TULIPキリスト者

Romans 3:9-18
P. G. Mathew | Sunday, October 24, 2021
Copyright © 2021, P. G. Mathew
Language [English]

IIテモテ3:16は教えている、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」。私が成長するにつれて、両親は私に神の言葉を教え、私が間違ったことをしたときは叱責し、正し、義を行うように訓練してくれました。 結果、私たちの教会は福音をのべ伝える教会となっています。IIテモテ4:2には「御言葉をのべ伝えなさい」とあります。 誰がするにしても、神の言葉を説教しなければなりません。神の言葉、即ち福音をのべ伝えない教会はサタンの会堂です。多くの教会は福音を説いていません。彼らは人々を楽しませ、説教者がより多くのお金を得ることができるために存在しています。私たちの教会は、寄付はしますが、お金を儲けることに興味はありません。

かつて私たちは悪魔の子でしたが(ヨハネ 8:44)。しかし今、私たちは神の子となっています。これは奇跡です!今日、私たちはTULIPクリスチャンについて説教します。 TULIPは改革派神学を頭文字でまとめたものです。

1. T: 人間は完全に堕落している

私たちは悪魔の子でした。 イエス・キリストを除くすべての人々、アダムの子孫は、本質的に悪魔の子です。あなたが従う者があなたの主人です。アダムとイブは悪魔に従いました。これを正しく理解するには神学を知らなければなりません。

Tは人間の完全な堕落を意味します。ローマ3:9–18:

「すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。次のように書いてある、『義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない』」。

これは完全な人間が完全に堕落している様を言っています。イエス・キリストを除いて、すべての人は罪を犯したのです。イエスは罪を犯さなかったという証拠は何ですか?それはイエスの死からの復活です。

2. U: 神は無償で人を選び救われる

神の選びは神の恵みに基づいて行われます。神の意志によって、すべての滅びにさだめられている人々の中から、神は数少ない人々を神の子として選ばれます。 ローマ8:29で、「神はあらかじめ知っておられる者たち」とパウロは言っています。ジョン・マレー師によれば、「あらかじめ知っておられる」とは「あらかじめ愛された」ということを意味します。神はいつ私たちをあらかじめ愛されたのでしょうか?それは永遠の過去においてです。ですから、私は心配しません。神は私たちの味方だからです。無条件の選びは神の愛を意味します。パウロはこう続けます、「更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」。驚くべきことに、主イエスを私たちの兄と表現しています。主の栄光がこの奇跡をもたらしたのです。

ローマ9:13は、「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」とあります。二人とも神の前に罪人(つみびと)でしたが、神が選ばれたのは一人だけでした。私はこの神の選びついて理解しているわけではありません。しかし、この選びには誇りを持っています。なぜなら、私たちは悪魔の子であったのに、それでも神は私たち少数を神の子として選ばれたからです。

神の選びの民は少ないです。しかし、この少数の人々は福音を聞くと、それを信じ、最後まで耐え忍ぶようになります。したがって、真の教会から離れる人は皆、永遠に呪われているのです。ここで私たちは真の福音を宣べ伝えます。世界中で真の福音を聞くことができる教会はほとんどありません。

3. L: 贖われる人は限定されている

キリストの贖いの死は選ばれた者に限定されているものです。マタイ7:13-14にあるように、選ばれる人はほとんどいません。神の選びの民とは、父なる神が彼らの罪を償うために、まず御子に与えられた人々です。

それでは、この限定的な償いとは何を意味するのでしょうか? そこには人類全体が含まれるのでしょうか?いいえ、Iヨハネ5:19は言っています、「また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている」。世界に住む大多数の人間は実は選びの民ではないのです。

つまり、L は限定された償いを意味します。キリストの贖いは神の選ばれた者に限定されています。主イエスご自身がこれを教えておられます。ヨハネ17:2で彼はこう言いました、「あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから」。永遠の昔、父なる神は私たちを救うために御子に与えてくださいました。(PGM) 私たちは神の前に罪を犯し、霊的に死にました。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(ローマ6:23)。

ヨハネ17:6で主イエスは言われました、「わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、御名をあらわしました。彼らはあなたのものでありましたが、わたしに下さいました。そして、彼らはあなたの言葉を守りました」。そして、主イエスは全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救いの源となられました(へブル5:9)。

ヨハネ17:9は、あなたが神に従っていないのであれば、それはあなたが永遠に呪われている、とはっきりと言っています。実はこれが真の福音の重要な部分なのです。主イエスは、神の民は神の言葉に従いました、と言われました。聖書全体が神の言葉です。ヨハネ17:9で、「わたしは彼らのためにお願いします」と、主イエスはこう言い始められました。これは、本当は素晴らしい祝福の言葉なのです!イエス・キリストは私たちのために祈っておられ、御父はその祈りを聞いてくださいます。さらに、彼は常に神の御心を祈っておられます。もし神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょうか? そこでイエスはこう言われました。「わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです。彼らはあなたのものなのです」。私たちはいつから父のものになったのでしょうか?それは永遠の過去においてです。そしてヨハネ17:24 で主イエスはこう言っておられます、「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい」。一体、父なる神はいつ私たちを選ばれたのでしょうか?それは私たちを想像する前です。主イエス・キリストにおいて、私たちは私たちを救い出すために、贖いの犠牲を払うために主イエス・キリストに与えられていたのです。

償いは世界の全員ではなく、選ばれた者に限定されます。事実、救われていない家族に証ししますが、その多くは聞く耳を持ちません。彼らは永遠に呪われているのです。選びには、永遠の命を受ける者の選びと、永遠の滅びを受ける者の選びがあります。これは二重の選びといいます。

選びの子は神から御子イエス・キリストへの贈り物です。 選びは世界の創造の前に行われました。ローマ9:13には、この二重の選びについて書かれています。パウロはこう書いています、「『わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ』と書いてあるとおりである」。エサウとヤコブは同じ父と母を持っていましたが、永遠の命に選ばれたのは片方だけでした。 ほとんどの罪人は怒りと滅びを受けますが、選ばれた者は慈悲と栄光を受けます。マタイ25:46には、永遠の命を受ける人々と永遠の罰を受ける人々について書かれています。これは二重の選びです。地獄への選びと天国への選びなのです。あなたが天国に行くよう選ばれていること、永遠の刑罰は受けないことをぜひ確認してください。

ローマ9:22-24では、この二重の選びについてもう一度書いてあります。パウロは書いています、「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか」。神を讃美しましょう!神の選びの民である私たちは、新しい天と新しい地で神とともに永遠に住むことができる、という栄光を受けるでしょう。そこには罪はなく、幸福と神との交わりだけが存在します。自分の使命と選びを確認してください。選びの人は福音を信じるのです。

だからこう書いてあります、「もし彼が、ご自分の栄光の富を、あらかじめ栄光のために備えておられた慈悲の対象者たち、つまりユダヤ人だけでなくユダヤ人たちからも呼び寄せられた私たちさえも、自分の栄光の富を知らせるためにそうしたのならどうなるだろうか」 。また、異邦人に関してローマ9:27にはこう書かれています、「また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる、「たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう」。私たちは残りの者です。私たちは救われている者で、永遠の命が与えられています。ハレルヤ!神の選びの民、即ちここでいう残りの人々です。私たちはお金を大量に稼ぐことはできないかもしれませんが、私たちには永遠の命があります。

4. I: 不可抗的な恩寵

私たちは神の救いに対して抵抗するかもしれません。しかし最終的には神が勝利されます。創世記32:25でヤコブに行われたように、神は私たちの腰の骨に触れて致命傷を与えられます。ヤコブは神と争っていました。その人がヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだに外れました。ヤコブの腰への致命傷によって、突然、ヤコブの抵抗は終わりました。私たちは神にいくらでも抵抗できますが、神は必ず勝利されます。ハレルヤ。このことは、抗しがたい神の恵みを表しています。神は御心を行われます。

パウロは、神の御心に抵抗していました。Iテモテ1:15–16でパウロはこう言います、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである」。これは、私たちが恵まれたものである、ということを示しています。使徒9:1–9は、神がパウロの抵抗に勝たれたkとを記録しています。

「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。そこで彼は『主よ、あなたは、どなたですか』と尋ねた。すると答があった、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう』。サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった」。

私たちはいくらでも神に抵抗することができますが、神のご意志は遂行されます。それで、使徒9:22、26にはこう書かれています、「しかし、サウロはますます力が加わり、このイエスがキリストであることを論証して、ダマスコに住むユダヤ人たちを言い伏せた. . . . サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に加わろうと努めたが、みんなの者は彼を弟子だとは信じないで、恐れていた」。

5. P: 信仰者の堅忍

これが改革派神学です。聖書は、苦しみを通して忍耐力を得ることができると教えています。 ローマ5:3–4にこう書いています、「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである」。私たちは苦しみを好みませんが、苦しみは忍耐力を生み出します。忍耐力が人格を生み出す。そして人格は神の栄光への希望を生み出します。

では、私たちはどのような種類の苦しみを経験する可能性がありますか? パウロは、Ⅱコリント11:23-27で、自分が受けた苦しみについて次のように語っています。

「わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。いくたびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。」

苦しみなど嫌だというでしょう。神は私たちに許可を伺うかたではありません。しかし、神は私たちに良いものを与えられる方です。ヘブル12:1にはこう書かれています、「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか」。キリスト者の人生はレースであり、人生のすべてを背負って走るわけにはいきません。ヤコブ5:11は言っています、「忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみに富んだかたであるかが、わかるはずである」。

私たちはTULIPクリスチャンだと言いました。 あなたがTULIPクリスチャンなら、喜んでください!もしあなたがイエスを信じていないなら、今日彼を信じてください。「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒4:12)。

良い土壌を持つ人は再生する人です。彼らは神の言葉がのべ伝えられるキリストの教会で粘り強く働き、30倍、60倍、100倍の実を結ぶでしょう。彼らは永遠の命を受け取る神の選びの人々です。彼らは神の愛の良い行いに富むことでしょう。

神は永遠の命を受けるように少数の人々を選ばれ、多くの人々が永遠の罰を受けるように定められたのです。私たちはイエス・キリストだけを信じて救われますように。アーメン。