クリスチャンの子供たちを育て上げる

Proverbs 1:7-9
P. G. Mathew | Sunday, June 20, 2021
Copyright © 2021, P. G. Mathew
Language [English]

クリスチャンの父親達に神はなんと言っておられるか?

今日は父の日である。しかし問題は、神がクリスチャンの父親たちに何を語っておられるかということである。その答えは大学では教えられていない。北朝鮮から韓国に逃れ、最終的に米国に来たパク・ヨンミさんの話がある。彼女は米国の一流大学では、マルクス主義を教えていることを知って驚いた、ということだ。[1]

1. 答えは聖書のみにある

答えは今日の大学にはない。多くの教会も神の言葉を信じていないため、教会にも答えはない。多くの福音派教会でさえ、真の福音を説くことを拒否している。これを疑うならば、実際に、福音が説かれているかどうかを言って確かめてみるがよい。答えは「いいえ」だ。ほとんどの神学校は聖書を信じていない。

答えは聖書にしかない。聖書を通して、神が個人に語られる。私たちの教会は、毎日聖書を読むことで祝福を受けている。毎日何章も読み、これを続けている。

ウェストミンスター信仰告白の第 1 章では、聖書の権威について教えている。聖書で神が語られ、私たちは神が言われることを聞き、そのとおりに行動しなければならない。重要な点は、神がクリスチャンの父親たちに語られていることは全て聖書にのみあるということである。

2. クリスチャンの父親達とはどのような人か?

神が選ばれた人である

第一に、クリスチャンの父親は神の選びの民である。神の選びの民は数少ない。神の選びの業は理解しがたいものがあるが、それは喜ぶべきことである。

ローマ8:29–30でパウロは書いている、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。 30そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」。

パウロは「神はあらかじめ知っておられる者たちを、あらかじめ定めて下さった」と言っている。これは神の選びについて教えている。ジョン・マレー師は、「神が前もって知る」ということは「神が前もって愛する」と言っておられる。永遠の昔から、神は私たち罪人を知っておられた。しかし、私たちは完全に堕落していた。TULIPの頭文字で知られている重要な教えがある。それは、完全な堕落、無条件の選び(私たちは神の救いに何ら寄与しない)、限定的な贖罪(キリストが成し遂げた贖罪はすべての人に適用されるわけではなく、神の選びの民のみに適用される)、抵抗できない恵み(仮に私たちが抵抗したとしても、神は必ず勝たれる)、そして信仰者の堅忍(最後まで選びの民は忍耐して神に従うこと)である。従って、クリスチャンの父親は神から選ばれた者である。なぜ選ばれたのか、それはわからない。なぜなら、私は他の人と同じように罪人であり、完全に堕落していたのである。それでも、神は私を永遠に救われるように選んでくださった。

神によって再生した人である

クリスチャンの父親は、神の選びの民であり、時がくると霊的に再生される。これも多くの教会では説教されていない真理である。今日の福音主義の教会の多くは、霊的再生について教えない。エペソ2:1–5でパウロは、「あなたは罪過によって死んでいた」と書いている。かつて私たちは神の律法を破ることしかできなかった。これが罪によって死んでいる状態であった。従って、「かつてはこの世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていた」。空中の権をもつ君とは誰か? それは悪魔である。即ち、私たちのかつての父は悪魔であった。しかし状況は変わり、今では私たちの父は天の神となった。

パウロはさらにこう続けている、「不従順な人々の中で今も働いている霊[悪魔]に従って、私たちも全員彼らの中で生きていた。そして、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった」。悪魔は我々に完全な服従を要求する。だから、「他の人たちと同じように、私たちも生まれながらに[神の]怒りの対象であった。しかし、憐れみに富む神は、私たちに対する大きな愛のゆえに、私たちを生かしてくださった」のである。-これが霊的再生である。これこそ神に感謝すべきである。霊的再生において、私たちは新しい心(神の心)を与えられた。新しい意志(神の意志)も、そして新しい感情(神の感情)も与えられたのである。従って、私たちは艱難の中でも栄光を得ることができるのである。私はいつも苦しみを喜ぶわけではないが、時々そうすることがある。

聖霊に満たされた人である

クリスチャンの父親は聖霊に満たされている。 彼は聖霊のバプテスマを受けている。主イエスは言われた、「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1:8)。神は私たちをこの地上に生まれさせられた。私たちは好む好まざるに拘わらず、神の御心に従って行うべきことを行わなければならないのである。

イエス・キリストに従う人である

クリスチャンの父親は神の言葉を聞き、キリストに従う。主イエスについて聖書は言っている、「彼は御子(永遠の神の子)であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となる」(へブル5:8–9)。ペテロは言った、「あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい」(2ペテロ1:10)。これは、今というときに神に従う、とうことを意味する。

3. クリスチャン家庭のリーダーは父親である

クリスチャンの父親は家庭の統治者であり、自分の下にある家族に対して責任を負っている。1コリント11:3は言っている、「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である」。家族の中では父親がかしら(リーダー)であり、キリストが父親のかしらである。父親はすべての主であるキリストに申し開きをしなければならないのである。

4. クリスチャンの父親は家庭を治める

1テモテ3:4–5 でパウロは、かしらについて次のように書いている、「自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか」。

クリスチャンの父親は自分の家庭を管理しなければならない。私は自分の家族を責任をもって管理している。週に6日働いており、誰にもお金を借りていない。

5. クリスチャン家庭の子供たちは親に従う

クリスチャンの父親の子供たちは、神の選びの民であれば、信仰をもつ者となり、両親や牧師に従わなければならない。神はローマ9:13で言われた、「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」。ヤコブもエサウも同じ父親、同じ母親を持ち、同じ時期に生まれた。私が言いたいのは、もし子供たちが神の選びの民でなければ、彼らは邪悪になるということである。彼らにバプテスマを施すが、もし彼らが神を信じて従わなければ、やがて教会から出ていくことになる。

テトス1:6は言っている、「長老は、責められる点がなく、ひとりの妻の夫であって、その子たちも不品行のうわさをたてられず、親不孝をしない信者でなくてはならない」。ただし、これは子供たちが神の選びの民でない場合である。(PGM) 私たちは神の教会である。従って、何人かを教会から追い出さなければならなかった。主イエスは言われた、「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉(よみ)の力もそれに打ち勝つことはない」(マタイ16:18)。

6. クリスチャンの父親は毎日子供たちに聖書を教える

私が幼い頃、両親は毎日朝の4時に起きて祈っていた。私たちは朝5時から6時まで起きて祈り、聖書を教えてもらった。午後7時から8時まで、また同じことをした。あなたは、与えられている時間をこのように使ったらどうか? 私はそのように訓練され、毎日聖書を読み、教えられ、祈り、神を賛美するように訓練された。

7. クリスチャンの父親は子供を崇拝してはならない

自分の子供を崇拝する親がいる。崇拝されるべきは神だけであり、子供ではない。

8. クリスチャンの父親は家族を養うべきである

1テモテ5:8にあるように、「もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい」。神への信仰をもたない者の多くは親族や家族を養っている。

9. クリスチャンの父親は子供が誰と交流しているかを注意して見るべきである

詩篇1篇にあるように、父親は子供たちが敬虔な人々とだけ付き合うように気をつけなければならない。詩篇の全150篇の中で、この1篇がテーマとなっている。

親が子供たちに不敬虔な人々との交わりを許すなら、彼らは破滅の道を歩む可能性がある。(PGM) パウロは1コリント15:33–34で警告している、「悪い交わりは、良いならわしをそこなう。目をさまして身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ」。

私たちの教会では不敬虔な人々を破門にする。なぜなら、彼らをそのままにしておくと、他の人を堕落させることになるからである。

10. クリスチャンの父親は子供を訓練すべきである

神が子供を訓練するように、父親も子供を訓練しなければならない。「懲らしめ」という言葉はヘブルへ12:5~11の中で10回出てくる。神は子供たちに懲らしめを与えられるのである。

懲らしめには、5つの側面がある。2テモテ3:16–17にあるように、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」。パウロはそのうち4つを挙げているが、それに5つめの「罰」を加える。親は体罰をもって子供に知恵を教え、愚かさを追い出さなければならない。私の両親はそのように私を教育した。これら5つの側面は全てが重要である。私たちが子供を崇拝しないのは、それが罪だからである。我々が「素敵だ。すごい」と言ったりするが、神は外側を見られない。神は、一人ひとりの心を見られる。だから、次のように書いてある、

「そしてあなたは、息子としてあなたに宛てた次のような励ましの言葉を忘れています。『わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる(へブル12:5–11)。

神は神の民に訓練を与えられる。1コリント11:30は言っている、「あなたがたの中に、弱い者や病人が大勢おり、また眠った者も少なくないのは、そのためである」。しかし、彼らには天の国が約束されている。

体罰は親の権威を表す。あなたは子供に体罰を行う用意はあるか? 両親は私に体罰を与えた。私たちはあまりに裕福になりすぎている。聖書には何と書かれているか?「ただ衣食があれば、それで満たされていると思うべきである」とある(1テモテ6:8)。

「聖書はすべて神の口によって語られたことばである」。聖書のような本は他にない。聖書の中で、神は私たちに個人的に語られる。「聖書はすべて神の言葉」であり、「教え、叱り、正し、義の訓練に役立つ。これよって神の人はあらゆる良い業を行うために徹底的に備えられる」。 教え、叱責し、矯正し、訓練し、罰を与える、私の両親は、幸いにも私と兄弟全員にこれを行ってくれた。あなたは、体罰をもって両親に扱われた経験があるだろうか?

11. クリスチャンの両親と教会の牧師は子供に尊敬されるべきである

1テサロニケ5:13は、教会のリーダーについて教えている、「彼らリーダーの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい」。ギリシャ語はフペレクペリソウで、「最高の尊敬」を意味する。つまり、リーダーが発言すると、部下は従うということである。従順がなければ敬意もない。

へブル13:17は同じことを教えている、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない」。これは親や牧師にも当てはまる。私は何年にもわたって多くの人たちと話をしてきたが、彼らは必ずしも従うわけではなかった。人がどれだけお金を稼ぐかは関係ない。問題は、あなたが天国に行くかどうかである。

エペソ6:1は教える、「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである」。また、へブル5:8–9は主イエスについて言っている、「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、完全な者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となられた」。あなたがもしも主イエスに従って生きていないならば、それはあなたは救われていないことを示している。もしも従っていないなら、今すぐ悔い改めなさい。そうすれば神はあなたの罪を赦されるであろう。

12. 箴言の戒め

私は子供のときから箴言で育てられた。箴言1:7–10にはこう書いてある、「主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。わが子よ、あなたは父の教訓を聞き、母の教を捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい冠となり、あなたの首の飾りとなるからである。わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない」。

愚か者とはだれか?ギリシャ語のイディオテス、それは詩篇でこう呼ばれている、「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない」(詩篇14:1)。愚か者は誰の言うことも聞かない。特に神の言われることを聞かない。あなたは世界で最も裕福な人になることができても、神を信じなければ、あなたは愚か者である。2テモテ3:15でパウロはこう言っている、「あなたは幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている」。ほとんどの金持ちは聖書を読んでいると思うか? いいえ、彼らは神を憎んでいる。彼らの神はお金である。

箴言13:14は言う、「知恵ある人の教は命の泉である、これによって死のわなをのがれることができる」。死は地獄を意味する。

詩篇13:24にはこうある、「むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる」。

あなたの子はどうか?箴言はこうも言っている、「知恵ある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害をうける」(箴言13:20)。

箴言22:6は言う、「子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることがない」。主イエスは「「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と言われた(ヨハネ14:6)。

ジェイ・アダムズ師は、何かを習慣づけるに6週間で十分だと述べている。 私たちは何年も聖書を読んできており、それが習慣になっている。だから、主イエスの言われることに従おう、「子をその進むべき道に沿って訓練しなさい。そうすれば、年老いても、その道から離れることはない」。

箴言28:13–14にはこうある、「その罪を隠す者は栄えることがない、言いあらわしてこれを離れる者は、あわれみをうける。常に主を恐れる人はさいわいである、心をかたくなにする者は災に陥る。

箴言3:5–6にはこう書かれている、「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」。神に頼らず自分の知恵に頼るような愚か者になるな。

箴言3:7は警告している、「自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ」。悪は愚か者のすることだ。主を恐れるとき、私たちは悪を避けるようになる。 これこそ私たちの受けるべき訓練である。

箴言4:18–23は言う、「正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる。悪しき人の道は暗やみのようだ、彼らは何につまずくかを知らない。わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ」。「耳を傾けよ」の意味を知っているか? それは、聞いて、すぐに、正確に、喜んで実行することを意味する。「それを、あなたの目から離さず、あなたの心のうちに守れ。それは、これを得る者の命であり、またその全身を健やかにするからである。油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」。

最後に箴言14:7にはこうある、「愚かな者の前を離れ去れ、そこには知識の言葉がないからである」。愚かで神を信じない者はいつも嘘をつく。彼は十戒を無視している。そのような者から離れよ。

結論

マタイ25:46で主イエスは言われた、「そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。私たちの短い人生には終わりがある。最終的には地獄か天国かのどちらかに行き、永遠の命か永遠の刑罰を経験することになる。

主イエスは私のような罪人を救われた。それならば、どのような罪びとをも救われるのである。主イエスはこう祈られた、「わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、み名をあらわしました。彼らはあなたのものでしたが、わたしに下さいました。そして、彼らはあなたの言葉を守りました」(ヨハネ17:6)。神の選びの人は神の言葉を聞き、信じ、神の言葉に従う。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(ローマ 6:23)。

使徒行伝4:12はこう教えている、「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。そして、2コリント5:21ではキリストについてこう書いてある、「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」。

これは深い言葉である。人はだれでも、かならず神か悪魔かのどちらかに従うのである。主イエスは言われた、「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10:10)。したがって、神が、私たちが罪を悔い改め、赦しを受け、永遠に救われるよう助けてくださいますように。アーメン。

[1] https://www.foxnews.com/us/north-korean-defector-ivy-league-nuts