キリストの処女降誕
P. G. Mathew | Saturday, January 28, 1995Copyright © 1995, P. G. Mathew
Language [English]
これがイエス・キリストの生誕のいきさつである。母マリアはヨセフと婚約をしていたが、一緒になるまえに聖霊によって身ごもっていることがわかった。ヨセフは正しい人であったので、彼女のことを、おもてざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうとしていた。しかし、このように考えていたところ、主の天使が夢のなかに現れて言った、「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻として迎え入れなさい。マリアが身ごもっているのは聖霊によるのである。マリアは男の子を生むであろう。その子をイエスと名付けなさい。なぜなら、この子は自分の民を罪から救うであろう」。このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名は、インマヌエルと呼ばれる」、これは、『神は我々と共におられる』という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻として迎え入れ、その男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そしてその子をイエスと名付けた(マタイ1:18-25)。
クリスマスには贈り物をあげたりもらったりするが、天の父なる神が世界に対して与えられた贈り物があるのを知っているだろうか?これは救い主、神の永遠のひとり子である。言葉に表現できない贈り物である。この贈り物を受け取れ。
イエス・キリストは聖霊によって身ごもった処女マリアからお生まれになった。このクリスマスの季節に、真の教会は処女降誕を祝うが、これはその700年前から預言者イザヤを通して神が約束されていた。イザヤ書9:5、「ひとりのみどり子が、わたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」。
福音はイエスを紹介する
新訳聖書の4つの福音書は、イエス・キリストについて記述している。生誕のいきさつとして、マタイの福音書とルカの福音書は、イエス・キリストが処女から生まれた救い主イエス・キリスト、聖なる方、いと高き方の子、神の子であると言っている。インマヌエルという言葉で表しており、これは「神が我々と共におられる」という意味である。マルコの福音書は、キリスト降誕については記述していないが、イエス・キリスト、神の子、と紹介している。
ヨハネの福音書は、マルコの福音書と同様に、キリスト降誕については記録していないが、1章で、イエス・キリストの紹介をしている。「初めに言(ことば)があった。」という文で始まっているが、これはイエス・キリストが永遠の存在であることを示している、とJ. I.パッカーは、「Knowing God」という本に書いている。全てが始まる以前から、キリストは存在しており、キリストは永遠の方である。
ヨハネの福音書は、続けて「言は神と共にあった」と言っている。これはイエス・キリストの人格を述べている。この言は永遠の人格であって、父なる神とは区別できる人格であり、しかも、神との永続的交流をもつ人格である。ヨハネの福音書は、「そしてその言は神であった」と言っている。これは、イエス・キリストが本質的に神であられ、しかも父なる神と別個の人格をも持っておられる。
3節には次のように書いてある、「万物は言葉によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった」。 ヨハネはこの言は見えるもの見えないもの全てを創造された方であると言っている。キリストは父なる神のために全てを創造され、しかも創造された一部ではない。そして4節には、「この方に命があった」とある。ヨハネはここで再び全ての生命の起源について言及している。天使、人、動物、植物の全てがキリストにおいて創られた。加えてヨハネは、今日存在する全ての生命はイエス・キリストによって維持されている、と言っている。
ヨハネ1:4には書かれている、「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」 イエスは全ての生命の創造者であるのみならず、全て真の黙示の創造者であられる。神の真の知識は我々にイエス・キリストだけを通して与えられる。イエス・キリストを通してでなければ、いかなる方法によっても神を知ることはできない。
14節でヨハネは「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言う。 ヨハネは、イエス・キリストが永遠の言葉であると教えており、父なる神とは別個の人格をもっておられ、しかも神ご自身である。そして、全ての生命と黙示の創造者である、と教えている。この神ご自身、この創造者、この言葉は人となられた。全能の神は、牛の飼い葉桶に眠る弱い乳幼児となった。ヨハネは、この方が誰であるかを疑いなく知っている。続いて、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」、次の18節では、「いまだかつて、神を見た者ははいない。父のふところにいるひとり子である神、この方が神を示されたのである」と言っている。従って、ヨハネは、イエス・キリストを人となられた神であると紹介しているのである。
マタイの福音書が記述する処女降誕
イエス・キリストの生誕についての記述は、マタイやルカの福音書ではより詳細であり、よく見ると、これら二者の記述は独立に書かれているにもかかわらず、この偉大な処女降誕のいきさつについて教えている。
最初に、マタイの福音書を見てみよう。マタイは、イエスの誕生に関してヨセフはなんの関係もないと言っている。マタイ1:16ではヨセフを、「夫がヨセフであるマリアからキリストと呼ばれるイエスがお生まれになった」と記しており、18節では次のように説明している、「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。 ここで使われているエク プニューマトス ハギオウという言葉は、「聖霊によって身ごもったと」ことを意味する。そして20節では、天使が夜ヨセフに夢に現れたと記録されている。ヨセフの考えに反して、天使は再び生誕の超自然性について語っている、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」。 再びエク プニューマトス ハギオウ、「聖霊によって身ごもった」と言っている。
マタイ1:22は言う、「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」。マタイは、イザヤ7:14を引用している、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。 これは、ジェームズ・オールとグレシャム・メイチェン両師が言っているように、処女マリアにおけるイエス・キリストの聖霊の力による降誕が、イザヤ7:14の預言として一致している。
従って、マタイは、御聖霊の働きによって、イザヤがこの預言を書いたと理解しており、この出来事は、イザヤによって7百年前に与えられた預言の通りであることを指摘している。主イエスは処女からお生まれになった。25節では、ヨセフとマリアはイエスの生誕まで、性的関係を持たなかったということにまで言及している。
マタイは、25節に「ヨセフがイエスと命名した」と書いている。これはイエスを自分の養子としたということである。ヨセフは、ダビデの王政は既にないが、イエスをダビデの子と呼んでいる。これは王子であるという意味である。従って、もう一つの預言が成就しているのがわかる。イザヤ11:1に、「エッサイの株からひとつの芽が出て、その根からひとつの若枝が育ち」とある。ヨセフに養子として名付けられたイエスは、エッサイの子ダビデの王座におられるべき方、即ち王であられる。
ルカの福音書が記録する処女降誕
ルカもまたキリストの処女降誕についての証拠を提示している。ルカ1:27では、マリアを処女、パルテノスと呼んでいる。ルカはこの単語を同じ節で2回使用し、34節で、処女マリアが天使に「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」とたずねている。これに対して、天使ガブリエルは、聖霊が彼女にくだり、いと高き方の力あなたを包む」と答え、神には不可能なことは何もない、と伝えている。
これらの記録はすべてルカの作り話ではなく、歴史家としてルカは事実の記録にのみ着目している。ルカ1章は、「わたしたちの間で実現した事柄について、既に多くの人々がその記述に着手しています」と書き始め、神話や伝説ではなく、「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々が伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています」と史実の正確な記録に注力している。処女降誕の証拠資料の源泉は、イエスの母マリア自身である。ルカは目撃証言も詳細に記述している。この福音書の冒頭部で、「わたしもすべての事を初めから詳しく調べています」と述べている。
ルカの目的は、史実の記録にあることを再確認せよ。イエス・キリストに関する史実を「初めから」調査したとき、そこには、キリストの降誕もあった。この調査報告を見る者に対して、ルカは「順序正しく書いてあなたに献呈するがよいと思いました」と言っている。理由は、「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたい」ということ他ならない。ルカは、福音書の読者に対し、この記録が事実であると言っている。
このような理由から、ルカは、福音書の最初にバプテスマのヨハネの超自然的な誕生についての証言から書き始め、次にイエス・キリストの超自然的な処女降誕についての証言を書いた。従って、キリストの処女降誕は、目撃証言に裏付けられ、注意深く調査された、歴史的な事実と理解しなければならない。なぜそのように注意深く記録されたのか?それは、福音が確かであることを我々が知るためである。
キリストの処女降誕の教理は我々の救いに必須である。イエス・キリストの教会は、最初からこれを信じており、信条にも明記されている。また、栄光ある聖書の教理として信じ、教え続ける。我々もそうである。もしも処女降誕を否定するなら、イエスが、素晴らしく倫理的な人ではあるが唯の人間とみなしていることになる。イエスが単に最も正しい人間であるなら、だれをも救うことはできない。
ヨセフは決断する
ルカはイエス・キリストの生誕についての詳細に関して、その処女降誕を信じるための証拠をはっきり記している。ナザレで天使がマリアに伝えた通り、聖霊に覆われて彼女はみごもった。マリアはナザレからユダヤのエリザベスのところへ行き、霊的な励ましと交わりを与えられた。3ヶ月後マリアはナザレにもどって、ヨセフはマリアがみごもっていることを知る。私の見解では、マリアはヨセフに彼女自身の状態についてなんの説明もしなかった。そして、ヨセフは重い決断を迫られた。
ユダヤ社会では、結婚は男女が二人の純潔を示すため、最初に証人の前でこれを証明する。その時点から、彼等は夫婦として認められる。これは結婚の最初の局面であって、それから二人が一緒に暮らすまでの1年間は、離れて暮らす時が設けられる。その1年の期間が経過した後、妻を自分の家に迎え入れる儀式が、マタイ25章に見るような形で行われる。その結婚の宴の後、夫は妻と共に暮らし始める。
マリアはヨセフと暮らす前に妊娠した。それは、二人が性的関係をもつ前であった。申命記22章に、結婚の関係がない状態で妊娠した女性をどのように扱うかが23節から次のように書かれている。「ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。」新訳聖書の時代でもこれがユダヤ人のなかで行われていたかどうかは明らかではないが、旧約聖書に明記されている罰則である。マリアは妊娠している事実をヨセフに告げた。普通の男性として、ヨセフは彼女との結婚を拒否した。内々に離縁を求めた。おそらく申命記24:1に許可されているように、二人の証人の前で婚姻の破棄の証書を書いたに違いない。
この間マリアはどうしていたか?彼女はこの問題について主を信頼していた。彼女はおそらく次のように考えたであろう。「神にできないことは何もない。ガブリエルが言った通り、聖なる子を私はみごもっている。それは、聖霊の超自然的な働きと力による。加えて、子供がなかったユダヤのエリザベスもガブリエルが伝えた通り、ヨハネという息子を出産するという。事実、エリザベスを私は訪問したところで、天使が伝えたとおりであった。」だから、マリアは「ヨセフとの間におこったこの問題は、神の問題である。神はそれを解決しなければならならず、解決されるであろう。私は神を信頼すべきだ。」という結論に到達したのである。
神の決断
勿論、神はヨセフに天使を遣わされた。ヨセフはマリアを愛していたので、その妊娠のゆえ、結婚をすることができないと感じたのである。だから、個人的に彼女と離縁しようと考えたのである。彼は「このことを解決して下さい」と神に祈ったに違いない。なぜなら、彼は神を信じている人だった。
その夜、主の天使はヨセフに夢で伝えた。天使は主の命令を彼に授けたことが、マタイ1::20-21にある。まず天使が「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」とヨセフに言い、神がヨセフを励まして、婚姻の第二の局面に進めるようにされたのである。マリアを自宅に迎え入れる儀式を行い彼女と暮らすようにされた。それから神は、ヨセフにマリアについての真実を明かされた。天使は続ける、「彼女が身ごもったのは聖霊によるのである」。ヨセフがこれらの言葉を聞いた時、心の中の暗雲は消え去った。天使はヨセフに告げた。この妊娠は神の特別の業である、即ち、マリアは不浄な女性ではなく処女で、潔白、公正、正義、純潔であった。彼女を愛したヨセフがこれを聞いたとき、たいそう喜んだであろう。
そこで天使はヨセフに次のように指導した。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」言いかえると、マリアを守り、敬い、助けるように神はヨセフに求められたのである。ヨセフは命名することでこの子を受け入れた。これは公式の行いである。ヨセフはこれにより、イエスの法的な父親となった。
ヨセフが一つの決意で始めたものが、今や神の決断と成ったことに注目したい。我々は事実や理解を抜きにして物事を決断することが多い。神は人間社会に介入され、ヨセフは神の導きを受け入れることとなる。ヨセフはマリアと離縁するという前の決意を変えることとなった。そして、マリアを妻として迎え、彼女を助け敬った。そして彼女が出産するに際して、彼はその子供を我が子と受け入れ、イエスと命名した。
処女降誕の目的
神はどうしてイエスを処女から降誕するようにされたのか?天使はヨセフに言った、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1:21)。ギリシャ語で、唯一イエスのみがこれをされる、という表現が使われており、その他に救い主はいないということを意味する。イエスだけが自分の民を罪から救う。ここで、処女降誕の目的が示されている。罪から救うことができる方、救い主を神は我々に与えられた。
詩篇49: 8, 9に、「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはできない」。そして16節に、「しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府(よみ)の手から取り上げてくださる」とある。また、詩篇130:7,8にもマタイ1:21で表されていることの引用箇所がある。「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルをすべての罪から贖って下さる」。その時が来たら、神は処女を通して、救い主を与えられた。それは神であり、人でもあられ、我々を罪から贖われる。イエスのみが彼の民を罪から救うことができるのである。
イエスという名は、ヘブル語の動詞ヤシャーからとられている。それは人々を救いだすこと、特に危険、病や死から解放することを意味する。人はこのような状況にある同じ人間を子の様な問題から救いだせるであろうか?人間にとって最大の問題それは罪であるが、だれがこれから救い出すことができるだろうか?
人間の根本的問題
使徒行伝4:12でペテロはイエス・キリスト以外に我々の救い主はいないと言っている。イエスが我々を何から救うのか?罪である。人の根本的問題は、政治でも経済でも、その他、社会、医療、教育の問題ではない。人の根本的問題は、罪である。罪がすべての人の苦しみの源泉であり全ての問題の原因である。
創世記3章を見ると、人類に罪がどのようにして来たかがわかる。アダムは罪を犯した。そして彼を通して全ての人類が罪人となった。人の心が問題である。エレミヤ17:9は、我々の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる、と言っている。また、ローマ3章では、誰も神を求めるものはいない。全ての者は役に立たない者となった、とある。人には神に対する畏れがない。
イエスはまた人の心を次のように言っておられる。「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口が人の心から出てくる」(マタイ15:19)。人は神を敵としている。そして、神の命から断たれている。罪が人と神の間を裂いている。主イエスはこの罪の問題を解決するために来られた。そして、十字架によって神との和解を我々に与えて下さった。
我々は、次のことを悟らなければならない。イエスのみが完全に神であり、罪なき完全な人間である。だから、多くの人のために代価を払うことができる(マタイ20:28)。マタイ26:28にあるように、聖餐式を聖定されるとき、イエスは言われた、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血である」。
ベツレヘムの家畜の餌入れに寝かせられている赤子が人となっておられる全能の神であられる。ユダヤ人であれ誰であれ、罪人のために、十字架で死んでその罪を贖う方である。アブラハムに与えられた契約は、その子孫によって全ての国民が祝福されるとされている。これがそれである。即ち、キリストが教会を愛され、選ばれた者たちのために自らを与えられた。彼等は罪を悔い改め、主イエス・キリストを信じて救われる。イエス・キリストは彼等を全て救われる。
完全な救い
救いとはなにか?それは、まず罪からの救いである。罪の呵責からの救いでもあり、罪の力からの救い、罪の結果としての罰からの救いであり、罪というもの自体からの救いでもある。罪は我々の問題である。我々を神から引き裂く。罪は完全且つ究極的にイエス・キリストによって処理される。
それだけではない。神による救いは永遠の命を意味する。救いの目的は神と御子イエス・キリストとの交わりを持つことである。ヨハネ17:3には次のように書かれている。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。処女からお生まれになったイエス・キリストは父なる神に完全に従われ、我々の罪のために十字架で死なれた。そして永遠の命を我々に与えられた。これは神が救われる方法である。
さて、人々は自分で自分を救う道を色々と発明する。人は、暗示によって問題を解決できる、とあるフランスの心理セラピストは言った、「朝起きて『日々、私はすべて良い方向に進んでいる』と唱よ。すると問題は消え去る」と。ニューエージ宗教は、もうひとつの呪文を唱えさせる、「私は神である。自分の現実を創造できる神である」。ニューエージ宗教に限らず、このような思想行きつくところは、人は神のようになれる、という嘘である。こんな治療法は当然ながら間違っており、人間は人間の問題に解決を与えることはできない。
神は人間とその問題も見られる。その問題は罪の問題である。神は救い主、神のひとり子を与え、罪の問題に解決を与えられる。その方は、人が神との交わりを回復するために来られた。神は我々に言われる、「わたしはあなたの問題を知っている。それはあなたの心だ。あなたは、神から反逆して関係が壊れている。これ修復するには、救い主であり王であられる神の子イエスが必要である。その死を通して、あなたの罪の問題を解決され、交わりが回復する」。これこそ、イエス・キリストが行われたことである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
罪人がどんな努力をしても自らを救うことはできない。そのような努力は全く無意味である。しかし、神をほめたたえよ。我々を哀れみ、処女降誕により、救い主イエス・キリストを与えてくださった。
神の贈り物を受け取る
結論として、非常に真剣な二つの質問に至る。この父なる神からの贈り物、イエス・キリストを、あなたは受け取ったかどうかということだ。次に、あなたの子供たちにもこの贈り物が与えられたかどうかである。これは重要な質問であり、処女降誕のインマヌエルと呼ばれる、主イエス・キリストが、弟子に言っておられるように、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」となられたかどうか、これが重要である。
まことに我々に一人の子供が与えられた。それは我々の救いと喜びのためである。神の言葉が肉体をとり永遠の神が我々の間に住まれた。彼は「病む者と共に」住まわれた。説教者ウィリアム・ヘンドリックセンは言っている、「その病を癒すために」、彼はこんなところに来て住まわれた。「悪霊につかれているものを解放するために」、「心貧しいものを祝福するために」、「人生の重荷に打ちひしがれている者を解放するために」、「らい病に苦しむ人を癒すために」、「飢えた者に食べさせるために」来られた。「自らを生きたパンとして我々に与え、失われた者を見つけ出して救うために」来られた。(ウィリアム・ヘンドリックセン、「マタイの福音書」[Grand Rapids: Baker Book House, 1973] P.141)。
この御子は、ラテン語でノビス・クム・デウス-神われと共にありーである。イエス・キリストと父なる神は一つである。イエス・キリストの再臨の時のこれが更に明らかになる。黙示録21章はノビス・クム・デウスを詳しく教えている、「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神もとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」 ヨハネの黙示録21:1-4
神がイエス・キリストを通してあなたと共におられるということを喜べ。主イエス・キリストが永遠の神と一つであられ、我々の為に完全な罪の贖いを、十字架で完成されたことを受け入れよ。そうでないなら、神があなたに憐れみを注がれ、聖い救い主イエス・キリスト以外に、全く希望がないことがわかるように、と祈る。
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