであれ、規律のない、自分に甘い生き方を奨励する者はパウロの教えに対抗している。実際にそのような者は、イエス・キリストご自身の教えに反抗している。なぜなら、イエス・キリストは、日々自分の十字架を負って従ってくるように命じておられ、そうするなら、イエスが再び来られるときに我々に賞を与えられる。あなたに聞こう。あなたは自分の心の赴くままに自分の奴隷になっているか?もしそうなら、今の生活においても、これからの人生でも成功しない。

鍛錬は良いものであり、神からのものを生み出す。それはセルフコントロール(エグクラテイア)とも呼ばれている。それは、クリスチャン生活に不可欠である。パウロは、正義、セルフコントロール、正しい判断の必要性についてフェリックスに教える(使徒24:25)。ペテロは、知識に自制を加えよ、と教えている(2ペテロ1:6)。ガラテヤ5:23は、聖霊が我々の中についに実らせる果実がセルフコントロールであると語っている。だから、セルフコントロールは自らをマスターするのである。それ、聖霊の制御下にあることを意味し、罪に対して「No」、イエス・キリストが言われることに「Yes」である。我々が神を愛するならば、その力が与えられ、聖霊が間違いなくセルフコントロールの果実を実らせるのである。

ルールに従う

In 2テモテ2:3-5でパウロは書いている、「キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。 兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない」。現代人はルールを嫌う。全くの自由、やりたいことが何でもできる、反律法主義に傾く傾向がある。

しかし、クリスチャンは命を危険にさらしても自らを犠牲にするような兵士になるべきである。目標は、指揮官である主イエス・キリストを喜ばせることである。勝つことを望んでいる場合ならば、なおさらアスリートのように、ルールに従って競争しなければならない。

現代の多くのキリスト者は、ルール、それも聖書のルールが好きではない。もちろん、税金や住宅ローンなどの支払いのような世俗的なルールを守る必要は理解している。しかし、「聖書にある全てのきまりはどうでもいい」と考えている。救いとはルールから人を解放することだと考えている。これは嘘である。キリスト者はルールに従って生きなければならない。アスリートのように、反律法主義立ち向かわなければならないのである。ルールの本を受け入れ、勝利の冠を受けるために、ルールに従うのだ。ルールに注意して従って競争するべきである。でないと、失格者となる。

キリスト者の生活におけるルールとは聖書の教えである。主イエスは言われた、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ7:21)。このルールを嫌う者に対して、こう言われる「私はあなたを知らない。悪をなす者よ、私から離れ去れ」。だから、主なる神のルールを守っていのちの冠という賞に向けて競争せよ。

任務を果す

パウロは、再びレースを走っているイメージで使徒行伝20:22-24に書いている、「今や、わたしは御霊に迫られてエルサレムへ行く。あの都で、どんな事がわたしの身にふりかかって来るか、わたしにはわからない。ただ、聖霊が至るところの町々で、わたしにはっきり告げているのは、投獄と患難とが、わたしを待ちうけているということだ。しかし、わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない」。

パウロは、トラブルが、試練、迫害、そして死さえもが彼の前に立ちはだかることを知っていたが、主イエス・キリストから賜った任務を遂行すること、これを唯一の目的として生きていた。その任務は具体的には何か?イエス・キリストの証言をすることである。クリスチャンは自分自身を喜ばせるために生きるのではない。我々はすべてのことにおいて、主イエス・キリストを喜ばせるために生きるのである。キリスト者の走っているレースは、神の栄光のためのレースである。その実行は、神の栄光のための生活そのものである。人生の究極の意味は、神を賛美し、永遠に神を喜ぶことである。我々は神の国の民である。

では我々の人生での大志はどこにあるか?それは、福音を飾ること、福音を伝えることである。1コリント9:22でパウロは言っている、「弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである」。レースに勝つとは、福音を伝えて何人かがこの罪の世から救い出されることを意味する。クリスチャン生活の目的は、多くのお金を稼ぐこと、大きな力を獲得すること、またはこの世界で有名になることではない。主なる神は、これらを我々の生活の目的としてはおられない。神は、確かに我々の必要とするすべてを与えられる。しかし、我々の生活の真の目的は、世の中の光となることである。それは、福音を伝えて、幾人かでも救いに導かれるようになることである。

パウロは23節に続けて言っている、「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである」。我々の関心は福音の祝福を共に受けることである。これこそ、我々に喜びと真の満足をもたらす。我々一人一人が福音を理解し、職場や周辺地域、家族の中で、そして教会で、真の祝福を共に受けられるように。しかし、我々が自分の欲のままにこの人生を生きていくのならば、誰も救いに導かれるはずはない。従って、自己を鍛錬して訓練された生活をしよう。そして、「私がキリストに従っているように、私に見習って素晴らしい生活を生きてみよ」と自信を持って言うことができる。

賞与を得る

パウロはピリピ3:12-14でも、徒競走をイメージして言っている、「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない」。主イエスはただ一つだけた重要であると教えておられる。パウロは、ただこの一事を努めている。すなわち、「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」。

後にあるものを忘れて、脇道にそれることなく着実に進むクリスチャン生活のレースを実行せよ。パウロは、キリストの完全な知識に到達しているのではなく、自らも緊張と努力を尽くして、キリスト者の生活をした。従って、この世栄光に惑わされず、天路歴程の真の巡礼者として、神の支配される国に生きているのである。人を惑わす、人生の悩み、富、名声、快楽に窒息されずに生きているのである。(説教者訳) パウロは言っている、「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」(2コリント4:18)。神の言葉を信頼して キリスト者のレースを走れ。

パウロは、ピリピ3:7-8で言っている、「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、糞土のように思っている」。13節でも、「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ」と言い、すなわち、我々の人生における人間的な栄誉やこの世でもてはらされる力、そして失敗も忘れ去れ、と教えていている。これは否定形の部分で、肯定形としては14節で、「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」と結んでいる。これこそ、求めるべき永遠の栄光と神との交わりである。

敬虔とは?

1テモテ4:7-8でパウロはキリスト者の訓練について再度述べている、「しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。敬虔のために自分を訓練しなさい」。この命令は、体操競技の意味「グムナゼ」という言葉を用いている。それは、訓練を続けるアスリートの活動そのものである。クリスチャンは、神を敬うように、自分自身をアスリートのように訓練する。だからパウロは、「からだの訓練は多少益するところがあるが、敬虔は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる」と教えている。

神を敬うことは、永遠の利益をもたらす。しかし、神を敬うとはどうすることか?まず、それは不信仰の正反対である。不信仰の基は、主なる神を拒絶することである。愚か者は、心の中で「神いない」と言っている(詩篇53:1)。不信仰の結ぶ実は、「主なる神などいない」という哲学を至上のものとすることから、あらゆる悪行となって生じる。だから、だれかが邪悪に陥っていることを見たら、彼は神を信じていないと推論できるのである。「主権者である神などいない」と信じると、「やりたいことは何でもやれるし、ルールは不要」となるのである。

しかし、信仰の基は、「主権者である神がおられる」という知識である。聖書は、神に来るものは、神が存在することを信じると述べている。神は、聖なる方であり、且つ無限であり、人格を持っておられる、全能者であられる。全てを超越しておられ、信じる者と共におられる。これを知ることが信仰の基である。同時に、主なる神は歴史を通じて人間に関与され、その中から神の民を選ばれ、救いに導かれる。神は我々の生活に関わり、生活のルールとして聖書を与えられた。信仰の基は「主なる神がおられる」という知識であり、その神を敬う結果として、我々が神に従うということである。

だから、敬虔とは主なる神を以上の意味で畏れ愛することである。敬虔な子供は両親を畏れると同時に、両親を愛する。敬虔な子供は両親に従う。熱心に両親に従う子供を見るとき、その子が敬虔な子であるとわかるのだ。きわめて単純明快である。詩篇16:8に敬虔のエッセンスが教えられている、「わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない」。これは、神の臨在前に自分が立たされていて、「神が言われ、喜ばれることを私は行おう」ということに他ならない。

キリスト者は、神を敬うことで自分自身を訓練する。これはどのように行われるか?あなたが子供であれば、その答えは親に従うことが習慣と喜びになるまで訓練されることである。神に従い続けよ。継続的に神に従うことが不可欠である。毎日、このような霊的鍛錬を行え。神への従順が我々の習慣と喜びになるまで、毎日神に従え。

いのちの約束

身体運動は、我々の益になる。ただしそれは人生の限られた期間だけである。一般人よりも早く関節が摩耗してしまって、歩くことさえできなくなるアスリートがいる。体の訓練は多少益になるが、持続的な益とはならないのだ。これに対して、霊的な訓練は、物理的な運動によりも絶大な益をもたらす。神を敬うことは永遠の命の約束をもたらす。この霊的訓練は、そういう意味で無限に有益である。神と共に日々生活を楽しむことができ、年齢が高くなれば高くなるだけ、完成度の高い喜びに満ちることを意味するのだ。

2テモテ1:1は、「神の御旨により、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって立てられたキリスト・イエスの使徒パウロから」と始まっている。イエス・キリストの使徒パウロは、神の御心により、主イエスからいのちをいただく、という約束のことを言っている。これは、単に生物的な生きているといういのちのみではなく、我々の中に神のいのちがはいってくることを言っているのである。

あなたも私も、神と共に楽しく生活できる。楽しみ、そして神のもとに到着したら、我々はさらに高い満足を楽しめるであろう。ビル・ゲイツは4800億円の個人資産を持つ裕福な人だ。ウォルトン・ファミリーというのがいて、さらに裕福で9000億円を持っている。これらの人々は、我々が彼らよりも人生を楽しむことはないと思いる。キリスト者でない限り、彼らの人生は遙かにに劣っている。2テモテ1:10に書いてあるように、「そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。」不死身の人生、永遠に続く生活である。主イエスは言われた、「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10:10)。 そして、 「わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない」と言っておられる(ヨハネ10:28)。この世で直面する問題があったとしても、我々は主なる神と共に人生を楽しむことができるのだ。聖書は、ビル・ゲイツや他のすべての不信心者について「世界のすべてを手に入れても、それは魂に何の益もない」と言っている。

クリスチャンは、霊的に生きたものとされ、神の国に属する神の民である。だから我々は人生を楽しめるのである。信仰は、我々の生活にも有益をもたらす。従って、主なる神を畏れ信頼して生活すれば、霊的にも生活の面でも、両方の長所を楽しめるのである。愚か者はだけが、信仰を拒否するのである。

神の恵みによる訓練

テトス2:11-12にパウロは、「すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し」と書いている。イエス・キリストと共に恵みが人に与えられる、と言っているのである。その恵みは、不信仰やこの世の悪しき欲望に対して「No」と言わしめる。この恵みを罪への許可証だと誤解している者がどれほど多いことか。「救いは恵みで行いによらない。だから何をしても許されるのだ」と言うのだ。しかし、恵みが我々を教え、正しいことを行うように訓練する、と言っている。箴言で「行くべき道を歩むよう自分の子を訓練せよ」と教えられているように、恵みは、不信仰とこの世の欲望を否定し、自らを制御して今を正しく生きるようにするのである。

我々を救ったこの恵みは、我々をまた訓練する。ある人々は、主イエスを救い主としてのみ望むが、自分の人生・生活の主人として望まない。しかし、主イエスは主であり、生活のすべてにおいて我々を訓練される。即ち、何を信じ、何を話し、どこへ行き、何に時間とお金を費やし、何を考えるかを教えられるのである。

恵みは確かに我々に必要な良い働きをする。我々は造り変えられ、結果、正しい良い行いをする者になるように、毎日訓練される。したがって、この訓練には2面生がある。一つは、この世の生活に対して「ノー」と言うこと、即ち罪と自己陶酔に現れる我々の欲望を否定することである。もう一つは、自己制御の人生を生きることである。パウロは、「私は自分の体を打ちたたいて服従させる」と言い、自制と規律を行使する。それは、正しい生活を送ることを教えている。キリストにある兄弟姉妹と、自分の子供と、自分の配偶者とキリスト者の生活を行うにあたり、神に対する約束に違反しないことを意味する。従って、うそや姦淫、盗みは、全て「ノー」である。「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と主イエスは言われた。

恵みは、誰をも放蕩、無法、そして肉的泥酔にしない。神を敬うことは、人間の必要条件である。単に不信仰を拒否するだけでなく、神と共に生活することを実現する.

霊的訓練のステップ

へブル12:1-4は教えている、

「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない」。

へブル書の著者は、 我々が霊的なレースを走るにあったって、霊的注意点をもって勝者となるように励ましている。

  1. 霊的成長の妨げとなるすべてのものを捨てよ。我々はレースを実行する前に重荷になる無駄なものをすべて捨てるべきである。体重制限もそうだが、霊的体重制限が大事である。妨げは、肉の欲望、富への欲望、この世の栄光への欲求からくる。確かにそうではないだろうか?これらの重荷は、我々の霊的ダイエットを妨げる。だから我々はこの霊的レースを走るために、これらを投げ捨てる必要がある。
  2. 絡みつく罪を捨て去れ。我々は、他人の知らない秘密の罪をすべての罪を捨てる必要がある。それが何かはあなたが知っているであろう。秘密の罪に浸るならば、成長はない。だからすべての罪を捨て去れ。
  3. イエス・キリストに注目せよ。ギリシャ語ではアフォロンテス、この世の雑音から目をそらし、イエス・キリストに注目せよという意味である。我々はひたむきであるべきだ。ダブル志向の人はすべてにおいて不安定である。ふたりの主人に仕えることはできない。我々は、史実の人であり神であられ、十字架上で我々のために死に、死者の中から甦った、罪なき聖なるイエス・キリストに注目すべきである。今現在、我々をとりなしておられる大祭司、王の王と主の主であって、再び来られるイエス・キリストに注目せよ。キリストの語られることを考え、新鮮にされ、力をあたえられよ。それでこそ、あなたはこの今の邪悪な時代に生きていける者であるのだ。
  4. 忍耐の限りを尽くして走れ。我々は、すべての痛み、迫害、試練、剥奪を克服する持久走のトラックを走っている。
  5. 自分に備えられたレースを走れ。あなたは、あなたのレースを選べない。あなたは既にレースのトラックに置かれている。ただ走りきることが求められている。
  6. 罪に抵抗せよ。血を流すほどに罪に抵抗しなければならない。一部のキリスト者は、殉教者として実際死んでいる。彼らは、どんなことがあっても主イエス・キリストを拒むことを拒否したのである。
  7. 我々のレースでは主イエスが共におられることを知れ。確かに、主イエスは現時点では天におられるが、御聖霊を通して我々と一緒におられる。「私は世の終わりまで、いつも、必ずあなたがたとともにいる」と言われたように、その言葉を心に刻め。レースを離脱したいとあきらめかけたなら、イエス・キリストが勝利を勝ち取られた十字架の力を再考し、リフレッシュされてレースを完走せよ。

自分への適用

主イエスに従う規律ある生活を実行するにあたって、いくつかの追加的なガイドラインを提供しよう:

  1. 可能な限り体のトレーニングに従事せよ。適度な運動をし、過食は避けよ。それは実際の生活で有益だ。そうすれば、体も軽くなり、思考力も向上する。結果として寿命も延びる。
  2. 早起きせよ。早起きで、結構多くのことがこなせるようになる。イスラエルの民は荒野でマナを早朝に集めた。9時以降には消えてなくなったのである。主イエスのように、早起きせよ
  3. 神の言葉、聖書を読め。表面的ないい加減な読み方をやめ、体系的かつ真剣に聖書を読め。真剣に研究し、聖書が教えていることを理解しつつ、またそれを黙想せよ。聖書が生活のルールである。我々はそれを実行できるようになるまで、主なる神が言っておられる通りに理解せよ。
  4. 熱心に、聖書的に、確信をもって祈れ。聖書は、祈りを格闘技に喩える。牧師は一日平均2分しか祈らない、という統計値がある。主イエス自身が悪とサタンに戦いつつ祈られたように、その困難さも心得よ。「イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた」(ルカ22:44)。その限界の時点でも主イエスは祈り続けられた。すべての神経を集中して、より積極的に、より熱心に祈られた。あなたは祈り始めるとどうだろうか。最初は苦痛かもしれない。もちろん、我々はメシアが苦しまれたほどの苦悩を経験することはない。しかし、我々が祈らないことを求めているサタンは、祈りを妨げようとするのである。
  5. しばしば断食をせよ。現代人は、絶食を好まない。その代わりに、すべてをスーパーサイズでいく。人々が頻繁に断食し出したら、マクドナルドは喜ばない。しかし、主イエスは神の民が断食すると言われた。パウロが使徒行伝13章で言っている断食についての箇所を参照せよ。
  6. 福音を宣べ伝えよ。キリスト者であり科学者のヘンリー・F・シェーファーIII博士は、これを実践してきた。彼は、毎日誰かにイエスの話をすることをポリシーにしている。我々の人生の目的は、生活と言葉をもって他の人に福音を宣言することである。このために御聖霊の力付けを願え。「聖霊があなたがたの上に臨まれるときあなたは力を受けます」と主イエスは言われた。
  7. 熱心に仕事をせよ。「あなたのすべきことを、全力で行え。」イスラエルのワイン生産会社は「我々は、より高い権威にある方を喜ばせなければならない」というスローガンを掲げて営業している。合法な仕事はどのような仕事であっても、それは神によって委託されている任務である。だから、神を喜ばせるために努力して働かなければならない。
  8. 神から与えられる力によってすべてを実行せよ。あなたは自分の力で勝利あるクリスチャン生活を送ることはできない。「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい」(エペソ6:10)。また、我々のなかに働く神の偉大な力について、コロサイ1:29とエペソ3:20を参照せよ。
  9. 肉の欲に機会を与えるな(ローマ13:14)。ダビデは肉の欲に走った。それが彼の没落であった。
  10. 自分の体を支配せよ。自分体を自分の心に従わせよ。
  11. 神があなたに取り組んでおられることに協力せよ。あなたは、自分でなにか新しいことを思い付く必要はない。神は、すべきこと、すべきでないこと、あなたに既に語っておられる。そして、神が与えられる力によって、あなたはすべきことを行う責任がある。
  12. 与えられている権威に服して生きよ。神が与えておられるルールに反抗するな。それらに感謝せよ。与えられている権威は、我々の利益のためである。

霊的な信仰の訓練は、我々に永続する益をもたらす。それはレースを走りぬく一人一人に栄誉を与える。それは、いずれ我々に次のように言わしめることとなる、「私は主なる神を信頼し続け、良いレースを戦った。義の冠がわたしを待っている」。死ぬまで忠実であれ。そうすれば、「よいしもべよ、主の喜びに入れ」と、主なる神の喜びの言葉を聞くであろう。